十一時五十七分/奇跡が起こるような、そんな







*** 1. -180sec.


 ―――今がその時だ。

直感した瞬間、蝉丸は駆け出している。
堪えに堪えたその鬱屈を爆発させるように、撥条と化したその全身が加速していく。
大きなストライドが稼ぐのは距離。消費するのは残り僅かの時間である。

視界の端には両断された槍使いの神像が映っている。
六体目を斃したという以上に、間合いの広い槍使いの像を落とした意義は大きい。
これで蝉丸と銀鱗の中心との間を遮るものは右、大剣の神像と左に位置する白翼の神像。
そして、紅の槍の森のみである。
踏み出す一歩が、勝利と敗北とを隔てる賽の目であった。
駆け出した以上、もはや止まることは許されない。
抱きかかえた砧夕霧は腕に重く、その口から微かに漏れる歌とも祈りともつかぬ声が耳朶を震わせる。
ほろほろと流れ落ちる涙の雫が時折胸に落ちて、じんわりと生温い。
最後の希望を抱いて、癒えぬ足で蝉丸が駆ける。
響くのは爆音と吹き荒ぶ風の音、閃くは剣戟の火花。
ただ一点の隙を縫うように、蝉丸が大地を蹴った。



*** 2. -170sec.


「何故、諸君は抗う。如何に足掻こうと運命は変わらないというのに。
 何故、諸君は理解しようとしない。来るべき新世界を。
 私の創造する新たなる種が人を超えんとする、その意義を―――」

生み出した巨神像の内、六体までを落とされた長瀬源五郎が、その巨体を震わせて声を発する。
嘆くような声音が消えるのと同時、白翼の巨神像の手に光が宿る。
光は輝く弾となり、軽やかに振られたその優美な手から離れるや猛烈な加速で一直線に飛ぶ。
駆ける蝉丸を横合いから狙う軌道。
その身を直撃せんとする正確な狙撃に、しかし蝉丸は視線を向けようともしない。
無論、踏み出すその一歩を回避の為に動かすこともなかった。
吸い込まれるように迫る光弾を遮ったのは、一筋の剣閃である。
一瞬の後、二つに斬られた光弾が左右、遥かに離れた場所に着弾して爆ぜた。

「―――機械屋が天下国家を語るか」

絹の如き長髪が爆風に靡き、銀の波が空に流れた。
光弾を断ち割って刃毀れの一つもない白刃の銘を、麟という。
星無き夜に浮かぶ月のように立つ光岡悟とその愛刀が、続けて飛んだ光弾を真一文字に斬り捨てた。

「だが貴様の言う通り、新たな世は訪れる。それだけは認めてやろう」

神像が背の白翼を羽ばたかせると、吹き荒ぶ風がその音を変える。
きりきりと耳を劈くような高い音の中で、ただ荒れ狂っていただけの風が、
万物を切り裂く鋭い刃へと密度を上げていく。
不可視の斬撃が、飛んだ。
その先には光岡悟。蝉丸を護る堅固な砦を先に落とさんとする狙いだった。
僅かに口の端を上げた光岡が、脇構えから摺り上げるように一刀を振るう。
中空、素振りの如き一閃はしかし、凄まじい音と手応えとをもって己が狙いの違わぬことを光岡に伝えている。
風が、斬られていた。
幽かな音と気配と、そして極限まで研ぎ澄まされた勘とが揃って初めて可能となる神業である。
影花藤幻流皆伝、天賦の才と謳われた男の、それが実力であった。

「尤も……それを築くのは、九品仏閣下と我等だ。道を開けてもらおうか、犬飼の遺産」

傲岸と言い放つその瞳には、曇りなき明日が映っている。
応じるように、白翼の神像の周囲に無数の光弾が浮かび上がった。
横目で流し見た蝉丸の背中が遠く離れていくのに一つ小さく鼻を鳴らして、光岡が愛刀を正眼に構え直す。
爆ぜた光弾に炙られて焦げた臭いのする風が、銀色の長髪を揺らした。
嚆矢のように飛んだ一発を断ち割って、光岡が歩を踏み出す。
同時、光が、舞い飛んだ。
幼子が風に吹くシャボンの玉のように、無数の光弾が光岡に殺到し、そして爆ぜていく。
爆音と焦熱とを生み出す白光の嵐の中で、光岡悟が応と吼える。
吼えて、その身を刃と成す。
飛び来る光弾の悉くを斬り捨て、断ち割り、突き穿ち、射貫く、尋常ならざる剣捌き。
柄を握る拳から振るう腕、斬り下ろしかち上げ刺突し自在に変幻する体幹に、進み退り跳び駆ける脚。
最早それは人と刀とを分かつ境を越えている。
その閃光の中に煌くのは美しくも凄まじい、一振りの刃であった。
銀弧が、疾る。
機を窺い続けた蝉丸の、動くに動けぬ身を庇いながら十数分の長きを防戦に徹し、
迫る剛剣と降り注ぐ光弾とを一手に引き受けて遂に凌ぎきった恐るべき剣の冴えが、
今やすべての頚木から解き放たれ、舞い踊るが如く閃いている。
打ち続く白光の嵐の、その輝きさえ褪せるように、光岡悟は止まらない。



*** 3. -140sec.


風を巻いて唸る大剣が、虚しく空を切る。
山をも断たんとする破壊の権化が再び振り上げられた瞬間、それを保持する細身の腕が、爆ぜた。
長い髪を編み込んだ女を模した巨神像、大剣を使う像が、ぐらりと揺れる。
重く響く爆音の中、舞い上がる煙を割って飛び出したのは少女とも見える年頃の影。
水瀬名雪である。

「人には夢がある。遥か古代から抱き続けてきた夢だ。
 文明を築き、自らの望む通りに世界を作り変える力を得た人類の、それは義務といってもいい。
 人はいつか、ヒトを超える。種としてのヒトを捨て、より高みへと至るのだ。
 遂に捉えたその影を、ようやく届いた扉の鍵を、何故諸君は放り捨てようとする―――」

詠嘆を含んで響く声を、名雪が鼻で笑う。

「化物の特売市の真ん中で、今更何の冗談だ?
 そうやって周りが見えないから、誰からも見放される」

手にした雪兎を空中に投げると、すらりと引き締まった右脚を振り上げる。
身を捻りながら放った脚が、落ちる雪兎をミート。
完璧なフォームのボレーシュートが、可愛らしい時限式の爆弾を撃ち出した。
回転をかけられた雪兎は質量と空気抵抗に従ってその軌道を変えていく。
鋭い弧を描きながら、吸い込まれるように巨神像の懐へと潜り込む。
一瞬の後、鈍い重低音。
腹の辺りから煙を上げて傾いだと見えた巨神像が、しかし大剣を地に着くようにして耐える。
舌打ちした名雪が小さな身振りで神像を指さすのと同時、背後に影の如く控えていた黒蛙がふわりと浮かぶ。
間髪いれず撃ち出されたのは黒雷である。
音もなく一直線に伸びる、光を吸い込むような漆黒の稲妻。
至近を迸る閃きに、名雪の長い髪が靡き、舞い上がる。
真っ直ぐに射出された黒雷が直撃したのは、耐える巨神像の顔面である。
着弾の衝撃と爆風が、辺りを薙ぎ払った。

「……ほぅ」

巻き上がった砂煙が、山頂を吹き荒ぶ風に払われる。
飛来する小さな石礫を避けるように腕を翳した名雪が、僅かに瞠目した。
その眼が写していたのは、黒雷の直撃で顔面の半分に罅を入れながらもなお倒れずに大剣を構える、
巨大な女神像の姿である。
瞬間、しぶといな、と口の中で呟いた名雪と、手にした剣を大きく振りかぶる巨神像の視線が、絡まった。
石造りの無機質な瞳。
だがそこに、傷ついてなお倒れず、何かを護ろうと剣を取る者の矜持を、名雪は見た。
それは巨像に彫り描かれた英雄の、魂の一片なりと宿ったものであっただろうか。
かつて共に時の螺旋を生き抜いた者たちと同じ色の瞳に、名雪が小さく笑う。
薄暗く乾いた、埃の積もったような笑み。
貌に老いを浮かべた名雪の動きが鈍ったのは、ほんの僅かの間である。
だがその隙を巨神像は見逃さない。
山をも崩す巨刃が、名雪を目掛けて横薙ぎに振るわれた。
大気を断ち割りながら迫る破壊の刃に名雪が舌打ち一つ、表情を引き締める。
瞬きをするよりも早く状況把握と局面打開の策定。
退いての回避には間に合わない。左右は論外。道は上空。
確実に繰り出される追撃を黒雷で阻止しつつの跳躍。
そこまでを思考し、背後の蛙が回避機動に合わせて準備を始めようとした、その刹那。
黒い弾丸が、巨神像の胸を一直線に引き裂いていた。

「柏木楓か……!」

振るわれる巨刃の勢いが、緩む。
力なく流れた切っ先を難なく躱しながら見据えた名雪の視線の先には、襤褸を纏った少女の姿。
肩口で切り揃えた黒い髪に、整った白皙の美貌。
ざくりと裂けた左眼と、細い指先から伸びる深紅の爪が異彩を放っている。
果たして隆山の鬼女、柏木楓その人であった。



*** 4. -120sec.


「犬飼博士は堕落した。彼は所詮、世俗を捨てきれなかったのだ。
 覆製身研究の末に自らの伴侶を造り、そこに安寧を見出した。
 それは研究に対する裏切りだ。信念に対する冒涜だ。
 だが私は違う。私は、私だけは人類の未来を憂いていた―――」

残る二体の巨神像の脇を駆け抜けた蝉丸の耳朶を、不快な聲が震わせる。
地面から直接響くような聲は長瀬源五郎のものである。
駆ける蝉丸が踏み締めるのは大巨竜と化した長瀬の背であった。
頭なく顔なく口腔もない長瀬の聲は、微細に振動する巨大な身体そのものから発せられているようだった。
抑える術もなく、常軌を逸した科学者の一人語りが垂れ流されている。
耳元では抱きかかえた砧夕霧が、言葉ともつかぬ言葉を漏らしていた。
不快な聲と不可解な唄と、耳を覆いたくなるような音に挟まれて、しかし蝉丸の心は不動である。
ただ行く先に待つ目的地まで足を動かし続ける機械のように、黙々と走っていた。

「―――そして遂に到達したのだ。真理に。結論に。紛うことなき明日に。
 覆製身など愚の骨頂。いかに紛い物を増やそうと、ヒトの出来損ないでは人類を超え、
 新たな明日を築くことなど不可能だ。……だが!
 だが私なら、私と我が娘たちならば超えられるのだ、人類種の限界を!」

と、笑みをすら含んで高らかに響く長瀬の聲に誘われたように、それまで真一文字に引き結ばれていた
蝉丸の口が、静かに開く。

「欺瞞だな、長瀬」

告げた蝉丸の、踏み出す足に伝わってくる感触が変わる。
鉄張りの甲板のように硬質な響き。
巨竜の背に広がる銀色の湖。
無数の鱗に覆われた白銀の平原に、ようやくにして踏み込んだのだった。

「人を語りながら人を見下す。新たな世を語りながら其処に住まう者を見ない。
 貴様の言葉に表れるのは己の狭い了見よ」

歩を進ませじと待ち構えるのは紅く透き通った、硝子のような材質で構成された槍の如きものである。
露出した鉱石の結晶であるようにも、或いは血に染まる樹氷のようにも見えるそれが、
鋭い穂先を天に向けて無数に生えている。
夕霧を抱きかかえたまま片手で佩刀を抜き放った蝉丸が、薙ぐようにそれを振るう。
幾本かの槍が砕け散り、しかし奇怪なことに槍の欠片は中空でどろりと血飛沫の如くに丸く形を変えると、
銀色の地面に落ちて染みていく。
すると紅い染みから卵の孵るように、新たな槍が突き出してくるのだった。

「畢竟、貴様が抱くのは人類の夢などと大仰な代物ではあるまい。
 貴様は赦せぬのだ。己を認めぬ者どもが。儘ならぬ世の全てが」

身を捩って鋭い先端を避ける蝉丸の疾走が、その速度を緩める。
緩めてしかし歩を止めず、愛刀を握り込んだ。
構えは下段。
一瞬の後、蝉丸の足元から空を断って逆巻き、天へと昇るが如き一閃が奔る。
裂かれた風の断末魔か、高く儚げな音が響くと同時。
蝉丸の行く手に聳えていた槍の群れが、一斉に霧散した。
鳳の銘を打たれた一刀の、正しく焔を纏う霊鳥の遮るものを焼き尽くすが如き剣閃。
跋扈する魑魅魍魎を調伏せしめんとする、それが蝉丸の佩く刃の輝きである。

「それは思い描いた桃源郷の、己がみた夢の何故叶わぬと泣き喚く餓鬼の駄々よ。
 義無く理も無く、在るは唯、貴様の欲に過ぎぬ」

紅い樹氷の森の中、切り開かれた道を蝉丸が走る。
だが一面の血飛沫に覆われたような道がその行く手を平らかにしていたのは一瞬であった。

「……君に何が判る、戦争犯罪人の脱走兵」

憤りを露わにした聲が響くや、地響きを立てて槍が飛び出してくる。
四方を塞ぐように密集して生えた紅い槍の群れに、たたらを踏んだ蝉丸の姿が映っていた。
渋面に微かな焦燥を浮かべた蝉丸が、再び一刀を振りかざそうと構えた刹那。

『―――足を止めるな、坂神蝉丸』

声なき声に視線を上げようとした蝉丸の至近を、何かが駆け抜けた。
その何かに音はない。
だが僅かに遅れて爆ぜた風が、その恐るべき疾さを誇示するように蝉丸の耳朶を震わせていた。
閃いたのは照りつける陽光を吸い込むような黒い光である。

「これは、水瀬の……!」
『要らん助勢だったか? まあ、こちらは少し手が空きそうでね』

遥か後方から黒雷を放った水瀬名雪の言葉に、蝉丸が短く答える。

『感謝する』

黒雷により再び切り開かれた道へ向けて、蝉丸が疾走を再開する。
しかしその足元では既に砕け散った紅い槍が再生を始めていた。
飛び散った欠片が地面に染み渡るや、新たな穂先が芽吹いてくる。
瞬く間に塞がれゆく道を見て舌打ちした蝉丸に、

『足を止めるなと言ったろう。助勢は一人じゃない』

名雪の声が伝わると同時、蝉丸の背後で硬質な音が響いた。

『振り返るな! 走れ!』

声に押されるように駆け出した蝉丸の脇を、今度は小さな影が追い越していく。
手負いとはいえ強化兵たる蝉丸を凌ぐ加速を見せた影は、その手に刀を提げている。
背に生えるのは美しい毛並みだろうか。
鬣とも見える長い髪を靡かせて獣とも人ともつかぬ影が刃を振るうと、何ほどもない一閃に
どれだけの威力が込められていたものか、芽吹きかけていた紅い槍がまとめて砕け散った。
と、同胞を砕かれた報復のように左右から鋭い穂先が影へと迫る。
同時に迫る槍に、白い影はしかし身を躱さない。
右から伸びる一本を振り抜いた刀を戻しつつ引き斬り、空いた身を貫かんと左から迫るもう一本へは、
何と拳を振るったものである。
振るわれた拳は、白一色の身から抜いた色を集めて染め上げたが如き漆黒。
堅牢な鎧の如き皮膚に包まれた拳が、その身に傷一つ付けることを赦さず紅い槍を粉砕する。
白銀の髪が、紅い雫を振り払うように流れた。

「その力、川澄舞……か。礼を言う」

告げた蝉丸に、白い影は答えない。
ただちらりと振り向いて、一つ頷いた。
駆ける蝉丸の視界から、その身が消える。
背後で響き渡る硬質な音の連続だけが、その存在を示していた。



*** 5. -60sec.


既に蝉丸の行く手はその半ばを過ぎている。
残る銀の平原に生える槍の群れは、しかし健在。

「閉塞し、腐敗し、磨耗しきった末世を、だが私ならば超えられる。
 築けるのだ、新たなる秩序を、瑕疵なき世を、永遠の平穏と繁栄を。
 必滅の定めを越え、死と腐敗と衰亡の恐怖を克服し、人は今、ようやく神の呪縛から解き放たれようとしているのだ!」

響く聲に同調するように、地面が震えている。
右手から突き出てきた紅い槍を斬り割って、蝉丸が叫び返す。

「次は神を持ち出すか! それが貴様の了見だと言っている!」

砕けた紅い石の欠片が散って、一滴が蝉丸の抱いた夕霧の頬に飛ぶ。
飛んだ雫が、たらりと血の涙のように垂れ落ちた。
垂れた雫を痩せた蛞蝓のような薄い舌が嘗め取って、こくりと飲み込む。
嚥下するように喉が動いた途端、夕霧の口から漏れる唄がその声量を増した。
詞は言葉の体を成していない。
祈りの色も、最早なかった。
慟哭と呪詛と、歓喜と絶叫と、愉悦と苦痛と、およそ人に内在するありとあらゆる種類の感情を、
跳ねるように、躍るように、掴むように、掻き毟るように、それは謳っていた。

「貴様は人の子よ! 貴様の造る物たちが死を越えて新たな世を築くというのなら、
 其処に貴様の居場所などあるものか!」

空と大地とを覆い包んで響く歌声が、蝉丸の背に重い。
振り払うように叫んで歩を進める。

「……! 黙るがいい、脱走兵!」

生きるように、生き終わるように響く歌声に衝き動かされるが如く、長瀬の聲が跳ね上がる。
地響きは既に、常人であれば立つことすら儘ならぬ域に達していた。

「私は既に人機の境界を越えた、定命などとうに超越した!
 私こそが父だ、娘たちを教え導く者だ! 娘たちの在る限り、私は必要とされているのだ!」

憤りに呼応するように、地響きを割って紅い槍の群れが飛び出してくる。
その数は尋常ではない。
隙間なく敷き詰められた槍衾は天高くまで伸び、しかし先端で奇妙に捻じ曲がってその穂先を蝉丸へと向けている。
大気を押し潰すような歌声と、大地を砕く地響きと、耳を劈くような長瀬の聲に押されるように、
見渡す限りの薄く透き通った紅い槍の群れが倒れ込んでくる。
躱すことを許さぬ、それは正しく全天から降り注ぐ槍の雨であった。

「そうして言い訳を重ねて! 見捨てられるがそれほど怖いか!」

肌を刺す歌声の中、槍の雨に貫かれてその生を終えた久瀬少年の顔が浮かぶ。
彼の率いた三万の兵は既になく、成れの果てたる巨竜だけが残っていた。
打ち棄てられた者たちの、屈せず立ち抗う戦の残滓が、それだった。
廃物の山に立つ少年の意志を踏み躙るように、長瀬源五郎がそこにいた。

「認めさせようというのだ、偉業を!」
「矮小を恥じもせず……!」

降り注ぐ槍の悉くを断ち切らんと、蝉丸が一刀を構える。
腕の中の夕霧が身悶えするのを、強く抱きなおした。
叫ぶような歌声が、びりびりと耳を打つ。
極限まで研ぎ澄ませた神経が、初太刀を抜き放つ刻限を正確に捉える。
一刀、蒙きを啓かんと閃く、その刹那。

『妄想も大概―――、』
『ウザいっての―――!』

響く声、二つ。
声なき声が響き、同時に音が消えた。
否、消えたのは音ばかりではない。
蝉丸の眼前、降り注がんとする無数の紅い槍の津波を、何かが奔り抜けた。
それは光でもなく、刃でも弾でもない。風でもなければ、実態のある何かでは、なかった。
触れられぬ何か。触れられず、目に映すことも叶わない何かとしかいいようのないものが、槍の海を薙いだ。
ただ一つだけ確かなのは、その存在であった。
何となれば、その不可視不可触の何かが薙いだ紅い槍の森が、忽然と消し飛んでいたのである。
狐狸に化かされたような光景を、蝉丸の脳がようやく認識した途端、世界に音が戻ってきた。
響き渡る唄と、透き通る鉱石の槍が砕け散る硬質な音。
そして眼前、開けた道を吹き抜ける風の音である。

『精々走れよ、軍人。私らのためにさ』
『もう時間がありません。……終わらせるのでしょう?』

遥か遠く、距離を越えて声なき声が聞こえてくるよりも早く、蝉丸は駆け出している。
目指す場所、銀の平原の中心までは既に程近い。
天沢郁未と鹿沼葉子が不可視の力をもって破壊した槍の津波の残骸を踏み越えて、
蝉丸が最後の加速に入ろうとしていた。



*** 6. -30sec.


「誰も彼も、私一人の邪魔ばかり―――!」

長瀬源五郎の叫び散らすような聲が大気を震わせる。
蟲の羽音のように不快を催させるその聲からは、常ならず余裕と冷静さが失われていた。

「何故だ! 何故判らん! 何故認めん! 何故君たちはそうも愚かしい!
 完全なるものが、私の真の娘が、これから生まれるのだ! 真なる私の手から!
 それを奪うのか! 明日を! 私の娘たちの未来を!」

憤りを通り越し、半ば哀願に近いその言葉を聞いて、駆ける蝉丸の表情が、変わった。
浮かべたのは、紛うことなき激怒の色である。

「―――取り込んで、虐げて、何の父か!」

言い放った蝉丸の脳裏に浮かぶのは長瀬の胸に刻まれた、慟哭と絶望の貌だった。
苦痛の末の死に顔を写し取ったようなそれを、長瀬は娘と称していた。
そこに父娘の触れ合いなど存在しない。
夕霧を取り込もうとしたときの、その想いを雑音と片付けた長瀬の薄笑いに、情愛などありはしない。
否、あってはならなかった。
それを情愛と呼ぶ者を赦さずに生きてきたのが、坂神蝉丸であった。
燃え上がったのは、澄みきった怒りである。
平穏と情愛とを思うとき蠢く、自らの奥底の膿に棲む黒い蟲に刀を突き立てて、
蝉丸は憤怒の炎に刃を翳す。

「久遠の時が、私には与えられた! 至るのだ、高みに! 私は! 私の娘たちは!」

絶叫した長瀬に応えるように、残る槍の森がその姿を変えていく。
瞬く間に集まり、捩れ、縒り合わさって一つの形を取ろうとする。
最早、蝉丸の左右に、或いは背後に槍はない。
すべての槍を使い果たすかのように、そのすべてで蝉丸ただ一人を穿ち貫くように、
遂に完成したその姿は、純粋な凶器。
それは、ただ一振りの、巨大な槍である。
穂先は一つ。否、それは単に、縒り合わさった槍たちの先端が鋭く尖っているに過ぎない。
槍と呼ぶのもおこがましい、それは山をも穿つ、ただの刃であった。
数千数万の紅い槍を捻り捏ねて作り出された、巨大な刃。
それが、蝉丸と銀の平原の中心とを隔てる、最後の壁であった。

「誰も! 私を! 拒めるものか!」

死ね、という、それは意思の具現。
殺意という、凶器。
迎え撃つ蝉丸に、返す言葉はない。
ただ駆けながら、一刀を構えた。
心に燃える炎が刀身に映るように、その刃が輝きを増していく。
焔が、蝉丸の内に湧き出る膿を炙り、燃やす。
毒虫の飛ぶ密林の泥濘を、陽炎立つ砂塵の丘陵を、住む者とてない瓦礫の街を焼き尽くしていく。
それは、坂神蝉丸という男が、兵であることを越え、ただ一つの希望として戦場にはためく
古びた旗であろうとするときに燃え上がり、輝く光である。
幾多の絶望の中で埃と諦念と郷愁とに塗れた兵たちの見上げた光が、そこにあった。
光が、刃を振るう。

「永劫届かぬ迷妄を抱いて朽ち果てろ、長瀬源五郎―――!」

迸る焔が、巨槍を呑む。
光の中、砕けることも、地に落ちることも赦されず、灰となり塵となって、
紅い槍の群れが、消えていく。

後には何も、残らなかった。



*** 7. -10sec


吹く風すらもが燃え尽きたように止まった蒼穹の下、ただ砧夕霧の唄だけが響いている。
最早、遮るものはない。
遂に開けた最後の道へと、蝉丸が地を蹴った。

距離は数十歩。
目印など何もない。
だが、分かる。
そこには力が満ちている。
満ちた力が夕霧を導くように、或いは夕霧の求めに応えるように、その場所が呼んでいる。

走る。
時が満ちようとしていた。

駆ける。
ほんの数秒。
僅かに、勝った。

踏み出す。
夕霧を抱いた腕に、力を込めた。
その、刹那。

「―――届かないのは、君たちだ」

聲が、哂った。

止まらない疾走の中で、蝉丸の目が、何かを映していた。
正面、遥か遠く。
方角は西。
背後には雲ひとつない晴天を従えて、何かが立っている。
瓦礫。
崩れ落ちた、二刀の像。
その瓦礫の中。
小さな、小さな影が、立っていた。
つがいの、童子。
二人の童子の手に、一杯に引き絞られた弓。
鋭い、鏃が、見えた。

坂神蝉丸が、砧夕霧を庇うように身を投げ出したのは、半ば本能のなせる業である。
ほんの一瞬、間を置いて。
その背を二本の矢が、穿った。

疾走が、止まった。




【時間:2日目 AM 11:59:55】
【場所:F−5 神塚山山頂】

坂神蝉丸
 【所持品:刀(銘・鳳凰)】
 【状態:重傷】

砧夕霧中枢
 【所持品:なし】
 【状態:覚醒】

光岡悟
 【所持品:刀(銘・麟)】
 【状態:健康】

水瀬名雪
 【所持品:くろいあくま】
 【状態:過去優勝者】

柏木楓
 【所持品:なし】
 【状態:エルクゥ、重傷治癒中(全身打撲、複雑骨折多数、出血多量、左目失明)】

川澄舞
 【所持品:村雨、鬼の手、白虎の毛皮、魔犬の尾、ヘタレの尻子玉】
 【状態:白髪、ムティカパ、エルクゥ、軽傷治癒中】

天沢郁未
 【所持品:薙刀】
 【状態:重傷・不可視の力】
鹿沼葉子
 【所持品:鉈】
 【状態:健康・光学戰試挑躰・不可視の力】

真・長瀬源五郎
【イルファ・シルファ・ミルファ・セリオ融合体】
【組成:オンヴィタイカヤン群体3700体相当】
【カルラ・フィギュアヘッド:中破】
【ウルトリィ・フィギュアヘッド:中破】
【ドリィ・フィギュアヘッド:健在】
【グラァ・フィギュアヘッド:健在】
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