十一時四十九分/そばにいる






***


A−9。
初めて会ったときの、それが彼女の名だった。

流れる金色の髪がとても綺麗だと、そんな風に思ったことだけを、覚えている。


***

 
「覚えているかね、諸君―――」

響くのは、無数の蟲の這いずるが如き聲。
長瀬源五郎である。

「幼い頃に思い描いた、未来のかたちを。
 求め、挑み、膝を屈して涙した、あの日の夢を。
 手を伸ばせばいつか届くと信じていた無邪気な日々を、諸君は覚えているかね。
 私の夢、私の未来、私の思い描いた世界。そうだ、それは今、私の目の前にある。
 届くのだ、歩めば。一歩、一歩、見たまえ、もうほんの少しの先で、私の夢が叶おうとしている―――」

醜悪を練り固めたような粘りつく声に、天沢郁未が鉄の味のする唾を吐く。

『語ってんじゃねーっての……』

眼前、悪夢の如き堅牢を誇る槍使いの神像を睨み上げながら、郁未は立ち上がる。
ぜひ、という喘鳴が喉から漏れていた。
息が整わない。
痙攣するように胸が震える度にこみ上げてくるのは胃液と混じった鮮血。
激戦の中、折れた肋骨が内臓を傷つけていた。

『……不可視の力で傷も治せたらいいのにね。魔法みたいにさ』

冗談めかした呟きに相方の答えが返ってこないのを、郁未は怪訝に思う。
観客もいないサーカスの、愚かな道化とその頭に載せられた林檎を狙って飛ぶナイフ。
それは不文律。
それは暗黙の了解。
それは約束。
―――それは、誓い。
いつからかそうしてきた、これからもずっとそうしていくはずの、天沢郁未と鹿沼葉子の在り方。
それが崩れだしたのは、この島に来てからのことだ。


***

 
今はもうない教団の、あの誰もいない食堂の薄暗い片隅で。
私たちは、出会った。

私を変え、私の生き方を変え、私の明日を変えたそれをきっと、奇跡というのだろう。


***

 
迫る槍が、天を支える柱の落ちるが如く大地を抉る。
石くれと岩とを孕んだ風が爆ぜるように拡がり、それが消えるよりも早く次の衝撃が落ちる。

『右……? 分かってる、けど……っ!』

郁未の脳裏に閃くのは鹿沼葉子の送る視界である。
土煙に巻かれながら跳ねる郁未の眼には映らぬはずの、第二撃。
それを正確に回避できるのは、理屈はどうあれ意志と声とが繋がったらしき葉子の、声なき指示の賜物だった。

『これじゃ、近づけやしないっ……!』

戦況はいかにも苦しい。
打ち続く激戦に駆ける足は震え、手に持つ鉈も次第にその存在感を増しているように感じられた。
泥濘のまとわりつくように重苦しい身体を引きずりながら、郁未が跳ねる。
砕けた肋骨が細かな砂粒になり、肉体を動かす歯車に噛まれて軋むように、全身が不協和音を奏でていた。
今や槍の穂先は完全に郁未だけを狙っている。
傷を負った郁未の動きが重いことは、既に見抜かれていた。
先刻の突撃の失敗は致命的だった。
敵は無傷、こちらへの打撃は重く尾を引いて圧し掛かっている。
危うい均衡を保っていた天秤が、一気に傾こうとしていた。

「ち……ぃ、っ!」

それでも、天沢郁未は退かない。
今にも崩れ落ちそうな身体を引きずって戦う郁未の瞳には、不退転の決意があった。
自由への渇望もある。迫り来る死の刻限への抵抗も、無論のこと存在した。
しかし、それよりもなお郁未の心を満たし支えていたのは、他ならぬ鹿沼葉子の言葉である。
葉子があの少女たちを敵と呼んだ。
ならば、その少女たちを取り込んで生まれた眼前の巨神像群もまた、葉子の敵であると思った。
それが、ただそれだけのことが、天沢郁未の戦う、最も強い理由である。

見上げれば空を覆うような影。
突き込まれる巨槍は大気をも穿ち貫くように、直線の軌跡を描いて落ちてくる。
距離を詰めるように駆け出した、郁未の背後で岩盤が破砕される。
振り返ることはしない。
不可視の視界、第三の瞳が郁未にはあった。
振り返ることなく、郁未は駆けながら背後を確認。
落ちた槍は素早く引かれている。
引かれた槍が、再び突き込まれようとするのが見えて、
と、

「……!?」

その穂先が、割れた。割れた影は三つ。
否、軌跡が分裂したと見えるほどに連続した、それは神速の刺突。
流星の如き槍撃が狙い澄ましたように郁未へと迫る。
一つ目を躱し、二つ目を避け、そして三つ目は―――対処しきれない。

「が、ぁ……っ!」

直撃だけを回避し、しかし爆ぜるように巨槍が大地を粉砕する、その爆心地の直近から逃れることは叶わなかった。
咄嗟に張り巡らせた不可視の壁も僅かに間に合わない。
鋭く尖った石礫が幾つも郁未へと突き刺さる。
爆風が、流れる血と同じ速さで郁未の身体を吹き飛ばした。

『―――郁未さんっ!?』

悲痛に響く声に、薄く笑む。
笑んだ直後に衝撃が来た。
受身も取れずに叩きつけられた岩盤に、食い込んだ石礫と開いた傷口とが卸し金にかけられるように削られていく。
遮断した痛覚を無視するように目尻を流れるのは涙滴だった。
肉体の防衛本能が流させる、それは警告である。
ごろごろと転がった先で、しかし郁未はそれを拭いながら立ち上がる。
左の肘から先は奇妙に捩じくれて動かない。
動かないが、立ち上がった。

『はは……今のはちょっと、効いた……かも』

葉子に伝える軽口も、声にはならない。
ぱっくりと裂けた唇の間から漏れるのは、がらがらと血痰の絡む濡れた吐息のみである。

『けど、まだこれから……』
『―――もう、いい』

それは、静かな声だった。
底冷えのするような、低く、暗い声。
郁未がそれを相方の、鹿沼葉子の声であると認識するまでに、僅かな時間を要した。

『え……?』
『もう、いいと言ったのです。もう、いいです。もう、充分』

それは、

『葉子さ―――』
『これは、私の戦いです』

それは、拒絶だった。

『あれは、私の敵。……郁未さんは、もう下がってください』

繋がっていたはずの、手の温もり。
それが幻想であると告げるような。

『それが……光学戰試挑躰である、私の為すべきことなのですから』

伝わる声音の冷たさに、背筋が震える。
力が、抜けていく。
追い縋れない。
駆け出したその背に、手が届かない。
のろのろと、何かを言おうと口を開きかけて、

『―――ごめんなさい』

呟きが、世界を変えた。
それは、焔である。
暗く灯りの落ちた天沢郁未の奥底に横たわる、ゆらゆらと静かに揺れる水面に落とされた、微かな火種。
水面は、油だ。
炎が、一気に燃え広がった。
それは瞬く間に、失望を嘗め絶望を焼き拒絶という鉄扉を融かし尽くす業火となる。

伸ばした手は届かない。
届かない手は、乾いた血に塗れて赤黒い。
赤黒く血に染まった手指が拳を形作り、ぎり、と音を立てた。


***

 
あの場所で過ごした時間を、地獄と呼ぶ人もいるのかもしれない。
だけど、違う。
あれは分水嶺だったのだ。過去という監獄と、未来という荒野との。
或いは、

孤独と、そうでない温かさとの。


***

 
光学戰試挑躰。
相方が、鹿沼葉子が鹿沼葉子らしからぬ表情を垣間見せるようになったのは、
その単語を口にしてからこちらのことだ。
聞けば、葉子の身にはまだ隠された過去と、秘められた力があったのだという。
詳しいことは覚えていない。覚える必要もなかった。
その程度の、ことだった。

つまらないことだ、と思う。
何もかもが、つまらない。
葉子がそんな過去に拘泥していることも。
自分に隠し事をしていたことも。
それが、要らぬ迷惑を被らせまいとする気遣いであろうことも。
告げてなお、一人で何かの決着をつけようとしていることも。
二人で歩むこの先よりも、今この戦いを見つめていることも。
おそらくはその終わり方を、手前勝手に心に決めたのだろうことも。
―――なんて、つまらない。

何より一番に、気に入らないのは。
そんなことの全部に気付かないよう振舞う郁未が、本当は何もかもを理解しているということを。
そこまでを葉子は分かっていて。
分かった上で、葉子の身勝手を赦すと。
その決断を、認めると。
鹿沼葉子が一人で歩むことを、天沢郁未が肯んじると。
そんな風に、考えていることだ。

「……けんな」

伸ばした拳は届かない。
巨槍は迫る。

「……ざけんな、」

鹿沼葉子は謝罪を口にし。
背を、向けている。

「ざッけんな、鹿沼葉子……ッ!」

それが、どうした。


***

 
あの朱い月の夜を越えて。
私たちは、訣別したのだ。
過去と。亡霊たちと。私たちを縛る、私たち以外の、すべてと。

ならば。
ならば、私の手が。
夜を越え明日を歩む、私たちの伸ばす手が。


―――届かぬ道理の、あるはずもない。


***

 
一歩を踏み出す。
ただそれだけで、この身は鹿沼葉子に並んでいる。

「郁未……さん……!?」

思わず漏れた声も、驚いたような顔も、全部がすぐ、そこにある。
ただの一歩。
距離の如きが、天沢郁未と鹿沼葉子を隔てることなど叶わない。

「どうして……!」

叫んだ瞳に滲む涙が、きらきらと日輪に輝いて綺麗だと、そんなことを思う。
影が、落ちた。
陽光を遮る無粋な影は、巨神像の振るう剛槍。
足を止めた郁未と葉子とを襲う、地を穿つ流星。
告死の一閃が、迫る。

「―――ねえ、葉子さん」

その名を口に出して、微笑む。
掠れた声と息切れと、こみ上げる血と激痛と、そんなものを、無視して。

「私は―――」

轟々と風を巻いて迫る槍が、喧しい。
だから拳を突き出した。
まだ動く、右の拳の一本が。
血に染まった、傷だらけの細い腕が。
不可視と呼ばれる、無限の力を紡ぎ出す。
力は壁となり、力は腕となり、力は最後に、拳となった。
不可視の壁が、巨槍を防いだ。
芥子粒のような二人を前に、天を支える巨柱の如き槍が、その動きの一切を止める。
不可視の腕が、巨槍を掴んだ。
山を穿つ穂先が、大地を抉る長柄が、その主の意図に反して向きを変えていく。
最後に不可視の拳が、巨槍を、弾いた。
練り固め、押し潰された大気が爆ぜるような凄まじい轟音と共に、巨槍を持つ神像が大きく体勢を崩す。
弾かれた槍の一直線に向かう先には、刀を構えた巨神像が存在した。
槍の長柄が巨神像の刀を圧し砕き、穂先が巨神像の頭を、破砕する。
その一切を、郁未は目に映してすら、いない。

「―――私は、あなたのそばにいる」

瞳は、鹿沼葉子だけを、ただ真っ直ぐに見つめている。



 
【時間:2日目 AM11:51】
【場所:F−5 神塚山山頂 南西】

天沢郁未
 【所持品:薙刀】
 【状態:重傷・不可視の力】
鹿沼葉子
 【所持品:鉈】
 【状態:健康・光学戰試挑躰・不可視の力】

真・長瀬源五郎
【イルファ・シルファ・ミルファ・セリオ融合体】
【組成:オンヴィタイカヤン群体15200体相当】
【アルルゥ・フィギュアヘッド:健在】
【ベナウィ・フィギュアヘッド:健在】
【オボロ・フィギュアヘッド:損傷】
【カルラ・フィギュアヘッド:健在】
【トウカ・フィギュアヘッド:大破】
【ウルトリィ・フィギュアヘッド:健在】
【カミュ・フィギュアヘッド:健在】
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