十一時四十八分/あなたがいる






 
柏木楓という少女の振るう刃に、憎悪はない。
彼女はただ、湯浅皐月という好敵手と、柏木千鶴という嫌悪すべき女と、そうして柏木耕一という
人生の拠りどころとの、その全部がいっぺんに目の前から消えてなくなった空白からざわざわと滲み出してくる、
高揚に程近い混沌とでもいうべきものを鎮めようと、眼前の敵とみなした存在へと刃を振るっている。
そこにあるのはひどく漫然とした殺意と、それと同程度の質量を備えた鋭角な害意である。
それが、かつて己が血統の祖が遠い星々の彼方で繰り返した行為と酷似していることに、彼女自身気付いていない。
柏木楓は、狩猟者である。


***

 
すべてを忘れたかった。
何かに縋りたかった。
骸すら、残らなかった。

ああ。
あの人の、隙もなく爪を塗った手で作られた食べ物を、全部吐き出した後のような。
私に残されたのは、涙の滲むような苦味と、どうしようもない空腹感と、饐えた臭いだけだ。

振り払うように、走る。
走って、切り裂く。
切り裂けば、手応えがある。

音は聞こえない。
音はもう、聞こえない。
高鳴る鼓動も、耳元を吹きぬける風も、何も聞こえない。
聞きたくないものは、聞こえない。


***

 
恣意的な無音の中で、柏木楓は刃を振るう。
深紅の爪の閃くたびに、二刀の像に傷がつく。
刻まれる傷は浅くささやかで、しかし少女は粘り強く、或いは偏執的なまでに執拗に、傷を増やしていく。
一文字は十文字となり、十文字は幾つも重なって瞬く間に複雑怪奇な紋様と化していった。

そこに、悪意はない。
ただ害意という膏薬に敵意という毒を練り、殺意という指で傷口に塗り込むという、それだけの話である。
女という種が笑みを崩さぬまま、息をするようにしてのけるそれを、少女は刃を以て行う。
傷から流れる血を見なければ己が害毒を確かめられぬ。
それが少女である。

血の通わぬ石造りの像に、際限のない傷だけが増えていく。


***

 
考えるのをやめようとすればするほど、あの人が私を侵していく。
甘い化粧の匂いと猫なで声と、私を哀れむような、見下ろすような眼だ。
胸が詰まるような、臓腑を裂いて残らず掻き出してしまいたくなるような、どろどろと粘つくもの。
この膨らみかけた脂肪の固まりも、痛みと憂鬱しかもたらさない、汚い血を吐くだけの器官も。
全部を掻き出して挽いて潰して水で洗えば、この嫌なものは流れて落ちるのだろうか。
そんなことを思う。
裂いて流れるのは綺麗な赤い雫だけだと、知っているのに。

戻らない。
何も戻らない。
何をしても、どれだけ泣いても、なくしたものは戻らない。
そんなことはわかっている。
わかっているから、動かずにいた。
動かなければ、変わらなければ、何もなくさずに済むかもしれないと、思っていた。
そんな、馬鹿なことを、思っていた。

変わっていく。
変わっていくのだ。
私が止まっても、他の全部は動いている。
動いているから、変わっていく。
変わってしまって、なくなっていく。
私のたいせつなものはもう何も残らずに、変わらずにいる私だけが取り残されている。

それでよかった。
それでもよかった。
変わらずにいる私は、変わってしまったものたちを、なくしてしまったものたちのことを、
ずっと変わらない姿で覚えていられる。
それはとてもしあわせなこと。
それだけが世界を、私の大好きだったものたちを大好きなままで留めておく、たったひとつの方法。

だと、いうのに。
あの人の匂いを吸い込むたびに。
あの人の猫なで声が耳に入ってくるたびに。
あの人の眼が私を厭らしい色で見下ろすたびに。
どろどろとしたものが、私を這い登ってくるのだ。
ずるずると糸を引きながら、てらてらと濡れ光る跡を残しながら、それは私を這い回る。
そうしてそれは、私の中に染み透ってくるのだ。
私を、変えるために。


***

 
胸にこみ上げる嫌悪感にえづきながら、柏木楓が身を捻る。
その身を両断せんと迫る巨大な刃を躱す、その深紅の瞳には波紋一つ浮かばない。
返すように振るわれる、瞳と同じ血の色の長い爪が、神像の腕に一筋の傷を刻んでいく。

刻んだその顔に笑みはない。
与えた打撃に思うところの一切はなく、それは暗い部屋で人形の手足を捻り千切るような、
枕に顔を押し当てて叫ぶような、ただ生きるために必要な、それは作業であるかのように。
淡々とした激情に身を任せながら、少女は足掻いている。


***

 
変わっていく。
私は変わらされていく。

綺麗なところには、厭な汁の飛沫が散って染みを作るように。
やわらかいところには、じくじくと痛い水ぶくれができるように。

あの人のどろどろとしたものが伝染して、私は変わらされていく。
嫌だと泣いても、駄目と叫んでも、どれだけ肌を裂いて血を流しても、それは止まらない。

私のからだからは、きっといつか、甘い化粧の匂いが立ち込めるようになるのだ。
そうして鳥肌の立つような猫なで声で、誰かの名前を呼ぶのだ。

それはもう、私ではない。
柏木楓なんかでは、決してない。

それはきっと、街の人波をぎっしりと埋め尽くす、たくさんの柏木千鶴の、一人でしかない。
だから。

そういうものになる前に、私は、選ばなくてはいけないのだ。
どろどろとした厭らしく粘つくものを撒き散らすあの人か、変わらされてしまう柏木楓であるものか、

どちらを、殺すのか。


***


ひどく陳腐で、切実で、迂遠で、真っ直ぐで、ありふれた幻想とでも呼ぶべき何かを抱いて、
少女は刃を振るう。
振るう刃の鋭さが、少女という存在の生きる意味のすべてである。

刻まれる傷は、少女が歩む上での犠牲に過ぎぬ。
抉られ落ちる神像の腕は、少女という歪みに巻き込まれた、哀れな盤上の駒だった。
少女の立つ場所を、世界という。



 
【時間:2日目 AM11:49】
【場所:F−5 神塚山山頂】

柏木楓
 【所持品:支給品一式】
 【状態:エルクゥ、軽傷、左目失明(治癒中)】

真・長瀬源五郎
【イルファ・シルファ・ミルファ・セリオ融合体】
【組成:オンヴィタイカヤン群体16800体相当】
【アルルゥ・フィギュアヘッド:健在】
【ベナウィ・フィギュアヘッド:健在】
【オボロ・フィギュアヘッド:小破】
【カルラ・フィギュアヘッド:健在】
【トウカ・フィギュアヘッド:健在】
【ウルトリィ・フィギュアヘッド:健在】
【カミュ・フィギュアヘッド:健在】
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