午後六時十二分/Epilogue







 
その明かりも灯らぬ暗い部屋には、底冷えするような空気が流れている。
何本もの配管が複雑に絡み合う壁に寄せるように置かれた幾つかの大きな鉄製の箱が、
家具一つないその部屋の性質を物語っている。
部屋は倉庫であり、箱はコンテナであった。
子供の背丈ほどもある鉄製のコンテナは重機で運搬することを前提にしているのか、
無造作に二つ、三つと積み上げられている。
どこか遠くから、空調の眠気を誘うような低音が響いていた。
時折部屋全体が微かに揺れる他には動くものとてない、無闇にがらんとした空間には、
しかし目を凝らせば二つの影がある。
片膝を立て、鉄のコンテナに背中を預けて座る鏡写しのような二つの影を、小さな光が照らした。
じ、と一瞬だけ燃え上がり、すぐに消えたのは影の擦ったマッチの炎である。
消えた炎が子を産んだように、後に小さな火が二つ、残った。

「狡兎死して走狗煮らる……か」

肺腑に満たした紫煙を細く吐き出しながら呟かれる声に、傍らに座る影が同じように
煙草の火を大きくしてから応じる。

「つまらん愚痴だな坂神。御堂あたりの病に侵されたか」

闇の中にも鮮やかな長い銀色の髪が微かに揺れる。
軽く灰を落としながらゆらゆらと紫煙の舞う中空に視線を漂わせる男を、光岡悟という。

「我々はいつだってこうしてきただろう。南方でも、大陸でも。
 今更、儀仗隊の捧げ銃でもあるまい」
「それは、そうだが……」

言いよどんだ坂神蝉丸が、その先の言葉に詰まる。
船が、揺れた。
結局、定刻まで御堂と石原が戻ることはなかった。その生死とて知れぬ。
今はただ二人、がらんとした暗い倉庫の中で、船に揺られている。
寒々しい闇の中、鬱屈した感情が滓のように腹の底に沈んでいく。
自分は構わぬという思いはあった。
どれほどの戦功を挙げようと畢竟、坂神蝉丸は脱走兵である。
命令不服従に軍備品の横領も加わろう。
銃殺を免れ得ぬ身に歓待など望むべくもない。
拘束されるでも憲兵に引き渡されるでもないこの待遇は、むしろ破格とも言えた。
九品仏によるプロパガンダに利用されるにせよ、それは仕方のないことでもあった。
元来、強化兵とはそういった政治色を払拭しきれぬ身の上でもある。
しかし。しかし、と蝉丸は思う。
しかしそれは、坂神蝉丸に対してのみ与えられるべき仕打ちであろう。
暗い部屋を見渡す。
置かれたコンテナに詰まっているのは銃器か、弾薬か。
貨物倉庫に詰め込まれた強化兵は、軍の備品扱いか。
それでいいと思っていた。
國の礎となるならばそれでもいいと、かつての蝉丸は考えていた。
だがこの島での戦いを経た今となっては、既に疑問しか浮かばぬ。
ましてこれが、己に忠義を尽くす者への扱いか。
光岡悟は九品仏少将にとって欠くことのできぬ懐刀ではないのか。

「閣下はお忙しい身だ」
「……」
「元より汚れ役の俺などに割くお時間などありはせん」

それは、蝉丸の迷妄を喝破するように直截な、躊躇いのない声だった。
だから蝉丸は、言葉を飲み込む。

「そんなことよりもな、坂神。これからは我等も忙しく立ち働くことになるぞ。
 閣下の作られる新たな國の基となるべく、今上の御世を影から支え奉るのだからな。
 まずは老いさらばえた狒々どもを駆逐し、未だ幼くあられる陛下を警衛し奉ることになろう」

闇の中、小さな火が躍る。
身振りを交えて楽しげに語る光岡の手にした煙草から落ちる灰を、蝉丸はじっと見ていた。
はらはらと、花の散るように白い灰が舞い、闇に溶けていく。
それがどこか、何かを暗示しているかのように感じられて、蝉丸は小さく首を振る。

「……貴様がいいなら、構わんさ」

結局、それだけを呟いた。
最後に大きく紫煙を吸い込んで、煙草を床で捻り消す。
別れた道は交わり、これからも続いていく。
二度と再び、違えることもあるまい。
溜息を隠すように細く吐いた紫煙は、ゆらゆらといつまでも漂っている。
煙の向こうに志半ばに倒れた少年の幼さの残る顔が浮かび、やがて消えた。
それきり口を噤んで、蝉丸は静かに目を閉じる。
何も残らぬではない。
覚えている。刻んでいる。
ただ、泥のように疲れていた。
その明かりも灯らぬ暗い部屋は、無闇に広い。



******

 
 
少女がひとり、ぼんやりと海を眺めている。
波間の向こうに日が暮れようとしていた。
目深に被った麦藁帽子のつばが海風に煽られてはためくのを押さえるでもなく、
観月マナはひんやりと冷たい手摺に寄りかかったまま、舷側に寄せ返す波濤から
際限なく吹き上がる白い泡沫をその霞のかかったような瞳に映している。

「あ……」

ふわり、と。
一際強い風が、吹き抜けた。
咄嗟に伸ばした手は間に合わない。
麦藁帽子が、風に舞う。
眼だけで追ったそれを、

「よっ……、と」

掴み取った手が、ある。
ひょろりと肉の薄い、背の高いシルエット。
少年から青年に移り変わろうとする年代特有の、どこか遠くを見るような眼差し。

「えっと……藤田、だっけ」
「呼び捨てかよ」

苦笑したその少年のことを、マナは何も知らない。
ただこのプログラムの生還者として同じ回収船に乗り合わせたという、それだけの知識しかなかった。
否、それ以前の問題として、

「ま、いいか。……あんた、何も覚えてないんだって?」
「……」

マナが沈黙する。
事実であった。
マナには、この島に来てからの記憶がない。
突然拉致され、妙な兎の映像に殺し合いをしろと強要されたのは覚えている。
だが、そこまでだった。
その後の記憶が、すっぽりと抜け落ちている。
じりじりと暑い砂浜で目を覚まし、回収に来た軍の人間に救助されるまで、何をしていたのかがわからない。
気がつけば、そこにいた。
そう言う他はなかった。

「っと。悪いこと、聞いちまったかな」
「……別に」

ぼそりと呟く。
事実、何の感情も浮かばない。
広報によれば、生存者は十六名。
行方不明者八名。
そして死者、実に九十六名。
二十四時間で、百人近くの人間が死んでいる。
それだけの殺戮が行われたあの島で、自身が何をしていたのかはわからない。
わからないのは恐怖でもあったが、しかしそれだけのことだった。
空白の記憶に、良いも悪いもありはしない。
たとえばその空白に、何か大切なものが詰まっていたのだとしても。
写真のないアルバムを眺めることに、意味などなかった。
それでも。

「……」
「……ねえ」

沈黙に耐えかねたか、困ったような顔で頭を掻いている少年に、尋ねる。

「あたし、あの島で何を……ううん、違う」

言いかけて、口を噤む。
僅かな間を置いて、仕切りなおす。

「何かを……できたのかな」
「……」

それは、ただ一つ観月マナの思考と感情との周りをぼんやりと、しかし切実に巡る問いであった。
現実として、マナはここにいる。それはいい。
記憶の空白も、それ自体は構わない。
それは単に、そういうものだ。
時間が経てば、得体の知れない恐怖に押し潰されそうになるのかもしれない。
しかし今はまだ、そのことに実感が伴ってはいなかった。
だからこそ今のマナが自身に問うのは、ただその一点である。
自身に問い、しかし記憶のない身に答えの出ようはずもない。
だから、声に出した。
九十六人の死者を出した二十四時間を乗り越えた人間が、目の前にいる。
彼が、マナの問いに何らかの示唆を齎してくれることを期待した。
しかし。

「さあな。俺はあんたを知らねえ」

少年は、あっさりと期待を粉砕する。
内心で小さく溜息をついて、マナは少年から視線を外す。
夕焼けの海がマナの短慮を笑っているように感じられて、目を閉じた。
寄りかかった手摺のひんやりとした感触が心を冷ましていく。
そんなものだろう、と思う。
彼には彼の二十四時間。マナにはマナの二十四時間。
それは、重ならない。それは、分かち合えない。
たとえばマナに記憶があったとして、同じことを彼に訊かれれば、同じように返しただろう。

―――あたしは、あんたなんか知らない。

取り付く島もなくそう言い放つ自分の声を想像した瞬間、どうしてだか心の隅が、疼いた。
じわりと、閉じた瞼の端に涙が滲むのがわかる。
それを少年に気取られるのが嫌で、マナは目を閉じたまま顔を伏せる。
震える唇を、奥歯をかみ締めて堪える。

「……けど、さ」

少年が、何かを言おうとしていた。
もういい、と。
もういいからどこかに行ってと、叫びたかった。
口を開けば涙声になりそうで、声を出せなかった。

「昨日は百二十人からの数がいて、今日こうして帰りの船に乗ってるのは俺たちだけでさ」

少年が訥々と、ぶっきらぼうに喋っているのが聞こえる。
デリカシーのない男だと感じる。
態度で分かれと思う。
独りに、してほしかった。

「なら、そこには何か意味があるって……信じたい。そういうのは、あるかもな」

滲んだ涙が珠になって、目の端から零れそうになる。
堪えきれなかった。
袖で拭えば感付かれそうで、だからマナが目を伏せたまま無言で歩き出そうとした、
正にそのタイミングで背後から声がした。

「……浩之」
「お、柳川さん。どうだった?」

びくりと肩を震わせたマナに気づいた様子もなく、少年が声の主に言葉を返す。

「こちらには来ていないようだ」
「そっか……ったくあの人は、どこをほっつき歩いてんだか」
「大きな船ではない。すぐに見つかるだろう」
「まーな」

そんなやり取りが耳障りで、足早に立ち去ろうとしたマナに、少年の声が響く。

「おい、あんた!」
「……」

マナは足を止めない。
背後から、かつかつと追いかけてくるような足音が聞こえる。
鬱陶しかった。

「少なくとも俺は……俺たちは、あんたに助けられたんだぜ」
「え……?」

一瞬、何を言っているのか理解できず。
意味を咀嚼して驚いて、思わず振り返って、涙目に気付いて急いで顔を背けようとして、
ぽふり、と。

「わ……」

被せられたのは、麦藁帽子だった。
突然の闇に覆われた視界の外、帽子の上からぽんぽんと軽く頭を叩く感触。
目深に押し込まれた帽子のつばを持ち上げたときには、少年はもう踵を返した後だった。

「じゃーな」

手を振る背中だけが、あった。



******

 
 
「お、あれ……」
「倉田といったか」

舷側の向こうから歩いてきた少女の名を、柳川が即座に告げる。

「一度会っただけでよく覚えてんな……さすが刑事」

茶化すような浩之の言葉に柳川は答えない。
代わりに呆れたような視線が返ってくる。
軽く肩をすくめてみせた浩之が少女、倉田佐祐理に向けて小さく手を上げる。

「よう」
「あ……藤田さんたち」
「あんたも刑事だったのか」
「……?」
「いや、なんでもねえ」

きょとんとした顔の佐祐理に、言い繕うように浩之が続ける。

「そういや、あんたが川名を助けてくれたんだってな」
「あははーっ、それは違いますよー」

屈託のない笑顔と共に手を振ってみせる佐祐理。

「佐祐理はただ、軍の方に川名さんの居場所を伝えただけですー。
 船まで運んでくれたのはあの方たちですよー」
「けど、あの……パンも持ってきてくれただろ」

パン、と口にする瞬間、浩之の表情に微妙な影が落ちる。
その脳裏に浮かぶ存在がパンというカテゴリに収まってしまう代物ならば、自分は一生白米党でいよう。
そんな風にすら思えてしまう記憶を振り払うように、少し乱暴に頭を掻く。

「あれがなきゃ川名は目を覚まさなかったかも知れねえ」
「うーん……」

苦笑気味に小首を傾げた佐祐理が、顎に指を当てたまま反駁する。

「あれも佐祐理じゃありませんねー。大切な友人からの預かりものを届けただけですー」
「友達……って、あの」

この回収船に乗り込む前、佐祐理と熱心に話し込んでいたその姿を、浩之は思い浮かべる。
陽光の下、白く輝く毛並み。
精悍に伸びる手足と、涼やかな目をした女性の顔。
まるで御伽噺から飛び出してきたような、それは半人半獣とでもいうべき存在だった。
全身を覆う毛皮の他には一糸纏わぬその姿は、見る者の眼を捉えて離さぬ神々しさをすら秘めていた。

「……藤田さん、もしかしていやらしいことを考えていますか?」
「考えてねーよ! そういや、あの人は船に乗らなかったみてーだけど……」

人、と呼んだ瞬間、佐祐理の微笑がほんの少し深くなったことに浩之は気づかない。
それこそが、藤田浩之という少年の美徳であったのかもしれない。

「舞は……友人は、まだあの島にやり残したことがあるそうなので」
「やり残したこと?」
「何でも魔物を迎えに行く、とか」
「……なんだ、そりゃ」
「さあ? 舞は時々、不思議なことを言う子ですし……」

あっけらかんと、しかし否定の色の一片すらなく、佐祐理が言ってのける。

「でも、あの子がそう言うのなら、それは本当に大切なことなのでしょうから」
「そっか……」

微笑の奥に横たわる深く濃密な信頼を、依存と呼ぶべきか、陶酔というべきか。
そのどちらをも選ばず、浩之は言葉を切った。
僅かな沈黙に、ふと佐祐理の微笑がその色を緩める。

「そういえばお二人とも、お散歩の途中でしたか?」
「……ああ、そうだった」

言われて初めて気付いたように浩之が天を仰ぐ。

「いや、散歩じゃねーよ。実は川名を探しててな」
「あらら、いらっしゃらないんですかー。……お部屋には?」

数時間に及ぶ船旅にあたって、生還者にはそれぞれ個室が宛がわれている。
客船でない以上、簡素なものではあったが、休むことくらいはできた。
それを指した佐祐理に、浩之が首を振って答える。

「ちらっと見たが、電気がついてないみてーだったからな」
「あの、それは……」
「―――浩之」

と、それまで浩之の背後に影のように付き従い沈黙を守っていた男が、何かを言いかけた佐祐理の言葉を遮った。

「ん? ……ああ、そうだな」

それをどう受け取ったか、浩之がひとつ頷いて佐祐理の方へ向き直る。
男の視線が背後で物言いたげに伏せられるのを、浩之はまるで見ていない。

「えーと、倉田……だったよな。話し込んじまって悪かったな」
「いえいえ、お話できてよかったですー。川名さんを見かけたら、藤田さんたちが探してたって
 伝えておきますねー」
「ああ、頼むな」

手を振る佐祐理に背を向けて、浩之は歩き出す。

「ったく、どこ行ったんだか……」



******

 
 
頭を掻きながら歩いていく少年たちの背中を見送って、小さく溜息をつく。
困ったものだ、と見やった空はすっかり群青色に染まって、夜の訪れを待っている。
水平線の向こうに沈んだ夕陽を惜しむように吹く風が、長すぎる髪と大きすぎるリボンを揺らして
いつも通りの不快感を私に齎してくれる。

振り払うように、歩き出す。
舷側を少し進めば小さな闇が口を開けている。
船室へ向かうための階段だった。
かつかつと金属的な音を響かせながら、狭くて急な階段を下りていく。
踊り場を一つ経由して薄暗い廊下に出た。
船舶という性質上、無駄な容積を取れない設計の廊下はひどく狭く、息苦しい。
壁面には用途も分からないパイプが敷き詰められ、視覚的にも圧迫されるように感じられた。
そんな、ごみごみとして、無機質で、鉄臭い廊下を歩く。

一つ、二つと扉を通り過ぎる。
あてがわれた部屋の扉も越えて、足を止めたのはその隣。
密閉可能な鉄の引き戸は、しかし今は薄く開いている。
開いた扉の隙間からは闇が漏れ出していた。
動くものの気配も、音もない。
気にすることなく、ノックを一つ。

「―――お邪魔します」

それだけを告げて、返事も聞かずに引き戸を開ける。
ぼんやりとした廊下の天井灯が、福音のように部屋の中を満たしていく。
部屋に詰まった闇が流れ出すように、暗がりが払われた。
暗闇の中から小さく無個性な据付のスチールデスクと簡素なパイプベッドが、そうして最後に、
そのベッドの端に腰掛けた一人の少女が、現れる。
ぼんやりとした明かりにぼんやりと照らし出されたのは、光を映さぬ瞳。

「……えっと」
「倉田です。倉田佐祐理」

驚いた風もなく、しかしどこか戸惑った様子の少女に、私は臆面もなく名を告げる。
戸惑うのも当然だった。
突然居室に誰かが入ってくるということ自体、普通では考えられない。
まして盲目の少女にとっては些細な想定外の事態ですら、致命的な恐怖の対象となり得るのだ。
更に言えば少女、川名みさきと私との間には、全くといっていいほど面識がなかった。
幾重にも礼を失し、既に愚挙と呼ぶべき行為に及んで、しかし私には罪悪感がない。
そんなものは当の昔に、あの小さな棺に入れて燃やしてしまった。
だがそんな私を見て、否、私の声のするほうに顔を向けて、川名みさきは静かに微笑む。

「……ああ、わたしを助けてくれた人だね。その節はありがとう……でいいのかな?」
「お加減はいかがですか?」
「うん、もう大丈夫。元気だよ」

世間話のようなやり取りに、ひどい違和感が付きまとう。
何か、薄い膜のようなものを隔てて話をしているような感覚。
眼を凝らさなければ見えないような、薄くて軽い、透き通った壁。
そうして普通の人間は、誰かと言葉を交わすときに眼など凝らさない。
だから誰も気付かない、薄くて軽い、しかし突き破ることの叶わない、隔壁。
それは、川名みさきの張り巡らせているものだろうか。
それとも、川名みさきと向かい合う私が無意識に張り巡らせていたものだっただろうか。
分からない。確かなのは、私と川名みさきを隔てる何かがそこにあるということ。それだけだった。
だから私は、壁を通して通じる言葉を、使う。

「藤田君たちが探していましたよ」
「え? ……もう、ずっと部屋にいたのに。ひどいよ」
「お連れの方は気付いていたようですけどね」

可愛らしく頬を膨らませる川名みさきの子供じみた仕草を見ながら、私はもう一度溜息をつく。
そう、川名みさきは全盲だ。
わざわざ自室の照明をつける習慣など、あるはずもない。
部屋が暗いという理由で不在を確信するなど迂闊に過ぎる。
まして全盲の少女が慣れぬ船の中を歩き回るものか。
想像力が足りないのか、深く考える癖がついていないのか、或いはその両方か。
もっとも、と私は心の中の評価シートの、あの薄ぼんやりとした背の高い少年の欄に刻まれた
低い数字に疑問符をつける。
あのとき、照明のことを指摘しようとした私の言葉を遮った男。
藤田浩之の後ろに立っていた、ひどく鋭利な眼をしたあの柳川という男が、言葉巧みに
少年を言いくるめた可能性は決して低くはないだろう。
何故だかは分からないけれど、あの男は藤田浩之を川名みさきと会わせたがっていない節がある。
もしかしたら、いつまでも二人でうろうろと歩き回っていたいだけかも知れない。
そんなはずはないか。
取り留めのない思考に沈みかけた私を掬い上げたのは、川名みさきの声だった。

「まあ、いいや……わざわざありがとう」
「いえ、佐祐理も少しお話してみたかったので」
「わたしと?」
「はい」

咄嗟に口をついて出た言葉に、私自身が驚いていた。
川名みさきと話をしたい? 一体何を? そんな疑問を封じるように、言葉が続く。

「色々、ありましたし」
「まあ……そうだね」

呟いて小さく天井を見上げる川名みさきの表情には、感情というものがない。
そのことに、何故だか奇妙な苛立ちを感じた。
廊下から漏れるぼんやりとした光に照らされて、ぼんやりとした顔だけが浮かび上がっている。
役目を終えた仮初めの福音は、いつの間にか鍍金が剥げてただの天井灯に戻っているようだった。
そんな光に照らされているのが苦痛で、後ろ手に扉を閉めた。
からから、がちゃりと乱暴な音が鎮まると、狭い部屋からはすっかり光が喪われる。
闇が、降りた。

「たくさんの方が亡くなりました」
「そうみたいだね」

表情は見えない。

「昔から知っている方も、この島で出会った方も」
「わたしの一番の親友もね」

感情は見えない。

「……こういうときは泣いてみせたほうが、それっぽいのかな?」
「いいえ」

闇の中に、言葉だけが響く。

「いいえ、悲しみの受け止め方は、人それぞれですから」

言いながら、私は一つの顔を思い浮かべていた。
久瀬。
臆病で、神経質で、いつも虚勢を張っていた少年。
彼もあの島で命を落としたと聞いた。
涙は流れなかった。
ただ、悲しいという感情だけは、確かにあった。
今もそうだ。
彼の顔を思い浮かべた私は、きっと悲しい顔をしている。
闇の中で、表情は、見えないけれど。

「悲しいっていうのとも、たぶん少し違うんだけどね」

声に混じったのは、苦笑の色だろうか。
少なくとも、そこに悲愴は感じ取れない。
ただ、淡々と。

「雪ちゃんはもういない」

無明の世界に、言葉が響く。
訥々と。
ただ、降った雨の、水に落ちて小さな輪を作るように。

「それは、……うん、目が覚めたときにはもう分かってたんだよ」

喪失を、受容する。

「ずっとずっと、わたしのために頑張ってくれて、最後まで頑張ってくれたから。
 だからわたしは、こうしてここにいる。ここにいられる。
 ……雪ちゃんがここにいないっていうのは、そういうことだと思ってる」

小さな棺の閉じるのを、じっと見つめたあの日のように。

「だからね、だけど、わたしはそれで、思うんだ」

変質を、許容する。

「わたしには、何もできない」

言葉だけが響く闇が、灰と黒とに染まった雨の空を連想させて。
ああ、と。

「ずっと、そう考えてたんだ。わたしは目が見えないから。
 だから何もできないって。しちゃいけないんだって」

ようやく、思い至る。

「だけど……」

川名みさきは。

「だけど違うんじゃないかって。目が見えないから何もできないんじゃなくて。
 目が見えないから何もできない……って、そんな風に考えるから何もできないんじゃないか、って」

この全盲の少女は。

「そう、思った……ううん、思えたんだよ」

私と、似ている。

「……」
「おかしいかな?」
「いいえ」

細く、長く息をつきながら、答える。
何のことはない。
薄く軽い、透き通った壁は。
私と、川名みさきと。
両方から、張り巡らされているのだ。

「でも、笑ってる」

笑っている。
そうだ。確かに私は、笑っている。
嘘つきめ、と笑っている。
誰でも受け入れるみたいに微笑んで。
だけど誰にも見えない、きっと眼を閉じなければ見えない透き通った壁を積み上げて。
そういうもので心の奥のずっと底の、本当に暗い場所に隠した嘘を包んでいる。
川名みさきは。
倉田佐祐理は。
嘘つきだ。

だから私は笑っている。
楽しくて、嬉しくて、笑っている。
だから、

「何でも、ありませんよ」

だから私は、それだけを口にする。
いつか、いつか、あなたの嘘が、綺麗な本当のお日様の下で、溶けてしまいますように。
それを、心から願いながら。

「―――」

ああ、私は光の道を行こう。
大切な友の、表情の乏しい物憂げな顔を思い浮かべながら、思う。
私は私の奥底に、喪服を濡らす雨の冷たさを抱えながら光の下を歩こう。

その先には作り上げるべき世界が、待っている。
この世界でいちばん大切な人が帰ってくる、帰ってこられる場所が、私の歩みを待っている。
立ち塞がるのは政治と経済の世界だ。
取るに足らない、私の決意に敵すべくもない相手だ。
倉田佐祐理の、それが道だ。

「―――」

ふと、闇の中に降りた沈黙に気付く。
浸り込んでいた思考から、意識が浮上する。

「すみません、川名さん……川名さん?」
「―――」

返事はない。
闇の中、少女の姿は見えない。
耳を澄ませば微かに聞こえてくるのは、定期的な呼吸の音。
どうやら川名みさきはいつの間にか、眠ってしまっていたようだった。
苦笑して、音を立てないように立ち上がる。
静かに開いた、引き戸の隙間を抜けようとしたとき。

「……え?」

背後の少女が、何かを呟いたような気がして、振り返る。
しかし、

「―――」

それきり何も、聞こえない。
寝言か何かだったのだろうか。
部屋を出ながらそう考えて、後ろ手にそっと扉を閉める。

一歩を踏み出せば、かつんと硬質な音。
暗闇を満たした部屋から遠ざかる音。
かつかつと響く、それは私の足音だ。
倉田佐祐理の未来に響く、足音だ。

見上げる。
薄ぼんやりとした光の向こう、狭くて急な階段を昇った先に、夜が訪れようとしていた。




******













「おめでとう」











******



 
【時間:2日目 PM 6:43】

観月マナ
【状態:生還】

藤田浩之
【状態:生還】
柳川祐也
【状態:生還】

川名みさき
【状態:生還】

倉田佐祐理
【状態:生還】

坂神蝉丸
【状態:生還】
光岡悟
【状態:生還】
-


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