十一時五十一分/綺麗






 
白と黒と、そして紅とに彩られた、それは裸身である。

さら、と。
夜を焚き染めたような短髪が、風に靡いて涼やかに鳴る。

「忘れるものかよ―――」

言葉を紡いだ唇は紅を差したように鮮やかで、湛えた笑みの冷ややかさを際立たせている。

「ああ、忘れるものかよ。あの頃にみた、夢の色を」

白は、静謐。
原初の脈動を秘めながら煌めく冬の日輪の如き、それは女であった。

「私はまだ―――夢の中にいる」

来栖川綾香が、立っている。


***

 
それが生きた獣であれば、傲と吼え猛る声も聞こえただろうか。
人を容易く磨り潰す石造りの牙の間からは音もなく、ただ夜の森に泥を湛えた真黒き穴のような口腔が、
綾香を威嚇するように開いている。

「私にはわからない」

裸身が跳ねる。
寸秒を以て加速の頂点に達した白い弾丸が、石造りの獣を撃つ。
両の拳による連打は一続きの音を生み、その音の余韻が消えるよりも早く次の波が来る。
躍動する左腕、堅い拳胼胝に覆われてなお優美と映る拳が引かれたときには既に右の腕、
黒く変生した鬼の拳が獣の鼻面へと突き込まれている。
嵐の如き連打にもしかし、獣の巨神像はこ揺るぎもしない。
煩げに首を揺すった、その動作一つで綾香に距離を取らせている。
陽光の下、古代の職工が丹精込めて鑿を振るい彫り上げたようなその身には、傷の一つも負っていない。

「なぜ誰もが、歩みを止めるのか」

たん、と。
音を立てて銀の湖の淵、巨神像の立ち並ぶ辺縁に素足を着いた綾香に、獣が反撃へと転じる。
襲い来るのは爪である。
自らの足元に立つ綾香を薙ぐ軌道。
迫る剛爪を横目で見た綾香が、長くしなやかな脚に力を込める。
飛び退いて躱すか。―――否。
踏み込んだ右の脚が、踵を支点として回転する。
捻りながら後傾していく上体と腕とが体躯全体を使った遠心力を生み、体幹の筋力がそれを精密に伝達する。
打ち出されるのは、閃光とすら映る一撃。
希代の身体感覚と天性の柔軟な筋肉とが作り上げた、精緻な美術―――左上段回し蹴り。
格闘家、来栖川綾香の抜き放った伝家の宝刀が、自らに数倍する巨腕を、正面から迎え撃った。
切り裂かれた風が、万雷の拍手の如く爆ぜ、散った。

「なぜ自らが腐っていくのを、じっと眺めていられるのか」

びりびりと耳朶を震わせる爆音の余韻の中、綾香が駆ける。
質量と物理法則とを無視して弾いた巨獣の前肢は、しかし無傷である。
対する綾香もその疾走の最中、深紅の染料で刻印する裸足の足跡が、一歩ごとに薄くなっていく。
蹴りの衝撃で割れ裂けた足裏の傷が、見る間に癒えていくのだった。
仙命樹、祝福と呪詛とを等しく齎す不死の秘薬の効果である。

「何かを学んだと、何かを得たと、したり顔で膝を屈し」

天空を駆けるが如き跳躍から獣の牙を目掛けて打ち下ろされるのは踵。
撓めた身体から流れるように繰り出された綾香の脚が、落下の加速を得て剛断の鎌と化す。
弧を描く軌跡が速度の頂点で巨獣へと吸い込まれていく。
刹那、躍動する来栖川綾香の肉体に存在したのは、美という言葉の意味であった。
斬の一字をその義と銘に打たれた白刃の見る者の悉くを惑わし蕩かすが如き、魔性。
それは、人という種の持つ力の具現である。

「歳を経て磨り減って、朽ち果てたようなものたちに囲まれて、曖昧に笑いながら腐っていく」

中空、連撃の華が咲く。
朱く散るのは鮮血の飛沫。
限度を超えた酷使に爆ぜる血と肉と骨とが織り成す綾である。
弾け、千切れた肉体が、しかしその端から癒えていく。
打撃の生み出す風が周囲を満たす朱い霧を散らし、轟音は響き、衝撃が大気を震わせる。
嵐の如き連打に巨獣の頭部が徐々に押され、しかしその表面には依然として損傷が見えない。
拳と足と、全身を裂けた皮膚の桃色と鮮血の赤とで斑模様に染めながら地に降り立った綾香が、
しかし表情を変えることなく疾走を再開する。

「なぜ安寧を許容する。なぜ鈍化を肯定する。なぜ敗北を容認する」

転瞬。
颶風の如き打撃にも耐えきるかと見えた巨獣が、大きく身を捩った。
一瞬遅れて、その頭上を閃くものがある。
蒼穹を闇に染める稲妻とでもいうべき、黒の光。
それは巨獣の隣に位置する神像、黒翼の像と対峙する水瀬名雪の放つ、黒雷である。
流れ弾か、或いは何か他の意図があったものか。
いずれ哂ったのは、来栖川綾香である。

「何にもなれず。何者でもなく、何物でもなく、何処にも辿り着けず」

その眼が見据えるのは、唯の一点。
どれほどの打撃にも殆ど身じろぎすらしなかった巨獣の像が、揺らいだ。
黒雷が掠めたのは、獣の背。
巨獣に跨る、小さな影。
あどけない、少女の神像である。

「なぜそれを、生と呼ぶ」

駆けたのは、ほんの二歩。
それだけを助走として、綾香の身体が宙を舞う。
大地の軛から解き放たれたように、高く。

「ああ、ああ。こんなにも、末期の聲が満ちるなら。こんなにも、こんなにも誰もが、生きることを忘れているのなら。
 応えよう。伝えよう。この彼岸に蠢くすべてに」

高く、高く。巨獣を飛び越えるほどに、この殺戮の島を一望するほどに高く。
日輪に、艶と雅の舞うように。

「止まっていけ。腐っていけ。友であったものたち。かつて美しく在れた、愛すべきものたち」

蒼穹を裂いて流れる、それは一筋の星だった。
空を翔る来栖川綾香の、紡ぐ言葉は糾弾ではない。
それは、世界の内でほんの僅か、幾人かだけがそっと首肯する、永劫と久遠とに響き渡る凱歌。

「私は、私たちだけは、走るんだ。走っていけるんだ」

それは夢から醒めずにいられる来栖川綾香の、
ただ綺麗なものだけに満たされた空を目指して羽ばたく女の、
振り切るべき死者の群れの全部、打ち捨てるべき腐ったものたちの全部に向けた、

「―――ここじゃない、どこかへ」

訣別の、宣言だ。


***

 
穿ち貫かれた少女の像がさらさらと、やがて巨獣の像が轟音と共に、崩れ、風に散っていく。
どこまでも高い蒼穹の下、崩壊と廃滅の中に、白と黒と、そして紅とに彩られて、女が一人、立っている。

来栖川綾香が、立っている。



 
【時間:2日目 AM11:53】
【場所:F−5 神塚山山頂】

来栖川綾香
 【所持品:なし】
 【状態:仙命樹、ラーニング(エルクゥ、魔弾の射手)】

真・長瀬源五郎
【イルファ・シルファ・ミルファ・セリオ融合体】
【組成:オンヴィタイカヤン群体13800体相当】
【アルルゥ・フィギュアヘッド:大破】
【ベナウィ・フィギュアヘッド:健在】
【オボロ・フィギュアヘッド:損傷】
【カルラ・フィギュアヘッド:健在】
【ウルトリィ・フィギュアヘッド:健在】
【カミュ・フィギュアヘッド:健在】
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