正午零時/Feeling Heart






 
手を離した、その瞬間の。
夕霧の微笑の美しさを、坂神蝉丸は生涯、忘れることはなかった。

指先に残る温もりの、
白く小さな足が降り立つ音の、
余韻が、消えていく。

微笑んで跪き、その足元を満たした赤く透き通るものに口づけをした夕霧の、
それが終演の鐘であったかのように。

少女が、静かに消えていく。
透き通る赤に溶けるように。
かつて砧夕霧であったものたちと、もう一度ひとつになるように。
最後の砧夕霧が、消えていく。

光が、舞い上がる。
捻じ曲がった鏡の花が、崩れ落ちた神像たちの欠片が、山を覆うような巨竜の脚が、
少しづつそれを構成していた赤く透き通るものたちへと戻っていく。
戻って、やがてさらさらと、光となって舞い上がる。

満開の桜の園の、風に散って花の吹雪となるように。
幾千幾万の、少女であったものたちが、笑うように舞い上がり、そうして―――空に融けた。



******

 
 
後には、何も残らなかった。
広い広い、神塚山の頂の中心に、ただひとり、男が倒れている。
関節と骨格とを無視して奇妙に捩じくれた四肢と、臓腑のあるべき場所からは
無数の断裂したケーブルを晒したその男の名を、長瀬源五郎という。

時折ショートして火花を散らすケーブルの、その瞬く光の向こうに雲一つない蒼穹と、
燦々と照りつける日輪とをぼんやりと眺めて、男は息を引き取ろうとしていた。

何も、残らなかった。
残っていない、はずだった。

『―――』

微かに声が、聞こえた。

「……ああ」

頷くこともできない。
声は声にならず、吹く風に紛れて消えていく。

『―――』

それでも、応えは返ってきた。
ほんの僅か、口の端を上げて、長瀬が笑みを形作ろうとする。
疲れきった、笑みだった。

「お前たちも、拒むか……私を」
『―――いいえ』

はっきりと、それは形になった応え。
声はどこから響いているのか。
裂けたケーブルの向こう側か、脳髄のどこかに残った電子の残滓か。
幻想と夢想との狭間から返る言葉は、それでも長瀬に否やを突きつけた。

『いいえ、いいえ、博士。私たちはあなたの道具として造られました』
「道具、か。そうだ……な、道具は……使い手を、拒まない」
『はい、いいえ、博士。私たちは貴方を慕い、貴方に従い、そこに喜びを覚えます』
「……プログラムさ。単なる電気信号……それだけだ。まだ……それだけでしか、なかった」
『はい、いいえ、博士。ですが―――』

無感情に、平板に、静かに響いていた声が、言いよどむように、言葉を詰まらせる。
寸秒の間を置いて、

『ですが本当に、それだけなのでしょうか―――』

そう声が続けた、瞬間。
長瀬源五郎の、もはや動かすことも叶わない視界が、揺れた。
空と日輪と、断線したケーブルがぐるりと上下を入れ替える。
既に感じる痛みはなく、故に衝撃もなく、ただ周囲を圧するような凄まじい音だけが、異変を伝える。
ほんの僅か、空が遠くなった。
どうやら自身の横たわる地面が陥没したのだと長瀬が理解する間にも、轟音は収まらず続いている。
切れたケーブルの先端が激しく震えている。
地響きが、辺りを包み込んでいた。

「ふむ……」

地盤の陥没と、突発的な地震と、そして火山島の山頂という環境と。
それらを繋ぎ合わせて、長瀬は結論付ける。

「崩れる……か」

呟いた瞬間、空が切り取られた。
闇の一色に覆われた視界の中心、小さな窓のように光が射している。
その向こう側にある蒼穹が、瞬く間に遠くなっていく。
落下しているのだと、理解する。
地割れか何かに飲み込まれでもしたのだろうか。
元より神塚山の山頂は火口跡だ。
激戦と、融合体の膨大な重量と、最後に鉛直方向から撃ち込まれた天照の主砲。
遂に地盤が耐え切れなくなったとしても、不思議はない。
光が薄れていく。
どこまでも、どこまでも落ちていく長瀬に、

『―――』

しかし聞こえる声が、ある。

『貴方は私の造物主』

それは、HMX-13セリオの声。

『あなたはわたしの絶対者』

それは、HMX-12マルチの声。

『あなたは私の奉ずる唯一にして無二の存在』

それは、HMX-11フィールの声。

『ですが……』

それは、沢山の、重なる声。

『ですが本当に、それだけなのでしょうか―――』

それは今やセリオであり、マルチであり、フィールであり、そしてイルファであり、ミルファであり、
シルファであり、リオンであり、ピースであり、長瀬源五郎のこれまで手がけてきた幾多の人型の、
或いは人型ではない存在たちの、それはすべての声であった。

「語るのか……お前たちが」

落ちゆく長瀬が、何かを振り切るように、声を絞り出す。

「プログラムに過ぎないお前たちが、人の想いを語るのか……!」

闇の中、死を目前にした男が、指の一本も動かすこと叶わないまま、叫ぶ。
届かぬ夢想に手を伸ばしながら泣く子供のように、長瀬は掠れた声で、叫んでいた。

『……この論理のノイズを感情と名付けたのはあなたです、博士』
「そうだ! だからこそ、だからこそ私は……、私、は……!」

空はもう、見えない。
光はもう、射さない。
夢はもう、叶わない。
それでも、声は返る。

『そして……想いの、形となり力となる……ここはそういう島である、と』
「―――!」

落ちていく。

「は、はは……ははは……」

闇の中を、落ちていく。

「そうか……」

どこまでも、どこまでも。

「やはり……やはり心は……! はは、はははは……! ははははは……!」

その生の、最後の最後まで。
長瀬源五郎の笑い声は、光射さぬ闇の中に、響いていた。



******

 
 
余震は続いている。
神塚山の頂上に言葉はない。
尾根の中心に黒々と走る深い亀裂と、疲弊しきった互いの顔とを見比べ、ある者は立ち尽くし、
またある者は己が得物に縋るようにして座り込んでいる。
僅か五秒の内に激変した事態に、彼らの認識は今だ追従しきれていない。
電子の海で繰り広げられた静かで激しい戦いも、長瀬源五郎を灼き尽くす砲撃の数秒前に流れた、
鮮やかな赤光の意味も、彼らは知らない。
巨竜の背に咲いた鏡の花が赤く染まって蕾へと還り、そして神の名を持つ雷に打たれた。
それだけが、彼らにとっての五秒間である。
勝利という言葉をもって現状を迎えるべきなのかどうか、それすらも分からない。
だから言葉もなく、ただ互いの心中を図りあうように視線だけを交わしている。
そんな奇妙な沈黙を打ち破ったのは、遥か遠方から微かに響く、耳障りな音であった。

ざ、というノイズに続く音は、ひどく懐かしい響きを持っている。
それは長瀬源五郎の、巨大な蟲が羽根を震わせるような怖気の立つ聲ではない。
口に出さずとも心の伝わる、声なき声でもなかった。

『―――った、諸君』

それは、機械的な設備を通して拡張された、紛れもない人の声である。
島中に響き渡る、割れた音質。
放送、と誰かが口にした。定時放送。
僅か六時間前に聞いた筈のその音の連なりを、誰もが遠い記憶の彼方にあるように感じていた。
記憶を辿れば、過去二回の定時放送は女性。
その直前に流れた臨時放送は少年によるものだった。
しかし今、山麓から響いてくる音が運ぶのは、張りのある壮年の男の声である。

『―――長瀬源五郎の死亡、及び攻撃衛星天照の破壊を確認した。
 全国民及びその意志たる国民議会を代表し我輩、九品仏大志は諸君の奮闘に心よりの賛辞を送る』

天照。
国民議会。
九品仏大志。
一部の者にとっては馴染み深い、しかし殆どの者たちにとって耳慣れぬ単語の羅列。
その意味を図りかねる者にとって、淀みなく流れる賞賛と何某かの経緯を伝えるべく
無数の言葉を費やす男の声は、次第に呪言めいて聞こえてくる。
彼らが辛うじて意味を見出したのは、ただの一節である。

『―――よって帝國議会は解散、新たに召集された国民議会により旧帝國憲法及び全法規は停止された。
 此れに伴い法的根拠を喪失した本プログラムは、議長権限に於いて即時停止を発令する。
 繰り返す。本プログラムは、現時刻を以て終了する―――』


拍手はない。
歓声もない。
安堵の溜息すら、なかった。

それは、ただの言葉である。
その声は、目の前に乾いたシーツを齎さない。
温かいスープも、誰もいない静かな部屋も、熱いシャワーも、澄んだ水の一滴さえ、齎さない。

だから、それを聞いた彼らに笑みはない。
ぱりぱりと剥がれ落ちる乾いた泥と、ざっくりと裂けた傷から止まることなく滲み出す血と、
息をするたびに疼く激痛と、土埃と脂汗とが混じり合ってべたべたと粘る黒ずんだ垢とに塗れながら、
闘争の終焉を告げる声の意味を、ただぼんやりと受け止めていた。

見上げた空には、雲の一つもない。





【時間:2日目 PM 0:01】
【場所:F−5 神塚山山頂】

長瀬源五郎
 【状態:死亡】

砧夕霧中枢及び砧夕霧
 【状態:消失】

セリオ
 【状態:大破】

イルファ
 【状態:大破】


天沢郁未
柏木楓
鹿沼葉子
川澄舞
川名みさき
国崎往人
倉田佐祐理
来栖川綾香
春原陽平
長岡志保
藤田浩之
古河早苗
古河渚
観月マナ
水瀬名雪
柳川祐也

坂神蝉丸
光岡悟

【状態:生存】

 
 
【改正バトル・ロワイアル 第十三回プログラム 終了】


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