十一時五十三分/変






 
あの街には、いつも静かに雪が降り積もっていた。
そんな気がする。

わかっている。
そんな筈はないのだ。
春が来れば雪は融けて消えてしまう。
夏に降った雨はやがてせせらぎとなって、秋に色付いた木々の葉を乗せて流れていく。
いくら冬が長くたって、ずっと雪景色が続いている筈がない。
そんなことはわかっている。

ただ私にとって冬はあまりに長く、あまりに無慈悲で、だから子供の見る悪夢のように、
いつまでも明けない夜のように、この心をひどく責め苛む。
来ないでと泣いても、季節は待ってくれない。
秋は終わり、冬が来る。
黄金の野原は枯れ果てて、銀世界の下に隠されてしまう。
だから私にとっての冬とは、世界の終わりを告げる鐘の音だ。

あの少年は、今年の夏も来なかった。
去年も、その前も、更にその前の年も来なかった。
きっと、来年も再来年も、ずっとずっと待っていたって、来やしない。
冬は、そんな風に嘲笑って私を掻き毟る、長く暗い季節だ。

私は、世界を護れなかった。

だけど、と。
小さな小さな、声がする。
それはいつか、思い出せない時間の中のいつか、私に囁いた声だ。
きっと私の奥底の、胸を切り開いて取り出さなければ触れないような、生温かい筋肉や
ずっと同じように動き続ける肺や心臓や、そういうものに囲まれた奥にできた小さな傷の、
ほんの少しづつ血の滲む綻びの中に棲んでいる、意地の悪い顔をした蟲の声だ。
私の身体が、私に聞こえないように囁きを交わすのを、わざと触れ回る声だ。
だけど、だから、それは私の、本当の声だ。
その声が、小さく小さく谺する。

―――だけど、私が本当に護れなかったのは、何だっけ?


***

 
打撃とは、具現した力の収束である。
川澄舞の変生した黒腕が一撃の下に砕くのは、鋭く割れた石礫だった。
獣の筋力、人智を超越した力をもって加速する舞の疾走は、その相対速度において
漫然と飛ぶ石塊を恐るべき威力を秘めた凶器へと変えている。
掠れば肉を裂き骨を容易く砕くその石くれを端から砕きながら、舞が走る。

向かう先には砂塵が陣幕を張っている。
薄く黄色がかった靄の向こうには巨大な影が横たわっていた。
石造りの巨腕。
舞の眼前、聳え立つ二刀の巨神像からたった今削ぎ落とされた、それは片腕である。
飛び交う砂塵と石塊とは、その腕の落ちる際に撒き散らされたものであった。

靄を切り割るように駆け抜けた舞が、巨腕を踏み台にして跳ぶ。
一直線に神像へと跳躍するその手には退魔の白刃が握られている。
陽光を凝集したように輝く刃は、舞の身体を薄く包む白い体毛と相まって、蒼穹の下に煌く白い軌跡を描く。
迅雷の、定めに抗って天へと昇るかのような、それは光景であった。

無論、見下ろす神像とて、ただ黙って接近を許す筈もない。
片腕を落とされながら身を捩り、残る隻腕で舞を迎え撃つ姿勢。
叩き落すような縦一文字の剣閃が、舞の跳躍と軌道を交差させようと迫る。
質量差にして数千倍。
厳然たる物理法則を前に、しかし表情を変えぬ舞がそれを捻じ曲げんとするが如く、白刃に黒腕を添える。
激突は覚悟と天道との闘争であったか。しかしこの神塚山において幾度も争われ、その悉くが
天の定めし法を覆してきた闘争の、何度めかの激突はその寸前において回避された。

介入したのは黒き弾丸とも見える少女である。


***

 
鬼。
柏木楓はそう名乗った。
名乗って、私をそう呼んだ。
それは、古い記憶を呼び覚ます。
ひとつの欠片は他の欠片と繋がって、堤防から溢れる奔流のように私を押し流していく。

思い出すのは昔のこと。
あの、雪の降りしきる街に辿り着くよりも、更に昔。
ずっとずっと幼い頃、私は確かに、そう呼ばれていた。
懐かしさはない。
そこにあるのは私を囲む、嘲笑と畏怖と、侮蔑の視線だ。
冷たい視線に囲まれて、いつしか私も冷えていく。
私の中で囁く声はきっと、そういうものの冷たさに誘われて目を覚ましたのだ。
―――鬼子、鬼子、と。
私を呼ぶ声の、底冷えするような悪感情に誘われて。

ああ、いや。
ひとつ、間違えた。
懐かしさは、確かにある。
その声に誘われて思い出す光景は、ひどく懐かしい。
吐き気がするほどに、懐かしい。

私を嘲る者たちの、お母さんに石を投げる者たちの、愛おしい、もう動かない、白く濁った、
溢れる涙で赤く汚れた、湯気を上げるような、冷たい、眼。
懐かしい、屍の山の、臭い。

護りたいと思った。
護れると思った。
私には、力があった。
容易く奇跡を起こすだけの力が。

奇跡は、人を救わない。
そんな、簡単なことだけを、幼い私は、知らなかった。


***

 
天へと昇る迅雷。
振り下ろされる、裁きの鉄槌。
交差する筈の二者はしかし、ついに交わることはなかった。
瞬間、真横からの狙い澄ましたような打撃が振り下ろされる鉄槌、巨神像の刃へと叩き込まれ、
その軌道を僅かに逸らしていた。
川澄舞と隻腕の巨神像、その振るう刃の激突へと介入したのは少女である。
名を、柏木楓という。

逸らされた巨大な刃の巻き起こす豪風が全身の毛並みを激しく波打たせるのを感じながら、
舞が空を駆け上がる。
文字通りの瞬く間に迫るのは巨神像の頭部。
向こう気の強そうな青年を象った顔面である。
一刀が、閃いた。

雷鳴の如き音と共に、巨神の顔が罅割れる。
刻まれた太刀傷はその顎から右の瞼にかけてを深々と切り裂いていた。
それが人であれば、絶叫と苦悶に身を捩っただろう。
致命傷となっていたかも知れぬ。
しかし舞が斬ってのけたものは、人ではない。
石造りの像である。
身を捩ることも、苦悶に声を漏らすことも、なかった。
代わりに繰り出したのは眼前、自らに傷を与えた存在への、反撃であった。

視界に影が落ちる。
斬撃直後の無防備な一瞬、舞を直撃したのはその身に数十倍する巨大な石像の、膨大な質量である。
脇を締め顎を引き、首と腕とで保持される槍の穂先は肩口。
ショルダーチャージ。人が獣であった昔より培われた、原初の突撃。
その衝撃は見上げる程の建物が雪崩を打って倒壊してくるに等しい。
瞬間、砂粒を磨り砕くが如き擦過音が舞を貫いていた。


***

 
それは簡単なことだった。
お母さんの命を救ったように、私は奇跡を起こしてみせた。
私とお母さんとに、汚い言葉や、薄汚れたゴミや、そういうものを投げつける者たちが、
ほんの少し不幸になればいいと願う、その程度の奇跡。

果たして不幸は訪れた。
ほんの少しの不幸で人は死ぬ。
高い高い積み木の塔の、一番下のひとつを引き抜くような、ほんの少しの不幸。
音を立てて崩れていくそれは奇跡のように滑稽で、奇跡のように味気ない光景だった。

だから私はそれに何の感情も覚えずに、ただ当然のことをしたのだと、散らかした玩具を
元の箱に片付けるような、そんな少し面倒で、だけど当たり前のことをしたのだと、思っていた。
私だけが、そう思っていた。

投げつけられる石や罵り声や、そういうものは、それまでよりも増えていった。
代わりに減ったのは、笑顔だった。
何よりも大切だった、何よりも護りたかった、お母さんの笑顔。

それが消えてしまうまでは、本当に早かった。
今も忘れない。
割れた窓硝子の隙間から吹き込む風に震えながら、電気もつけずにほつれた髪を梳いていた、
冬の朝の水溜りに張った氷のように薄い微笑みが、私の見たお母さんの、最後の笑顔だった。

それきりもう、お母さんは笑わなくなった。
怒ることも、泣くことも、言葉を発することさえ、なくなった。
母は今も、生きている。
私が病から命を助けた母は今も生きていて、だけどお母さんはもう、どこにもいない。

もう、なくなってしまった。
私が、護れなかったばっかりに。

私のなくした、それが最初の、たいせつなもの。


***

 
けく、と。
ひとつ咳き込んで折れた歯を吐き出す。
ぼたりぼたりと汗に混じって落ちる血は、どこの傷から流れてきたものか。
黒く染まった左の手で梳けば、慣れぬ爪の鋭さに切れた髪がはらはらと舞う。
風に散る一房の髪は白く、斑模様に赤黒い。

川澄舞は生きていた。
人を容易く挽肉に変える一撃から彼女を守ったのは、儚く舞い散るその白い毛並みである。
恐るべき打撃の、また文字通りの刹那を以て叩きつけられた落地の一瞬、本能的に身を丸めた舞の全身を
白銀の体毛が包み込んでいた。
森の王の名を冠する凶獣の身を覆っていた絶対の加護。
舞自身も由来を知らぬその力が日輪の下、彼女の命を繋ぎ止めていた。

見上げた空には刃がある。
足を止めた舞を屠るのに絶好の位置取り。
だが、いまや一振りとなったその刀を繰る神像はその切っ先を舞へと向けようとはしない。
隻腕の神像がそれでもなお美しい軌跡を描いて振るう刃が狙うのは、黒髪の少女である。
柏木楓。
中空に透き通る足場でもあるかのように身を捻り、回転し、自在の跳躍で刃を躱すその身のこなしは
奇と怪の二文字を以て形容される。
それは既に、人の成し得る動きではない。
揺らめく陽炎の、容となって道行きを惑わすような、妖の領域。
古来、鬼は帰なりという。帰、即ち人の魂である。
果たして鬼を名乗る少女の姿は妖しく揺れる魂にも似て、その幽玄を以て万象を侵さんとするように、
時折閃く紅の爪が神像に癒えぬ傷を刻んでいく。

見上げる舞の、何かを求めるように伸ばした手は黒く分厚く罅割れて、握り、開いたその中には何も残らず、
しかしその向こうには、神の形代と刃を交える少女がいた。
遠い空だ。
手を伸ばせば届くほどに、遠い。

身の内に流れる血と肉とは、獣の臭いに満ちている。
餓え渇き、牙を向いて涎を垂らす獣の臭いだ。
劫と吼えれば、大気が恐れをなすように震え上がった。

それは力。
見失った何かに手を伸ばすための、どこかに置き忘れてきた何かを補うための、力だった。
獣と鬼とをその身に秘めて、少女が静かに力を溜める。

空を見つめる瞳には、ただ星だけが瞬いている。
日輪の下、星が、流れた。
果てしない攻防の末、遂に柏木楓を捉えた巨刀が真一文字に振り抜かれていた。

転瞬、力が弾けた。
解放。悦楽にも近い感覚と同時、全身の筋繊維が咆哮を上げる。
加速は刹那。

隻腕の神像が一刀を振り抜いた、それは攻と防の狭間。
零に等しい、空白である。


***

 
私の中にぽっかりと開いた大きな穴に詰め込まれたのは、透明でふわふわした、
軽くていがらっぽい何かだった。
それが悲しいという感情だと気付くまでに、何年かかっただろう。
そんなことを教えてくれる人は誰もいなくて、だから私は名前をつけることもできない感情に
かりかりと胸の中を掻き毟られながら生きてきた。
流れ着いた北の街の片隅の、黄金の野原で過ごした、あの夏の日まで。

それが本当に大切なものだったのか、今ではもうよく思い出せない。
もしかしたら、私は単に同情で差し伸べられた手を唯一無二のものだと錯覚しているだけなのかもしれない。
だとしても、構わなかった。
何も持たず、ただ身体の内側から血を流し続けるだけの日々を過ごしていた私にとって、
それは確かに、救いの手だったのだから。

私は、何かに縋りたかった。
それを恥じる気は、ない。


***

 
白の少女が大気を切り裂いて空へと駆ける。
風に棚引く毛並みが手にした白刃の煌きを隠すように日輪を映して輝いた。
一刀を振りきった隻腕の神像はその無防備な懐を晒している。
柏木楓の爪に抉られた傷が幾重にも重なり罅割れたその上体へと飛ぶ舞を遮るものは何もない。
返す刃は到底間に合わぬ。
銀の弧が、閃いた。

巨砲から放たれた弾の炸裂したように、隻腕の神像が爆ぜた。
無数の石礫が落ちるのは神像が背を向ける銀の平原。
ぐらりと、巨大な像がその質量を保持できずに揺らぐ。
胸の下から右の脇腹にかけてが、失われている。
残った一刀を大地に突いて身を支えた、そこへ奔る影がある。

蒼穹の下、朱い三日月が昇った。
伸びきった隻腕を、その肘から断ち切ったのは柏木楓の爪である。
己が刻んだ幾多の傷を結びつけて一文字の線と成すように、刃が疾っていた。
ずるり、と断ち割れた石腕が凄まじい轟音と土埃を立てながら地に落ちる。
苦痛も苦悶も感じぬ石像が、しかし遂にはこの間髪を入れぬ波状の斬撃に屈するように、傾いだ。

皹が拡がり、割れ砕け、石くれが雨のように降り注ぐ。
その中心では赤黒い泉が水面を揺らし、幾つもの波紋を浮かべている。
鮮血である。無論、石造りの神像から流れ出る筈もない。
巨腕より僅かに遅れて大地に降り立った、柏木楓の全身から流れ出したものである。
傷は先刻、神像の一刀に捉えられた折のものであったか。
辛うじてその肢体を隠す襤褸の下には、ぐずぐずと泡を立てる桃色の肉が見える。
鬼の血が砕かれた骨を繋ぎ、爆ぜた肉と裂けた皮とを癒そうとしていた。

人ならぬ鬼の少女を射抜くのは獣の瞳。
川澄舞が、疾走を開始する。
頷いて、柏木楓が走り出す。
血は流れている。千切れた肉は風に晒されて無惨を誇示している。
しかし、足は止まらない。

楓は知らぬ。
川澄舞が、その振るう白刃が柏木耕一を討ったのだと、柏木楓は知らぬ。
黒く染まって鬼へと変じた舞の手が、如何なる数奇を経てそこへ至ったものか、少女は知らぬ。
楓が仇を知ることは、終になかった。

白と黒の少女が、同時に地を蹴った。


***

  
大切なものは、金色に輝く何かでできている。
それはとても綺麗で、ひどく貴くて、だからいつも誰かがそれを掠め取ろうと狙っている。

私は大切なものを護ろうとして、ずっと近くでそれを見ていようと、決して離すまいとして、
そういう気持ちはきっと誰にとっても重荷で、だけど私にはそういうやり方しかできなくて。
結局また何もかもをなくしてしまうとしても、そうしていくより他に、生き方を知らなかった。

分かっている。
あの少年は、もう来ない。

あの黄金に輝く夏の日はもうやって来ない。
私は彼に私の全部を預けるように縋りつき、彼はそんな私から遠ざかるように、どこかへ行ってしまった。
それはもう終わったことで、全部が過去の出来事で、私はお母さんをなくしたように、
彼もまたなくしたという、ただそれだけのことだった。

ああ。
それはただ、それだけのことだ。
取り返しのつかない過去であるという、それだけのことだった。

何かが喪われたのは過去の出来事で。
過去は取り返しがつかなくて。
だから、なくしたものは取り返しがつかない。
永遠に。

―――それが、何だというのだ。

それでも決めたのだ。
抗うと。
認めず、抗い、勝利すると。

あり得べからざる喪失を内包する現実に。
確固として存在するという、ただそれだけのものでしかない、薄弱な過去に。
頑迷に幸福を拒む、あらゆる世の理に。

護れなかったすべてを、喪われたすべてを、それでもこの手に取り戻すのだと。
川澄舞が、そう決めたのだ。

それが、この世を形作るルールの、全部だ。


***

 
神像に最早、力はない。
両の腕を落とされ、脇を大きく抉られて、己が膨大な質量を支えることもできず、
成す術もなく傾いでいく神像に、終わりの時が訪れる。
終焉を告げる使者は地を駆ける少女の姿で現れた。

川澄舞が、跳ぶ。
その手には退魔の一刀。
柏木楓が、迫る。
紅爪が大気を裂いて、小さな音を立てた。

両者の軌跡が瞬く間に近づいていく。
十字を描く、その交差点で。
二振りの刃が、閃いた。

小さな足音が二つ降り立った直後。
二刀使いの神像であったものの首が大地に落ちて、砕けた。


***

 
思い出す。
鬼と呼ばれていた頃の力を。
あの、今はもうない、やがて取り戻されるべき黄金の野原に置いてきた力のことを。

魔物。

口をついて出た言葉は形となり、今もまだあの場所に揺蕩い続けている。
力は刃だ。
理を切り伏せ、この手にあるべきすべてを取り戻すための、私の刃だ。

今、認めよう。
今、赦そう。

あれは、嘘だ。
彼をなくすことを恐れていた私の愚かさが作り出した、妄言だ。

魔物など存在しない。
黄金の野原はなくなってしまった。
彼の帰ってくる場所は、もうどこにもない。

それを私は認めよう。
認め、捻じ伏せよう。
それがどうした、と。

川澄舞は取り戻すのだ。
喪われたすべてを。
喪われゆくすべてを。

なくすことを恐れる理由など、もうどこにもない。

迎えに行こう。
私の力を。
理を蹂躙する刃を。


 ―――ここで待ってる。夢から覚めたあなたが、いつかあたしに会いに来てくれる日を。


そう呟いて微笑んだ、あの少女の世界。
かつて私が護れなかった、黄金の麦畑に。


 

【時間:2日目 AM11:54】
【場所:F−5 神塚山山頂】

川澄舞
 【所持品:村雨、鬼の手、白虎の毛皮、魔犬の尾、ヘタレの尻子玉】
 【状態:白髪、ムティカパ、エルクゥ、軽傷治癒中】

柏木楓
 【所持品:支給品一式】
 【状態:エルクゥ、重傷治癒中(全身打撲、複雑骨折多数、出血多量、左目失明)】

真・長瀬源五郎
【イルファ・シルファ・ミルファ・セリオ融合体】
【組成:オンヴィタイカヤン群体12400体相当】
【ベナウィ・フィギュアヘッド:健在】
【オボロ・フィギュアヘッド:大破】
【カルラ・フィギュアヘッド:健在】
【ウルトリィ・フィギュアヘッド:健在】
【カミュ・フィギュアヘッド:健在】
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