End of hypnosis






「降っているな」
「降ってるの」

 きこきことペダルの音を鳴らしながら二人乗り自転車に跨いでいるのは一ノ瀬ことみと霧島聖。
 半ば無表情に、規則正しく早いスピードで進む二人の姿はどこか牧歌的であり、滑稽に映っていることだろう。
 実のところことみは周囲に人の気配がないか気を配りつつも、雨で滑らないようぎゅっとサドルを握りペダルも強すぎるほど漕いでいる。
 見た目とは裏腹にかなり緊張していて、体力もかなり使っていた。

 もちろんそんなことを聖に言えるはずもないので黙って漕ぎ続けているのだが。
 距離的にはかなり進んできたはず。ここは流石に二人乗り自転車の面目躍如と言うべきか、あっと言う間に灯台が見えてきた。
 気がする。どれくらい時間が経過してるのなんて分かりもしないし、果たしてここに目的の品があるのかなど知るわけもない。

 だがやるだけやるしかない。ここまで生きてきて何の役にも立てないまま死ぬのは嫌だ。
 妹を探索するのを後回しにしてまで自分についてきてくれた聖に対して申し訳が立たないし、
 自分を信じて協力してくれた友達に合わせる顔がない。
 所詮己にはちっぽけな勇気と、一歩踏み込むことも出来ない臆病さしか持ち合わせていない。

 きっとこれからも変わらず、変えられもしない部分なのだろう。
 だからこの勇気の残りカスを振り絞ってでもここから生きて帰る。
 それが一ノ瀬ことみの決意したことだった。

「そういえば、だ。今こんなことを聞くのは不謹慎と言うか、不躾かもしれないが」
「なに?」
「生きて帰れたら、何がしたい?」

 少し迷ったように、ゆっくりと声が吐き出された。ことみはつかの間目をしばたかせ、質問の内容を理解するのに数秒の時間を要した。
 黙っていて、相槌も返ってこないにも関わらず聖は何も言わない。じっと答えを待っていた。
 いやそう簡単に答えられるような質問じゃない。
 このような空白の時間でもなければ話題にも出せないような質問だ。今現在を生きるのに必死で、考えようもなかったことだから……

 分からない、と散々に思案した末に、消え入るような小声でことみは言った。
 元の生活に戻れるとはとてもじゃないが思えない。
 たとえ友達と全員生きて帰れたのだとしてもここで感じた極限状態の影響など計り知れようもない。
 自分が落ち着いていられるのは聖という保護者がいること、そして殺し合いの現場には遭遇していないことがあるからだ。

 無論、死体はいくつか見た。状態も酷く内臓が見え隠れしていたものもありあまりの気色悪さから吐きそうにもなった。
 しかしこうして喉元過ぎれば気持ちの悪さはなりを潜めている。慣れと言えば、そうなのだろう。

 だから自分は、異常なのだ。異常な人間が帰って、果たして元通りの生活を送れるのだろうか。
 ベトナム戦争から帰還したアメリカ兵が戦場での過酷な体験、
 社会からのプレッシャーによりPTSDを発症し、精神を崩壊させたという事例もある。
 この状況も一種の戦争。極限に慣れた体は、果たして日常に耐えうるのだろうか……?

「まあ、難しく考えるな」

 ことみの中の疑問を読み取ったかのように、湿り気を吹き散らす聖の声が聞こえた。
 自分のことばかり考えていたが聖はどうなのだろう、とことみは考える。
 家族を失い、帰る場所が失われた聖は自分などとは比べ物にならないくらいのショックを受けているはずなのだ。
 悲しみで我を押し潰されてもおかしくはないはずなのに、どうしてこんなに強く在れるのだろうか。

 だが自分には尋ねられない。そんな度胸は、この期に及んでも持てない。
 沈黙で答えるしかなかったことみに苦笑したような風になって、聖は言葉を重ねた。

「人はそう簡単に壊れたりはしない。私にだって、まだやりたいことはある。
 それがこの一瞬、刹那的でしかなくて、何も残らないものだとしても、だ」
「……それが、先生を支えているもの?」
「そうだ。……自分で考えて、自分で決めたことだ。
 きっと後悔することになるかもしれん、がほんの少し先の未来でさえ考えられないような人間ではいたくないのでな。
 何十年も先のことじゃない。明日やりたいことでもいいし、一週間後にやりたいことでもいい。
 私は今日やりたいことをやっている。ことみ君には何かないのか? やりたいことは」

 心の中を察したかのような聖の言葉だが、きっと推測したのではないと思う。
 医者として、人間として、空白のままの人間でいて欲しくないという願いが聖の言葉から伝わってくる。

 実際そうだという自覚はことみ自身にもある。父母に伝えられなかった言葉、朋也を待ち続けた時間。
 ぽっかりと空いた時は知識を埋めるためだけに使われ、何ひとつやりたいと思ったことをやっていない。
 膨大すぎる知識だけを持て余し、その合間すら埋めるために図書館に篭もっている日々が続いた。
 自分の意思などなく、ただ空白だけを塗り潰すために過ごしてきた時間だ。

 しかし朋也との再会を切欠に様々な人と出会い、過ごし、空白は少なくなっている。
 自発的な行動はあまりないし、大抵が誰かに引っ張られる形での行動だ。
 まだ、自分は自分から何かが出来るような人間ではないのかもしれない。

 それでも確かに……引っ張られることを選択したのは他ならない自分、だ。
 だとするならそれは、自分が望んだことなのだろうか。
 結局……それはやりたいことではないようにしか思えなかった。だが、やりたいことではなくとも、目指すべきものはあった。

「ごめんなさい、今はまだ見つけられないの……でも、でも、友達や聖先生と一緒にいたい。それだけは確かなことなの」

 そうか、と返答する声が聞こえ、つかの間の沈黙は完全な静寂へと変貌した。
 なにか思うところがあったのか。沈黙から静寂に変わる間、聖は考え事をしているように思えた。
 自分よりも大きいはずの聖の白い背中が、その瞬間だけは小さくなったように見えたのだ。

「……さて、灯台を過ぎたか。ここから先は氷川村だな。どこかに農協があればいいんだが……軽油があるかな」

 取り繕うように言葉の大きさを変えて、聖が周囲を見回す。
 長髪が揺れるのに合わせてことみも周囲を探ることにする。
 暗くなって視界が定まらない。ライトでも点ければ少しは見晴らしも良くなるのだろう。

 だがそれは同時に自分達の居場所をアピールしてしまうことに他ならない。
 是が否でも成功させなければならない使命がある以上、極力知らない人間との接触は避けたいところだった。
 地道で時間のかかる作業だが今はこうするしかない。殺し合いに時間制限はない。

 タイムリミットがないのならば十分に活用してやるまで。しかし、逆にそのことが疑問点として頭にこびりついている。
 本当に殺し合いを推進するならばどうあっても人が人を殺さざるを得ない状況に持ち込むことが不可欠だ。
 『殺し合い』はただ単に殺せばいいのではない。あくまでも参加者が自発的に殺しに行かなければ意味がない。
 友人のため、家族のため、或いは自分の命のため。理由はどうとでもつけられる。必要なのは、踏み出させる切欠。
 けれどもこの殺し合いにはそれが決定的に不足している。穴が多すぎるのだ。

 時間制限がないということは、のらりくらりと状況を進められるということだし、
 定期放送でも呼ばれるのは死者の名前ととても信じがたいような与太話ばかり。
 とてもじゃないが本気で殺し合いをさせたいようには、ことみには思えなかったのだ。

 寧ろ反抗の余地を残してさえいる。例のカードキーもしかり、首輪にも盗聴機能しかつけていないこともしかり。
 反抗させることが狙いなのだろうか。そうだとして、反抗させるメリットは?
 殺し合いに乗った連中とぶつかることを考慮すればますます意図は読めない。
 一体、主催者が必要としているものは何なのだろうか?

 疑問しか浮かばず、結論も思い当たらない以上聖にこの話を持ち込むのはやめておいた。
 今は課題を増やしたくはない。やることは軽油の確保だ。
 顔を持ち上げ、意識を周囲へと戻す。すると外れのほうにぽつんとひとつ、古臭いながらも大きな建物が見えた。

 錆びた鉄骨がむき出しになっているそれは潰れた施設であることを想像させる。
 しかしこういうところには、得てして廃棄された資材などが打ち捨てられているものだ。
 使えるかどうかはまた別の話になるが、廃工場であるならひょっとすると火薬のひとつでもあるかもしれない。
 電気信管は流石に期待は出来ないが、行ってみる価値はある。あるかも分からない農協を探すよりは建設的なことのように思えた。

「先生。あそこにある建物、見える?」

     *     *     *

 薄暗い室内。殆ど光も差さない一角、隅に隠れるようにして宮沢有紀寧はノートパソコンを起動させていた。
 その傍らにはコルトパイソンと首輪爆弾起動のためのスイッチが置かれ、彼女の内心の焦りを表している。
 何度も思ったことだが、所詮自分は単体で殺しあえるほど強くはない。

 だからこそこれまで他者を使い、利用し捨てることでここまで生き延びることができた。
 人とのコミュニケーションは得意だし、会話を自分のペースで進めることだって得意だ。その自負はある。
 もう一度だ。もう一度だけ、どこかに紛れられるチャンスがあれば優位な立場で最後の決戦を迎えられる。

 ロワちゃんねるを開き、残りの生存者がどうなっているか確認する。
 まだ20人強は残っているだろうと予想していた有紀寧だったが、その予測は良くも悪くも裏切られる。

(……20人を切っている、のですか)

 先程の乱戦の様子から見てこの結果が想像出来なかったわけではない、が驚きを覚えたのも事実だった。
 放送が終わったときと比べても半数近くが死亡している。場合によっては夜明けまでに決着がつくこともあり得る。
 問題は自分の正体を知られているかどうか、だ。

 戦いの様子を見てはいたものの会話の内容を聞き取れたわけではないし、
 柏木初音はともかくとして藤林椋が喋らなかった保障はない。
 柳川祐也に関しても同様だ。誰かと潰し合ってくれたのはいいが反抗的な男だ。
 こちらの情報を誰かに伝えられた可能性もある。何にしろ、自分の正体が誰にもバレていないと信じるには甘すぎる。
 さらに人数も少ないということは、早急に手駒を見つけないと己単体で戦わざるを得ないことを意味する。
 少々のリスクは犯してでもこちらから接触し、現状をどうにかしなければ危うくなる一方だ。

 そこまで考えて、額に汗を浮かべ、意識も浮つかせている自分がいるのを自覚する。明らかに焦っている。
 不安がっているのだろうか。誰もなく、孤独な我が身に心細さを感じていたとでもいうのか。
 汗を拭い、ゆっくりと息を吐き出し、有紀寧は雨の降り続く空を、欠けた屋根越しに見上げた。

 村はずれにぽつんと佇み、取り残されるかのようにあったそこは一時でも隠れるのにうってつけの場所だった。
 未だ雨は止まず、錆びた鉄骨から滴り落ちる雫が床にも水溜りを作り上げている。
 時折奏でられる水滴の音色を聞きながら、有紀寧は初音のことを思い出す。

 もしここに初音がいればどうだっただろう。
 無用な焦りも感じず、ただ自分を信じてついてきてくれる初音に自信を得ながら次の策を考えていただろうか。
 今の自分のちっぽけさ、小ささを感じながら、やはり家族という亡霊に取り付かれているのだと痛痒たる思いを抱く。
 家族が欲しかったのか。或いは取り戻したかったのか。それともやり直したかったのか。

 いずれも無理な話だと理性は知り抜いているにも関わらず、心の奥底が求めて止まない。
 何故こんなにも切望するのだろう。家族という言葉の果てに、自分は何を得たかったのだろうか。
 今もそうだ。言葉だけを追い続け、具体的にどんなことをしたいのか、どうしたいのか、全く分からない。
 殺し合いに参加した理由、生きて帰りたいという願いでさえも目的でしかなく、その先に充足が待つわけでもない。

 死にたくないと他者に言い続けてきた自分だが、違うのかもしれない、とそう思った。
 命が惜しいわけじゃないのだろう。ただ、知りたいだけなのだ。自分が望んでいたもの、未来の形というものを。
 それまでは死ねない。死に切れない。人間として……

 は、と有紀寧は笑った。嘲りに近い笑い方だった。この年になって自分探しとは、中々笑える。
 人殺しのくせに。センチメンタルになりすぎたと思いながら、有紀寧は闇の在り処を探した。
 殺し合いの中に身を置けば全てを忘れて没頭できる。殺すことに注力できる。
 ああ、やはり……狂っているのだ。落ち着いてゆく自分に対して、有紀寧は笑った。

 パソコンを閉じて物品の整理を始める。ここまで来たからにはもういらないものもあった。
 何故かいつまでも持っていたゴルフクラブ。近接戦闘用に、と思っていたが柄が長くて使えるとは言いがたい。
 捨てるに捨てられなかったというのもあるが。その場に放置し、残ったものをデイパックに詰める。
 コルトパイソンと弾はそれぞれスカートのポケットに入れ、スイッチは手元に。

 急ごしらえだが突発的な戦闘に対する用意はできた。後はこのスイッチを使うべき相手を探すだけだ。
 デイパックを背負って立ち上がったところで、水がぱしゃりと跳ねる音が聞こえた。
 人か!? さっと資材の陰に身を隠す。
 まさかここに誰かが来るとは思わなかっただけに意外だった。まさか大人数、というわけでもあるまい。

 唾をひとつ飲み込むと、有紀寧はなるべく音を立てないようにして移動を開始し、耳に神経を傾ける。
 少なくとも人数の把握はしておきたい。大人数なら一旦逃げざるを得ないが、一人二人なら話は別。
 隙をついてスイッチを起動させることは容易だ。ここには物陰も多い。
 資材に張り付くようにして動く有紀寧に、喜色を浮かばせた女の声が聞こえてくる。

「あったの、先生!」
「本当か? まさかこんなところにあるとは……」

 声はもうひとつ。ぱしゃぱしゃと音を立てながら足音が遠ざかっていく。どうやら二手に別れて何かを探していたらしい。
 それに、一人は聞き覚えのある声だった。確か自分の通う学校で時たま怪音のバイオリンを聞かせていると評判の生徒のものだ。
 確か名前は……一ノ瀬ことみ、だっただろうか? 残念ながらもう一人は誰かは知らない。
 だが先生と呼ばれていることから少なくともことみよりは年上で、ことみの保護者と判断した方がいい。

 なるほど賢い選択だ。この殺し合いに対してどのような姿勢なのかは知らないが、強い人物に保護してもらうのは正しい。
 ノコノコとは出て行くまい。一ノ瀬ことみだとは分かるものの保護者がいる以上迂闊に手出しは出来ない。
 上の立場にいるものは得てして警戒心も強い。こんなところにひとりで隠れているというのは確実に怪しまれる。
 これが殺し合いが始まってすぐ、というならまだしもかなり時間が経過した状態で、一人でいるというのは考えられないことだからだ。
 余程保身傾向が強い臆病者でさえも人と絶対に会いたくないかというと、そうではない。
 どんな人間でさえも孤独は心細い。現に自分だってそうだ。

(狂っているわたしが言っても、説得力はないと思いますけど、ね)

 とはいえ、理には叶っている。隠れるというのもあくまでも怖い人間に見つかりたくないという思考から。
 安全そうな人がいれば出て行き、そうでなくとも様子を窺うくらいのことはする。
 絶対な孤独を望む人間なんて、余程人生に絶望していなければ有り得ない。

 まあ、とにかく総括するなら……自分はあくまでも普通で、ここまで一人ぼっちで隠れていられるような人間ではないということ。
 それを疑われればお終いだし、何より今の自分は爆弾を抱えている。殺し合いに乗っているという爆弾が。
 だから作戦は一つ。忍び寄って、首輪爆弾を起動させる。

 最初のターゲットは……保護者のほうだ。
 強者にくっついているということは、裏を返せば上を落としてしまえば下も無力化するということに他ならない。
 依存度が強ければ尚更、だ。
 故に待つ。二人がまた分かれるまで、どこまでも待ち続ける。ジョロウグモのように。

     *     *     *

 屋外に廃棄されていたのは古さびたトラクターだ。
 機種としては比較的新しい方なのだが、
 手荒く使われていたのか傷やパーツの欠損が目立ち、一目にも使えなくなっているのが分かる。
 もし工具があればすぐさま修理にとりかかりたい衝動に駆られたがそんなことをしている場合ではない。

 問題はこのトラクターに軽油があるかどうか、だ。空っぽであるならば徒労に終わる。
 いや寧ろそちらの方が可能性は高い。あまり期待はするまいと思いながら聖は燃料タンクのフタを開ける。
 瞬間、鼻腔がなんとも表現しがたい匂いを感じ取り僅かに意識が遠のく。
 直接匂いを嗅ぐのは失敗だったかと思いつつ、聖はペンライトでタンクの中を照らしてみる。

「……ほう」

 むせ返るような刺激臭に目まで焼かれそうな感覚を味わいながらも、聖は静かに波打っている液体を発見した。
 間違いない。燃料だ。それも結構残っている。
 内心快哉を叫びながらも、何故廃棄されたトラクターにこれだけの燃料が残っているのか、と疑問が浮かぶ。

 考えても詮無いことだ。ここが人工島である可能性が高い以上、
 施設は全て演出目的で作られたものだろうしもしくはわざとこのように配置したとも考えられる。
 可燃性の燃料に火の一つや二つくべてやればあっという間に大炎上。人を焼き殺す凶器となる。
 戦闘が原因にしろ不慮の事故にしろ、人が傷つき、死亡することを狙ったとも言える。
 推測にしか過ぎないが殺し合いという名目がある以上単なるミスや偶然とは思えない。
 怒りを滾らせながらも、しかしそういう考えが奴ら自身の破滅を招くのだと結論した聖は内奥に怒りを仕舞い込んだ。
 爆発させるときは、奴らの懐だ。

 ペンライトを消し、後ろで待つことみの方に振り返った聖はニヤと笑った。
 その意味を瞬時に理解したらしいことみはコクコクコクと素晴らしい勢いで頷いた。
 後は燃料を取り出すだけ。ポンプの一つでも持ってくれば必要な分の量は確保できるだろう。
 いざとなれば直接タンクに穴を開けて回収してもいい、がなるべく安全確実に回収したいのが聖の本音だった。

「ふむ、後は、あれだな。ポンプを探してきてくれ。私はここに残って見張りをする。
 誰かが来たらまた対応を考えなければいけないからな」
「うん、了解なの。……ところで先生、本当に機械にも詳しかったんだ」
「言ったろう? トラクターの修理だって出来る、とな。
 まあ土地柄と家族構成の関係上、やれることは多いほうが良かったからな」

 父も母もなく、自分ひとりで佳乃を養ってこなければならなかったため必然的に様々な資格を取得することも多かった。
 生活のためということもあったが、相互扶助の側面が大きい町でもあったから色々やっていたら自然と身についたものもある。
 だが今は自分ひとりという事実が圧し掛かり、聖の体を冷たくする。

 考えてみれば自分の人生は妹ひとりのために投げ打ってきた。
 そうしなければ守れなかったという現実もあったが、そうするしかなかったという仕方なさもあった。
 医学の道を志したのも妹の原因不明の病気を治すためだし、また女の身で家計を支えるにはこれが一番だという考えから。
 自分で意思して決めたわけではなく、人を救いたいという思いから医学の道に進んだわけでもない。
 妹のため、という言葉自体は間違いなく自分の意思に他ならないが、それは当たり前のこと。家族なら当たり前のことだ。

 ……私は、夢を持てなかった。

 夢を諦めたのではなく、最初からそのようなものを持っていなかった。
 それでもいいと思っていた。妹と平和に暮らせるのなら夢なんかなくたっていい、自分のことも考えなくていいと。
 しかし、今は現実が突きつけられている。依存する先を失い、何をしたらいいのか分からないという現実が。
 これからの自分に夢が持てるのか。考えさえ放棄していた己が今さら掴めるものがあるとでもいうのか。

 佳乃、私はどうしたらいい……? どんな顔をして生きて帰ればいいんだ?
 やりたいこと。夢。ことみでさえ分からないと言ったそれをどうやって見つけ出すのか。
 脱出が夢まぼろしではなくなってきたこと、芽が見えてきたことに聖は自分でも正体の分からない恐怖を感じた。
 今やりたいことは確かにあっても、やりきってしまえば空っぽの自分しか残らない。
 ことみに対して向けた言葉が、あまりに白々しいもののように感じられた。

『人は簡単に壊れたりしない』『少し先の未来でさえ考えられないような人間ではいたくない』

 強がりだな、と聖は己の不実に嘆息するしかなかった。
 全ては詭弁で、本当は自分こそが答えを求めていたのかもしれない。
 夢を持てない大人はどう生きればいい、と。

「……先生?」

 黙ったまま何も言わなかったからか、ことみが心配そうな声をかけてくる。
 問題ないよ、と微笑した聖は早く行ってこいという旨の言葉を出そうとしたが、それより先にことみが続けた。

「先生って、色々出来るの。どうしてそんなにいっぱい出来るのかな」
「そうでもないさ」
「そんなことないの。人を治せるだけじゃなくて機械にも詳しいし、気が利くし、それに……誰かを守れる力があるの。
 私は知識だけ。知っていても、使ったことがないの。ただ知っているだけ」

 ことみは自らが無力だと語るように表情を険しくした。
 買い被りだ、と思いながらも無下に否定することも聖はしなかった。
 彼女が言いたいのはそういうことではないというのが分かっていたからだった。

「私は、先生みたいな人になりたい」

 ことみの言葉に、聖は何も言えなかった。いや言うべき言葉が途切れてしまった。
 憧れ、信頼している少女の瞳がそこにある。だがそれは盲目の信頼ではなく、知ろうとする信頼だった。

「先生がどんなことを考えているかなんて分からないし、完全に知ることもできないと思うの。……どれだけ物事を知っていても。
 でも先生のやってきたことを、私は尊敬してるから。誰かを助けようとしてくれる先生を尊敬してるの。
 そこに嘘があったとしても、私は先生のついた『嘘』を信じたいの」
「……ふむ」

 ことみの下した結論はそうなのだろう。何をやりたかったのかも決められなかった彼女。
 けれども今は目標を定めて、進もうとしている。
 理由が打算的であったとしても人に恥じない行為をしていることを信じて。

「なら、とりあえず医者を目指してみるといい。だが案外厳しいぞ? 昨今の医療業界は」
「そのときは師匠、宜しくお願いしますなの」

 びっ、と敬礼まがいのポーズをとり、わざとらしく口元をへの字に結ぶことみ。
 思わず苦笑が漏れた。先生の次は師匠ということらしい。不思議と悪い気はしなかった。

 ことみの見ているものは虚像だ。自分が作り上げた虚像にしか過ぎない。
 ただ、それを自分と同質に見てくれたのもことみだ。そこを目指し、導いてくれと言ったのもことみ。
 どうやら自分には夢は夢でしかないのだろうと思った聖は、意外なほどすっきりとしている胸の内を眺めて安堵していた。

 大人になりきってしまった己には仕事に明け暮れるしかない。しかしそれでいい。
 仕事を通じて何かを伝えることもできる。自己満足だって得られる。
 学校を出るときに思ったことと同じだ。未来を望む人達を導く。それが大人の役目だ。

 どうして未練たらしく、自分も救われるなどと思っていたのだろう。
 その資格を自分で手放してきたくせに、今になって望むのは虫が良すぎる。
 だから自分が掴めるのは自己満足と他人の未来だ。だがそれは見守りながら朽ちてゆける価値のあるものだ。
 救われる必要はない。救われなくとも、幸福にはなれる。そう納得できるのも人間だ。

「うむ、宜しくお願いされよう」

 びっ、とこれまたわざとらしくことみの真似をする聖に今度はことみが苦笑した。
 仕事をさせようとするからだ。ニヤリと口元を歪めた聖を見たことみは肩をすくめて廃工場の中へと戻っていった。
 ポンプとタンクを取ってくるつもりだろう。自分は自分のすることをする。
 そう断じた聖は顔を上げ、トラクターを背にするように移動する。誰かが来るかどうか見張るだけだ。

 デイパックは背中から下ろして近くに置く。いい加減背負うのも疲れた。
 と、ふと聖は日本酒が入っていることを思い出し、迷いながらも一口だけ飲むことにした。今までの澱んだ考えを洗い流す意味も含めて。
 デイパックの中にあるそれはまだ十分な量があり、ビンの中で液体がたゆたっている。

 栓を開け、一口。久々に味わう酒の感覚が喉を潤し、心地良さが体を満たしてゆく。
 きっとそれは自分の心境の変化のせいもあるのだろうと思いながら、続きは後にしようと日本酒をポケットへと仕舞う。
 サイズ的にはそれほどでもなかった。携帯用の酒瓶なのだろう。そんなことを思いながら聖は思考を移す。
 さて、万が一戦闘になってしまったらどうするか。肉弾戦ならともかく遠距離からの銃撃などに晒されたら対応し辛い。
 でかい狙撃銃らしきものはあるがそんなものを撃てる技術は流石にないし、医者としてのプライドが許さない。

 なら半殺しにはしてもいいのかということにはなるが、治せば構わない。
 要は命があればいいのだ。……もっとも、命を蔑ろにし、奪うような輩にはまだ出会ってはいないのだが。
 人がたくさん死んでいる現状で、それはきっと不幸なのだろうなと思いながら聖はベアークローを装着する。
 できるならもう誰も死なずに脱出したいものだ……そう考えたとき。

 ぱしゃぱしゃと水音を立てて近づいてくるものがあった。
 もう戻ってきたのかと思った聖だったが、早すぎるという直感が体を動かし、音の方へと振り向かせていた。

「遅いですね」

 ぼそりと呟かれたときには、既になにかが自分の方へと向けられていた。
 しまったと思ったのも遅く、忍び寄ってきていた女は粘りつくような視線を向けてくる。
 小柄な体と綺麗に揃えられた長髪は、女の雰囲気には不釣合いなように思えた。

 動揺しかけている頭をなんとか平常心に保ちつつ「何をした」と尋ねる。
 どうなっているのか分かっていない現状、こちらから手を出すわけにもいかない。
 女はそれを分かっているのか余裕を持った、見下すような視線を向けてくる。

「まあまあ、それよりもあなたの相方が帰って来るのを待ちませんか? その方が説明の手間が省けます」

 慇懃無礼とはまさにこのことか。穏やかで丁寧ながらも自らが場の支配者だとも言わんばかりの調子に、聖は不快感を覚える。
 また説明しないのはこちらに手を出させないためでもあるのだろう。敵は周到だ。
 厄介だなと内心に嘆息しながら構えを崩し、武器を外すと女は満足そうに頷いた。それがまた聖の心を逆撫でしたのだが。

「自己紹介くらいはいいかもしれませんね。わたしは宮沢有紀寧といいます。宜しくお願いしますね、一ノ瀬ことみさんの先生」
「盗み聞きとは良くない趣味だな。それと、私を気安く先生と呼ぶな。聖さんと呼べ。ちなみに名字は霧島だ」
「わたしは臆病なものですから、すみませんね霧島さん」

 あくまでもこちらの優位に立つように会話する有紀寧に、聖は己の迂闊さを呪う。
 内部に誰かが潜んでいるというのを全く考慮していなかった。
 村から少し離れた場所だから誰もいないと高をくくっていたのかもしれない。

 何にせよ、この女は危険だ。どうにかしてことみに連絡できればいいのだが……
 有紀寧の口ぶりからするとことみの存在は知っているものの接触はしなかったようだ。
 何故ことみではなく自分を狙ったのか。

 何らかの罠に嵌められたのは確実だが、工場内部に潜んでいたのなら入っていったことみを狙うのが筋だろう。
 とは言うものの、ことみが標的にされなくてホッとしているのも事実だ。
 大人として、保護者として、ことみを殺させるわけにはいかない。そんな仕事すら満足に出来ない大人であってたまるか。
 堅く決意を握り締め、聖は探りを入れる。

「どうして私を狙った」

 予測の範疇で言うなら、ある程度察しはつく。自分の方が強いからだ。聖はそう考える。
 殺さない、ということはすなわち生きているという事実を人質にするようなもの。
 肉体の強弱の面で言うならことみと自分では、明らかに自分の方が上だ。ことみを人質にしたとしよう。
 その場合自分が反抗するのと、自分を人質に取ったとして、ことみが反抗する場合とではどちらが成功率が高いか。
 決まっている。強い方が単純に考えて成功率が高いはずだ。だから有紀寧は自分を人質にしたのだ。

「そうですね……まあ、あなたの方が都合がいいからということにしておきますよ」
「適当に狙ったのではないわけだ」
「言ったでしょう? わたしは臆病な人間ですと」

 言外に慎重かつ油断も隙も見せないと語る有紀寧に、聖は言葉では崩せないと確信を得る。
 我知らず舌打ちが鳴り、焦ってきていることも聖は自覚する。初めての敵がこうも狡猾な相手だとは。
 もう少しまともな相手を寄越してくれてもいいんじゃありませんか神様?

 返す言葉を失った聖は、いっそ暴れて異変を知らせてやろうかとも思ったが、
 有紀寧の片手が不自然にポケットに入っているのを見てやはりダメだ、と考えを打ち消す。
 有紀寧にとって一番避けたいのは何らかの効力があるスイッチを奪取されることだろう。
 にもかかわらず両手で保持することなく片手に持っているだけで矛先を向けようともしない。

 となればポケットの中には自分の動きを封じるものがあるのだろうと聖は予測する。
 催涙弾か、閃光弾か、唐辛子スプレーでもいい。とにかく不意討ちにもどうにかできる手段が、向こう側にはある。
 つくづく厄介だなと聖は苦渋の表情を浮かべつつも、さりとて妙案も浮かばず悪戯に時を消費するだけだった。

「先生ー! 取ってきたのー!」

 そうこうしているうちに、ことみが戻ってきてしまったらしい。
 大声を出すかと頭の中で考えた聖だが、有紀寧の冷たい視線がそれを阻んだ。
 不審な挙動を見せればまずことみを狙う。その意味を含んだ視線が工場内部に向けられ、結局口をつぐむしかなかった。
 おまけに有紀寧は工場外部の壁にもたれかかっている――つまり、ことみからは見えない位置にいるため彼女は気付きようもない。
 ことみが外に出てきた……それを見計らったかのように、有紀寧が冷笑を浮かべながらことみの横へ並んだ。

「お疲れ様です。ですが……そこまでです」
「!?」

 突然かかってきた声に動揺し、抱えていたポンプとタンクを取り落とすことみ。
 有紀寧は努めて冷静に、かつ迅速にポケットから抜いた拳銃をことみへと突きつけていた。
 今撃つつもりがないのが分かっていても、見た瞬間聖は「やめろ!」と絶叫する。

 ちらりとこちらを一瞥した有紀寧は、ふん、と裂けるような笑みを寄越すだけだった。
 ことみの不安げな瞳が揺れ、聖の方へと向けられた。「先生……」と呟かれた声に、後悔がさざ波のように押し寄せる。
 やはり我が身など省みず、命を捨ててでも有紀寧をどうにかしておけばよかったのではないのか。
 何故自分はいつも、流されることしか出来ない……

 もう一度絶叫したくなった聖だが、それだけはするまいと断じる心が声を喉元で食い止める。
 叫び散らしてもどうにもならない。大人としての役割を果たせと鋼の意思で感情を押さえつけ、
 今度は落ち着きを取り戻した声で「やめろ」と通告する。
 聖の中にある何かを感じ取ったらしい有紀寧は僅かに眉根を寄せると、ことみから少し離れる。

「そうですね。少し乱暴過ぎました。ごめんなさいね、一ノ瀬ことみさん」
「……どうして、私の名前を」
「同じ学校の有名人じゃないですか。あ、わたしは宮沢有紀寧と申します。どうぞよろしく」

 まるで日常の中で挨拶をするように、拳銃を向けながら、にこやかに有紀寧は語る。
 いや違う。この女は日常を取り込んでいる。日常と狂気を一体化させた『普通の女学生』。そう表現するのが正しいように思えた。

「さて、と。早速ですけど一ノ瀬さんにはどんなことになっているのか説明しなければいけませんね。
 あ、霧島さんもですが、あまり動くと寿命を縮めることになりますので」

 右手に拳銃を、左手にスイッチを構えながら有紀寧は油断なく聖とことみの様子を窺っている。
 元々二対一を想定しての行動だったのだろう。だがそんなことは聖にはどうでもよかった。
 とにかくことみにだけは手を出させない。その一事だけを考える。
 聖のそんな思いなどつゆ知らず、有紀寧は話を聞く体勢に入ったと見たらしく、語りの続きを始めた。

「まず霧島さんですが……先程押したのは首輪にある爆弾の起動スイッチです。12時間後には爆発しますね。
 赤く点滅を繰り返していると思うので、一ノ瀬さんならすぐに分かると思いますが?」
「本当か?」
「……うん。その人の言うとおり、点滅してる」

 言い慣れた調子といい、間違いなく効力はある。それに有紀寧は幾度となくこれを使用してきたということだ。
 一体何人がこの女の犠牲になったのだろうと鈍く突き上げる怒りを感じながら、「それで?」と続きを促す。

「大体わたしの言いたいことは分かると思いますが、あなた方には何人か殺してきてもらいたいんです。
 そうですね……まずは五人ほど、でしょうか」

 やはりか。薄々感じていたとはいえ、口にして出されると虫唾が走る。
 あまりに馬鹿馬鹿しすぎてため息しか出てこないほどだ。

 ああ、やはり早々に張り倒しておけばよかった。こんな馬鹿の茶番劇にことみを付き合わせることもなかっただろうに。
 殺せと命じた有紀寧の声に慄き、こちらを見たことみに対して聖は「気にするな」と微笑を浮かべた。
 こんな輩に惑わされることはない。ことみはことみのやりたいことをやればいい。
 自分はその手助けをするまでだ。思ったより落ち着いている心の内に驚きつつも聖はゆっくりと歩き出した。

「……勝手に動いていいとは言っていませんが」
「冗談もほどほどにしろ。私は医者だ。貴様ごときのために人殺しの看板を掲げてたまるか」
「一ノ瀬さんがどうなっても――」

 不快げに口を尖らせ、銃口をことみの方へ向かせかけた瞬間を狙い、聖はポケットからさっと日本酒を取り出す。
 フタを強引に開けると同時にブーメランよろしく投げられた酒瓶は、中身の液体を撒き散らしながら有紀寧へと向かった。
 正確に顔面へと投げられた酒瓶は咄嗟に身を反らした有紀寧には当たらなかったものの中身が思い切り顔面へと当たる。

「っ!?」

 雨のせいで無色透明の液体が見えづらかったのもあり、有紀寧はモロにそれを浴びる。
 ひるんだところに聖が体当たりしてきた。圧された有紀寧と突進した聖は絡まりあうようにして地面を転がる。
 しばらくして二人の動きが止まる。有紀寧が下、聖が上をとる形で膠着していた。

「く……! あなた、命が惜しくないんですか!」

 銃口をこちらの方へ向けようとするがそうは問屋が下ろさない。聖は片手で拳銃の先を掴んでギリギリ急所から外す。
 スイッチを持つ腕もしっかり押さえる。
 とは言っても首輪が爆発したところで有紀寧にも被害が及ぶだろうから、そんなに気にしているわけではなかったのだが。

「そちらこそ観念したらどうだ。大人しく私に半殺しにされて治療を待ってみる気はないか」
「人を殺すだけの度胸もない大人が、なにをいけしゃあしゃあと……」

 先程まであった冷笑は底暗い闇を持った、蔑む嘲笑へと変わっていた。
 ただ有紀寧の瞳は何をも捉えてはいない。嗤っているのは自分さえも含めた世界の全て。
 人が人を殺すことを許容する環境、その中でしか生きられない有紀寧、そして聖たちをも無駄だと嗤っていた。

「わたしは生きて帰らなきゃいけないんです。そのためならなんだってする。なんだってしなきゃいけない。
 死んでも死に切れない理由があるんですよ。それをやれ医者だからやれ殺したくないからと曖昧な理由で濁して、
 逃げ続けているあなた達のような人がどうして生きているんですか。こんな人たちが生きているくらいなら、どうして……」

 不意に有紀寧の瞳に人間を思わせる光が差し込み、聖をハッとさせた。
 泣いているのかと思った直後、無理矢理に有紀寧が発砲し、聖の肩を貫いた。
 一瞬気を緩めてしまったせいだった。仰け反った聖を体ごと押し返し、有紀寧は拘束から逃れた。

「先生!」

 駆け寄ってきたことみに支えられながら、聖は既にこちらから離れ、無表情に銃口を向ける有紀寧の姿を仰ぎ見た。
 人間を感じさせた瞳はもう失われ、人を殺すという選択肢しか選べなくなったひとの悲しさがありありと映し出されていた。

「やらなければやられる。弱ければ殺される。それがこの世界の掟です」
「……なら、弱いのはお前だよ」

 減らず口と受け取ったのだろう。ぴくりと指が動きかけ、ギリギリで押し留めるようにして有紀寧は息を吐いた。
 有紀寧は反論しようとしたが、その前に聖が言葉を叩きつける。そうしなければいけないという思いがあった。
 主張しなくてはならない。断固として膝を折ってはならない。餓鬼の我侭を修正してやらなければならなかった。

「君は結局この状況、この島の雰囲気に呑まれ押し潰されただけだ。
 望んでいたものはあっただろうに、もう遅いんだと諦めたつもりになって……
 子供のくせに、分かりきったような顔をして。小賢しいな、宮沢有紀寧」
「賢しくて悪いですか」

 言い返す有紀寧の語調は感情が滲み出ていた。子供と揶揄されたのが気に入らなかったのだろうか。
 有紀寧がどんなことを思っているのか知ったこっちゃない。自分と同じ立場であろうとするのが気に入らないだけだ。
 は、と聖は笑った。

「君の言葉、そっくりそのまま返すよ。どうして生きている。たくさんの人を犠牲にしてまで、それだけの価値があるのか」
「……ありますよ。そうしてわたしは生きているのですから」
「はっ、どうだろうな。君の本性を知らないまま死んでいった人もいるだろうに。
 君が未来を望めると思って殉じた人もいるはずなのに。
 そうしなきゃ生きられないと諦めた末の選択に身を任せた人間のために死んでいったとは、浮かばれんな。
 無価値だ。断言してやる。君のために死んだ人間は全員無価値だ。
 君には何もない。人間の価値を蔑ろにした君が分かったような風になって――」
「――黙れ。何も知らない癖に!」

 冷笑も蔑みも嘲笑も吹き飛ばし、怒り一色に染まった有紀寧の声と銃声が重なる。
 感情に任せて発砲された銃弾が聖の体を抉り、貫き、焼けた鉄の棒で神経を抉られる感触を味わう。
 ことみの悲鳴が耳元で弾ける。幸いにしてことみに被害はなかったようだ。

 ならば、いい。済まないと囁き、ことみを振り払って聖は立ち上がる。
 ことみよりも、目の前の我侭な子供を優先しようとしている。会って間もない敵の方を優先している。
 顰蹙どころの話ではない。佳乃にだって大ブーイングだろう。
 でも、これが性分なんだと聖は苦笑する。情けない奴には張り手を。霧島家の方針だ。そうして強く育ってきたのだ。

「来ないで下さい。近づけば爆破します」

 苦渋を呑んだ有紀寧がスイッチを向けていた。
 明らかに聖の雰囲気に呑まれ、動揺しているのが分かった。
 何故感情を出してしまったのかという後悔さえ窺えた。

 聖はそれに対してさえ軽い苛立ちを覚える。この期に及んでまだ大人を気取ろうとする。
 若いくせに。全くいい加減にして欲しいものだと憤懣たる思いを抱きながら聖は歩く。
 懺悔させてやる。懺悔して、地を這いつくばってごめんなさいと言わせてやる。
 けれども血を垂れ流しながら進む聖に、縋るように掴む手があった。

「先生……!」

 ことみが泣きそうな表情をしていた。自分でもどうしてこんなことをしているのか分かっていないような表情だった。
 聖のやろうとしていること、決意が正しいものだと知りながらも身体が拒否してしまったのだろうか。
 有紀寧とは大違いだ。聖はことみから目を反らし、有紀寧の方を見据えながら言った。

「やりたいことをやればいい。私が言えることはそれしかない。
 目指すものを変えてもいい。望まれる道を進むのもいい。
 だが人生を腐らせるな。悪戯に思いだけを持て余すな。資格を失ってからじゃ、遅いんだ」

 我ながら説教臭いと聖は失笑する。それに説得力もない。
 けれども、自分は神様ではないのだと知っている。言葉に出してでしか思いを伝える術を持たないのを知っている。
 分かってくれ、じゃない。分からせなければいけない。努力を怠り、放棄してしまった瞬間に人間は堕ちてしまう。
 宮沢有紀寧のように。

 掴まれた服がゆっくりと放された。その感触を聖は確かめ、再び有紀寧へと歩き出す。
 血はとめどなく流れ、時折意識が朦朧とする。存外血が足りていないらしい。
 不規則な生活を送っていたからかな、と自分でも訳のわからないことを考える。
 そんなどうでもいいことを考えられる程に頭の中が透き通っていた。或いはひどく恬淡とした顔なのだろう。

「止まりなさい。止まらないと……」
「やってみろ」

 獣の唸るような低い声に有紀寧が意識を浮かせる。刹那の恐れを聖は見逃さなかった。
 怯んだ有紀寧に対して聖が駆ける。間は僅かに数メートル。この至近距離で爆発させれば有紀寧も無事では済まない。
 聖は死ぬ気などない。それよりも有紀寧への腹立たしさが先立っていただけのことだった。
 自分も巻き込まれると気付いた有紀寧は咄嗟に拳銃を構える。

「あまりわたしを舐めないでください」

 声はゾッとするほど無味乾燥であった。
 動じていない……? 聖の疑問はすぐに解決されることになった。
 拳が有紀寧の顔面に届く寸前、至近距離から狙って発射された銃弾が霧島聖の体を断ち切った。
 聞き分けがないとは思っていたが、どうやら予想以上に人の話を聞く奴ではなかったようだ。

 悔しいな。聖の頭に浮かんだのはその一語だった。
 妹の姿、ことみの姿、出会っていった人々の姿が現れては消え、死の悲しさと恐怖を伝える。
 こんなにも死ぬ事が怖い。もう生きていくことが出来ないのがあまりにも辛すぎる。

 でも、と聖は思う。
 だから自分が死にたくないとは思わず、死のつらさを教えて回りたいと思ったことは、やはり己が大人だからだろうか。
 もうそれも出来なくなってしまったが――ああ、それが、一番辛いな。
 ことみにもうこれも教えられない。聖は初めて無念という感情を覚え……意識を暗転させていった。

     *     *     *

 ぐらりと聖の体が傾き、くず折れる。「分からず屋め……」と呻いたのを最後に前のめりになるようにして動かなくなった。
 何が諦めたつもりになって、だ。何が無意味だ。おこがましい。大人気取りの偽善者が。
 罵詈雑言が次々と浮かんでは聖へと叩き付けられる。鬱憤晴らしをするかのように、有紀寧はさらに発砲した。

 頭蓋骨が割れ、脳漿の一部が飛び出す。罅の入った西瓜を棒で突く感覚だった。
 銃弾が尽き、コルトパイソンがカチリと弾切れの音を立てる。
 スイッチを一回分無駄にしたと有紀寧はもう一度腹を立て、残る一ノ瀬ことみの姿を探した。

「逃げましたか……」

 聖とやりとりをしている間も体を震えさせていたことから考えれば当然の結果とも言える。
 変な意地のお陰で千載一遇の好機を逃した。その上悪戯に武器弾薬を消費してしまったことを思えば優勝は遠のいたに違いない。
 そういう意味では聖は一糸報いたといってもいい。こちらからすればとんでもない損失だが。
 聖の遺体を嬲り尽くしたい気分になった有紀寧だが、こんな奴に構っている暇はないと、コルトパイソンに銃弾を再装填する。

 どうも心にはさざ波が立っている。理由は言わずもがな、聖のせいだとは分かっているもののもうどうする術も持たない。
 寧ろ何を苛立っているという疑問が渦巻き、落ち着かせようと必死になっているのが信じられない。
 聖に言われたことは確かに事実を含んだ部分もある。

 しかしその程度で動じるような人間だっただろうか、と有紀寧は脆弱になったらしい己を眺め、失望せずにはいられない。
 いや状況が若干不利に傾き、焦っているだけだ。また優位に立てばこのさざ波も収まる。
 無理矢理そう結論した有紀寧がシリンダーを戻し、また歩き出す。

「っ!? あぐっ!」

 が、転ぶ。いや転ぶ以前に発した破裂音と同時に鋭い痛みが走り、立てなくなっていた。
 地面に体を打ちつけながら、有紀寧は自分がどうなっているのか確認する。
 見ると、太腿の付け根から血が出ていた。鉛筆ほどの太さの穴も開いている。
 撃たれたのだ、と認識した瞬間、殺されるという恐怖が駆け巡り、寝ていては殺されると体を引き摺り、這うようにして逃げる。

「……まだ、逃げるんだ」

 そんな有紀寧の後ろから、低く搾り出された声が聞こえた。

「……あなたですか」

 聞き覚えのある声に有紀寧は失笑する。相手にではない。自分に対してだった。
 言葉を交わす意味も価値もない。そう断じた有紀寧は転がってコルトパイソンを撃とうとしたが、遅かった。
 既に見切っていたらしい相手は半ば乱射気味ながらも有紀寧が撃つ前に撃ちこみ、
 肩や腕に直撃させ、有紀寧の戦闘能力の一切を奪った。

 コルトパイソンは手から零れ落ち、腕も満足に動かなくなる。
 特に鍛えているわけでもないから当たり前か、と冷めた感想を抱きながら有紀寧はまだ力の残る腕でスイッチを握り締める。
 わたしの守り神。最後まで手放すものか。強く思いながら、有紀寧は発砲した敵へと向けて言葉を放った。

「ひどい、ですね……半殺しなんて」
「……先生を……殺した、くせに」

 怒りを押し殺した声は一ノ瀬ことみのものだった。彼女は上から、有紀寧を見下ろしていた。
 動かした視線の先では長い銃を構え、半泣きの表情で、しかししっかりとした立ち振る舞いをしている。
 逃げたと思ったら、違ったというわけだ。逃げたのではなく、射程外から狙撃するために距離をとった。
 霧島聖を犠牲にして。やってくれる、と有紀寧は改めて聖を憎んだ。本当に、一矢報いてくれた。

「本当は許せない。あなたみたいなわるものを絶対に許したくない。でも、殺さないの。私は先生の弟子だから」
「……偽善者風情が……は、わたしを殺したも同じでしょうに」
「もう生きるつもりもないんだ」

 カチン、と来た。こいつもまた、自分を見下そうとするのか。子供だと、餓鬼の我侭だと言い通して。
 わたしはこうせざるを得なかった。こうするしかなかった。
 結果的に酷いことをしてきたとはいえ、最初から望んでやったことじゃない。
 戻るためには生き延びる必要があった。生きなければならなかった。それに強い武器も手に入れた。
 だったら、悪魔の言葉にだって耳を傾けてしまうのが人間。そうではないのか。

「わたしだって死にたくないですよ。死にたくない。生きて帰りたい。そのために何だってすることの、何が悪いんですか」
「だからって、生きるためにはしょうがない、こうするしかないって、他の全部を犠牲にしてもいいの?
 ……自分でさえも。先生の言葉に怒ったってことは、図星な部分があったってことなの。
 本当はこんなことしたくなかった。したとしても、犠牲にしたくないものもあった。……あなたは分かってたはずなのに」
「……何を言うかと思えば……」

 敵対的な口調は崩さないながらも、否定しきることはできなかった。普段なら嘘を吐いてでも反論するはずなのに。
 それともことみの言うとおり、もう生きるつもりもないからなのだろうか。『また』諦めているからなのだろうか。
 分からない。ただ、自分に勝機がないのは事実だった。こんな有様で、スイッチを使おうにもその前に攻撃される。
 しかも寝たきりであるため、下手すれば自分に起動してしまいかねない。まさに八方ふさがり。チェックメイトだ。

「自分さえも諦めて、他の人もみんな犠牲にして……もうあなたには何もない。自業自得なの。ごめんなさいって言えばいいの。
 そのまま謝って、謝って、後悔し続ければいいの」
「馬鹿にしないでください、泣き虫の癖に……わたしを語るな」

 そう。もう勝てはしない。四肢を奪われ、自由さえも奪われた自分はもう優勝なんてできない。
 諦めたといえば、そうなのだろう。だが優勝は出来なくとも、この小娘に勝利する方法はある。
 諦められない。散々馬鹿にしくさって、しかも間接的に妹の初音を侮辱したこと、それが許せない。

 無意味な死。そんなことがあるはずがない。初音は自分を信じて、こちらの勝利を信じて勝ちに行ったのだ。
 自分達は勝ち残れるのだと、諦めてはいないのだと本気で信じていたことだけは否定されてはならない。
 知らず知らずのうちに口元を歪めているのに、有紀寧自身もようやく気付く。

 ああ、つまり、そういうことなのだろう。
 わたしは、結局、家族という亡霊に縛られていた。
 追いかけていたのでもない。知ろうとしていたわけでもない。

 取り返したかっただけだ。無理だと分かっても作り上げたかったのだ。
 偽物でも、紛い物でも、幻想でもなんでもいい。家族という懐の中で温まりたかった、それだけなのだ。
 ここで必死に作ろうとして、失敗して、だから帰ろうとしていた。……死にたくないのは、そのためだった。
 何ということはない。自分は人殺しじゃない。悪魔でもない。愚直に過ぎた。そういうことだ。

 ――だから、わたしは『家族』と出会える場所に行きます。ええ、だって、一番手っ取り早い方法ですから。

 無論、きっちりと落とし前はつけておく。一銭の釣りも残さない。綺麗に支払ってやる。

「あなた、なんか……苦しんで死んでしまえばいいんです……地獄で、待ってますよ」

 これは賭けだ。一度たりとも試したことのない賭け。だがやってみる価値はある。勝ちに行くのだ。
 初音が笑っている。流石お姉ちゃん、と。
 だから信じられる。信じてくれるひとがいるから、信じられる。
 有紀寧も笑った。笑って、有紀寧は――スイッチを押した。

     *     *     *

「っ、うぐ、あうっ……!」

 呻き声が自分のものだと分かるまでに、いくらかの時間を要した。
 それと一緒に、世界の半分が真っ黒に塗り潰されているのが分かった。
 いや違う。これは目を潰されたのだと理解する。右目は開いているのに、左目が開いていないのがその証拠だ。
 鈍痛がズキズキと目の奥から襲ってくることを考えれば、完全に失明したのだろう。

 血を流し続ける顔を手で押さえながら、ことみは首から上が消失した宮沢有紀寧の姿を見ながら先刻起こったことを思い出す。
 何の前触れもなかった。恐らくはあらかじめそうなるように方向を定めておいたのだろう。だからスイッチを押すだけで良かった。
 少しでも不審な挙動を見せれば発砲しようとは警戒していたが、甘かった。まさか自爆するとは思いも寄らなかった。
 結果として爆心地の近くにいた自分は爆風と首輪、人体の破片の直撃に遭い、体の左半分に深刻な被害を受けた。

 いくら勝機がなくなったからといって……何とも言い表しがたい、不快な気分だった。同時に、空しさもあった。
 こうまでしてやることだったのか。命を捨ててまで成し得る価値のあるものだったのか。
 最後の最後、有紀寧は笑っていた。価値を見出したのか、蔑む笑みだったのか、もはや誰も知る術はない。
 ただ、聖を知っていることみからすれば、それはやはり理解しがたいものであることは間違いなかった。
 もし、やり直そうという気持ちを少しでも見せていたら……許せなくとも助けようとは思っていたのに。

 だって先生ならそうするから。私も、人が死ぬのを見たくはなかったから。
 今となっては、もうどうしようもないが……

 有紀寧からすれば、これも傲慢なのかもしれない。所詮人は自己満足の中でしか生きられないのだと。
 しかし、それでもとことみは思う。それでも人と共に過ごし、学んでいけるのもまた人間だ。
 自分は学んだ。聖から命を腐らせるなと学んだ。

 だから医者になる。聖が目指していたもの、理想としていたものに近づくために。
 聖が言ったことを伝えていくために。それが自分の夢だ。
 引いては、それが聖の想いも腐らせないことに繋がるだろうから……

 眼球に刺さっていた首輪の破片を抜く。ずるりという音と共に小さな破片が落ちた。
 ズキリとした痛みが生じたが、これが生きているという証だ。歩いていける証拠だ。
 体を引き摺りながら、ことみは一片の諦めもなく、次のための行動を始める――爆弾の材料を集める行動を。




【時間:2日目午後22時00分頃】
【場所:H-8 廃工場前】


一ノ瀬ことみ
【持ち物:H&K PSG−1(残り0発。6倍スコープ付き)、暗殺用十徳ナイフ、支給品一式(ことみのメモ付き地図入り)、100円ライター、懐中電灯】
【持ち物2:要塞開錠用IDカード、武器庫用鍵、要塞見取り図、フラッシュメモリ】
【状態:左目を失明。左半身に怪我】
【目的:爆弾の材料を探す。生きて帰って医者になる。聖同様、絶対に人は殺さない】

霧島聖
【持ち物:ベアークロー、支給品一式、治療用の道具一式(保健室でいくらか補給)、乾パン、カロリーメイト数個、カメラ付き携帯電話(バッテリー十分、全施設の番号登録済み)】
【状態:死亡】

宮沢有紀寧
【所持品:コルト・パイソン(6/6)、予備弾×13、包帯、消毒液、スイッチ(0/6)、ノートパソコン、風邪薬、胃腸薬、支給品一式】
【状態:死亡】


【その他:タンクとポンプは古錆びたトラクターの近く。二人乗り用の自転車は工場の近く。ゴルフクラブ、日本酒(空)は放置。】


【残り 16人】
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