変心






「この学校は、好きですか」

「わたしは、とってもとっても好きです。
 でも、何もかも、変わらずにはいられないです。
 楽しいこととか、嬉しいこととか、ぜんぶ。
 ……ぜんぶ、変わらずにはいられないです」

「それでも、この場所が好きでいられますか」

 いま、この質問に自分は答えられるだろうか。
 胸を張って答えを言えるだろうか。

 何もかも、変わらずにはいられない。

 手を伸ばしても、引っ込めても変わるものは変わってしまい対応せざるを得なくなる。
 どんなに望んでも、どんなに我侭になってもどうしようもない。
 それがこの世界の在り方だ。
 変わることを摂理とするこの世界の有りようだ。

 自分はそこに生きている以上従わなければならない。
 変わっていってしまうものを受け止めなければならない。

 ……なのに。
 なのに、どうして、こんなに胸が苦しいのだろう。
 こうなることを薄々予感していたのではないのか。
 とっくに失われたものが再び失われただけと分かりきっていたはずではないのか。

 どうして。
 どうして、変わっていて欲しくないと願ったのだろう、わたしは……
 既に自分が変質してしまったと知り抜いているのに。
 既に戻らなくなってしまったと理解しきっているのに。
 こんなにも、変わらないことを望んでいた……?

 そうじゃない。
 わたしが、変わる世界に当て嵌まらないのではなく……
 わたしは、終わり続ける世界にしか当て嵌まらなかった。

 終わりしかない場所は終焉。
 進むことが出来ず引き返すことも出来ない、ただ結末だけが存在する場所。
 そこでは永遠だけが『終わり続き』、『繰り返しながら止まる』。
 何も変わらない。画用紙に描いた風景画のような、それ自体だけの世界。
 幸福はない。けれど、哀しみも苦しみもない。
 今ある『わたし』だけで全てが帰結するところ。

 自分はそこにしか住めない者でしかなく、他の世界にはどうあっても混じり得ない。
 分かっていたはずなのに、未練たらしく生き、また共に歩もうという思いさえ抱いていた。
 盾となると決めた覚悟とやらも嘘なら、ひとりで進むという言葉も嘘。
 嘘を嘘でしか塗り潰せず、どこにも行けないわたしは――

「見つければいいだけだろ」

 岡崎さん? 虚を突かれた思いで振り返ってみたが、誰の姿もない。
 気のせい……その思いが去来しかけたとき、ふわりと、風もないのに髪が揺れた。
 何かが通り過ぎたかのような、不自然な風。いやそもそも風などありはしないのに。
 俄かに全身がそそけ立つ。そうしなければいけないという思いに駆られて、
 後ろに向いていた顔をもう一度前へと戻す。
 果たしてそこには、先を行く後姿があった。ほんの数歩先、立ち止まらず『彼』は喋り続ける。

「次の楽しいこととか、うれしいこととかを見つければいいだけだろ。
 あんたの楽しいことや、うれしいことはひとつだけなのか?」

 この場所が好きでいられますか?
 誰ともなく尋ねた質問に対して、誰にでもなく答えた言葉。
 孤独の中で、孤独に対して向けられただけの、それは会話とも呼べぬものだったのかもしれない。

「違うだろ」

 振り向かず、『彼』はきっぱりと言い放った。
 それは噛み合わぬ世界に対して幸福の形を探すのでもなければ不幸から逃げるものでもない、
 自らが幸福を生み出せると信じて疑わない男の声だった。

 ただただ、一生懸命に苦しみ、もがき、ひとの中に自分が生きられる世界を探そうとしている。
 終わり続ける世界の住人であっても、生きていくことは出来るのだというように。
 待ってください――喉元まで出かけていたはずの言葉は出てこなかった。
 後は追えない。追えるはずがなかった。
 彼は無言のまま歩き続けているから。

 ほら、いこうぜ。

 それで締めくくられるはずの言葉が出てきていない。
 なら行けるはずがないのだ。
 古河渚は、まだ坂を上りきることが出来ないのだから。
 自分は、坂を上がり続けなければならない。
 これから先、ずっとずっと、本当の幸福、豊かさを手に入れられるまで……

 ただ、自分にその資格があるのかと思ってしまう。
 約束を反故にし、様々なものを打ち捨ててきた己に、求め得る価値はあるのだろうか。
 それだけではない。自分は様々な人の夢を奪って生きている。
 父母の夢に始まり、仲間の命をも奪って……

「そうじゃねえ」

 また、横を通り過ぎて行く人影があった。
 煙草をくわえ、遥かな先を見渡す男……古河秋生がそこにいた。
 秋生は口から煙を吐き出すと、朋也と同じく先を進んで行く。

「俺達は夢を捨てても、奪われてもねぇ。俺達で望んで託したんだ。……分かるだろ?」

 苦笑交じりの口調はやんわりと窘めるようなものだった。
 無理しなくていい。無理に責任を取ろうとしなくたっていいんだ。
 そろそろ自分のことを考えてもいいんじゃねえか?
 自分のこと……?

 耳からではなく、心の芯に直接響く声に返そうとしたが、秋生の姿は既に遠くにあった。
 喧騒が聞こえてくる。愉しそうに笑いあい、軽口を飛ばしあいながらもしっかりと歩き続けている。
 朋也と秋生のものだけではない。そこには春原も、様々なひとがいて、肩を組みながら笑っている。
 自分はそこに行けない。行こうと思えば行けるだろう。そこは全てが終わり続ける世界だ。

 けれどもその世界にいる人は違う。朋也同様、希望を人の中に見出し、
 苦しいながらも肩を組んで新しい場所を目指そうと『新しい終わり』に向けてよろよろと歩いている。

 だから、まだ行けない。そこへ行くにはもう少し頑張らないといけない。
 それまでがどうだったにしても、わたしはまだ夢を捨ててはいない。
 みんなから預けられた夢を忘れていない。
 もう少し……頑張ってもいいですよね? わたしは……頑張れますから。

「ファイトッ、ですよ」

 また声がかけられた。
 いつからいたのだろう、ずっといたかのように古河早苗が柔らかな微笑を浮かべて、側に立っていた。
 ニコリと、もう一度渚に笑いかけた早苗は小走りに坂を上り、喧騒の中に紛れていく。

 もう二度と会うことはないだろう。永久の別れはあまりに簡潔で、けれど悲しくはなかった。
 寧ろ笑っていられる。こんなにもしあわせな別離を、今までに感じたことがあっただろうか。
 渚は坂の下で幾度となくそらんじた言葉を反芻する。

「それでも、この場所が好きでいられますか」

「わたしは……」
「わたしは、まだ好きにはなれないです。でも――」

「――好きになっていきたい。そう思います」

「なら、それでいいじゃないか」

 ふっ、と。
 背後から重ねられるように、抱きすくめる腕があった。
 初めて渚に触れた腕。温もりがあまりに温かかった。
 誰だか分かる。この手のひらの大きさを、わたしは知っている。

「ほら、いこうぜ」

 そう。
 何も知らない、知ろうともしなかった自分。
 こんなわたしでも、まだ……

「はい」

 手をとっていける。

     *     *     *

 拒絶されるのは半ば覚悟の上だった。
 元々が赤の他人で、自分はその上人殺しだ。
 彼女が最も嫌うべき種類の人間であり、本来なら近づく権利さえないのかもしれない。
 だからといってこのまま何も知ろうとせず上辺だけ取り繕っていくなんて空しすぎる。
 嫌いなら嫌いで構わないし、拒絶されたらされたで踏ん切りがつく。

 ただ確かめたかった。
 俺は、那須宗一は古河渚にとってどんな人間であるのか、を。
 俯いたままの渚の身体を包み込むようにして抱きすくめる。
 震えもせず、ただ硬直したままの渚はそこにいて、しかしいないようでもあった。
 自分が想像も出来ない、別の世界へひとり行ってしまったような、そんな感覚だった。

 なら連れ戻そう。孤独の海に漂っているのなら俺は拾い上げればいい。
 その後相容れられずどこかで別れることになってしまったのだとしても、
 取り残され、誰からも省みられることなくいなくなってしまうことはないはずだ。
 そうやって守ってきてくれたのが……夕菜姉さんだ。

 今なら分かる。どうしてハック・フィンであろうとしたのか、分かる。
 ひとりで生きていくことは、確かに不可能じゃない。
 力を持ち、対処するだけの能力を身につけていれば誰の力も借りずにいられることはできるだろう。
 だがそれでは寂しすぎるし、長くは生きられない。
 そうして気が付けば失われてしまったものに深すぎる後悔を覚え、悲しさだけを残してしまう。
 だから人は寄り添い、少しでも痛みを紛らわせようとするのだろう。


 ‘All right, then, I'll go to hell’
 わかった、それなら俺は地獄へ行こう。


 ひとりではなく、ふたりで。
 一緒に堕ちても構わない。
 だから、渚……ひとりでいようとしないでくれ。

「はい」

 どきりとするほどはっきりと、あらゆる静寂を突き破る深さを以って渚が応えた。
 手のひらにそっと手が乗せられる感覚。
 雪をすくい取った直後のように冷たかったが、不思議と寒くはならない。
 寧ろ心地の良い冷たさが、己の熱しすぎた感情を冷まし、程よいものに仕上げてくれている。

「大丈夫……じゃ、ないかもしれません、少しだけ」

 ほんのちょっとの苦痛を訴える声だった。
 だが確かにこちらを頼って助言を求め、どうすればいいのかと尋ねてきてくれている。
 まだ遠慮している節はある。でも、確かに渚は拒絶はしなかった。
 ならそれでいい。積み重ねていけばいい。何もかも、最初から全てを委ねてくれるとは思っていない。
 それが仕事の定石だ、そうだろエディ?

 小さく苦笑し、これ以上抱きすくめているのは流石にどうかと考えた宗一は渚から腕を離そうとした。
 が、手首を掴む小さな手のひらが意外と頑丈で、強引にでもしなければほどけそうになかった。
 どうしたものか、と戸惑っていると「……すみません、もう少しだけいいですか」と渚が言った。

「わたし、その、今……みっともない顔なので……」

 言った後、ぐす、と鼻をすする音が聞こえた。ああ、そういうことかと宗一は得心する。
 これが渚なりの弱みの見せ方なのかもしれない。歩み寄った上での見せた弱さなのかもしれない。
 どちらにせよ、古河渚というひとのやさしさが見えたような気がする。
 極力負担をかけずに迷惑をかけようとする。滑稽な我侭さだという思いが胸の内に広がり、
 自然と気が楽になる実感があった。重さが苦にならない、この気分は一体何なんだろう。

 皐月やゆかりと馬鹿をやっていたときに似ている。
 言いたいことを言い合って挙句喧嘩にすらなるというのに不思議と後腐れが残らない。
 ムカつきもわだかまりもなく、清々として晴れやかな気分で笑っていられる。
 何も考えることなく、心の内を読むことも必要とせず、終わりは「お疲れ様」で締めくくられる。

 だから俺は学校に行っていたのか。
 学生生活をカモフラージュする手段ではなく、楽にしていられる場所として……
 鍵をかけて仕舞っておいたはずの皐月の顔、ゆかりの顔が浮かんでは消え、澱みのない希望を宗一に伝えた。
 そういうことか。那須宗一と地獄に堕ちてくれるハック・フィンは夕菜姉さんだけではないということか。

 たくさんの記憶が、思い出が今の自分達を支えてくれている。
 今更のような事実に気付き、宗一の箍が外れてひとつの感情を溢れ出させた。

「は、はは……奇遇だな……俺も、みっともない顔なんだ……」

 今まで堰き止め、男という義務感で縛り上げてきたものが一気に瓦解し、濁流となって押し寄せていた。
 この流れは止めようとしても止められず、また止める気にもならなかった。
 停滞し、澱みきっていたものが洗い流されてゆく感覚。
 情けない姿で、こっ恥ずかしいものには違いないが不思議な心地よさがあった。
 渚もきっと同じ感覚を味わっているのだろう。だから分かる。

 人はこうして、弱さを乗り越えて強くなれるのだろう。
 過去の澱みを洗い流し、心機一転して進む根源になり、より善いものを目指そうとする。
 もう、何も迷うことはない――そう思いながら、宗一は川の流れを見下ろしていた。

     *     *     *

「……これで、いいんだな?」
「はい」

 那須宗一と古河渚が互いに身を寄せ合っているとき、ルーシー・マリア・ミソラと遠野美凪は、
 宗一と渚がいる職員室の外、廊下に居座って話をしていた。
 美凪は生硬い瞳のまま、ルーシーの問いに頷く。

 職員室の壁側を背に身をもたれさせていたルーシーは、美凪の内側で何かしらの決着がついたことを予想し、
 そしてそれは結局自分と同じ現状維持のままなのだろうと感じていた。
 わだかまりを、完全に洗い流すことは出来なかった。

 渚が悪いわけではないし、筋違いだということも頭では理解しきっている。
 ただ抜けきらないのだ。奥底で、腹の中で、引っかかっている小骨が抜けきらない。
 無視してもいいほどの痛みだが癇に障る痛み。
 だからといって、駄々をこねて喚くほど自分は子供ではないし、それでどうなるものでもない。
 心の在り様を冷静に捉え、応じて付き合ってゆけばいいだけのことだ。そうしていれば嫌なものを見ずに済む。
 総括すればそういうことだ。ルーシーはところどころ歪みを見せている窓越しに外の様子を窺う。

「雨だな……」

 透明度を下げた向こう側の風景は僅かの音量を伴って大地に雫を降らせている。
 静かな雨だった。まるでこの島を静寂で包み込もうとするように、雨音以外は何も聞こえない。
 いくつもの魂に対する厳かな鎮魂歌か、嵐の前の前奏曲か。

 折角服を着替えたのにまた濡れるのかと内心に嘆息しながら視線を戻そうとして……
 ピントが、窓に映る自分の顔へと当てられた。
 能面のように白く、鉄面皮を気取っている顔がそこにある。
 この仮面を剥ぎ取る術を知らないまま、先へと進んでいこうとする自分。
 果たしてそれは本当の『私』なのだろうか?

「……私達は」

 ぽつりと呟かれた美凪の言葉が、窓に映るルーシーの顔をぼやけさせた。
 ぼんやりとして、しかしどこかもの悲しそうな美凪の表情が代わりに入った。

「善人にはなりきれないのだと思います。いえ、私達だけじゃなく生きているひとは、みんな」
「ただ私達は目を逸らし続けている。……そうしなければ、憎しみに変わってしまうかもしれないから」
「失ってしまったものが大きすぎたのかもしれません」

 言い訳のように美凪はまくしたてた。この感情を自分でも整理しきれないまま、
 悪いものだと分かりながらもどうすればいいか分からず、欠けてしまった部分に放置している。

「そうして空いてしまった部分に何かで埋め合わせをしようとする」

 もとあった団結心は他者への警戒心へと変わり、やがては腐り、奪ったものへの憎悪へと変わる。
 そうならないためにまた人は集まり、団結して、新たな警戒心を作り出していくのかもしれない。
 繰り返していくうちにだんだんと他者と相容れられなくなり、互いに食い合う……
 結局のところ、復讐や報復などといったものはそういうものなのだろう。
 元は互いに分かり合い、共生していくために寄り集まったはずなのに。

 ふっとルーシーの心に影が差したとき、「でも」と美凪が声を発した。

「私は今、痛いです。どうしても受け入れられない部分があると分かって、遠ざけて解決しようとしている。
 それは寂しすぎるんじゃないか、って言ってくるんです。……恐らくは、私の、良心が」
「良心、か……」
「るーさん、さっきの質問ですが」
「ん?」
「……やっぱり、言い切れません。どうしても、私には出来ないようなんです」
「そうか……私もだ」

 胸のうちにまたズキズキとした痛みが走るのを感じながらもルーシーは言い切った。
 これは中途半端で悪い選択なのかもしれない。
 先ほどの質問……このチームを離脱し、二人だけで姫百合珊瑚を探しに行くかという提案。
 一度は頷いた美凪だったが、ここで再び首を振り、ルーシーもまたその気は失せていた。

 渚に感じているものはほんの些細な反発感だ。
 埋葬の話から始まる、死者の扱いに対しての微細な不満。
 それに彼女はどこか孤独を望み、意固地であろうとして、なのに自分達とは全く反対の生き方をしている。
 ルーシーは気にもしなかったが、けれども小さなしこりとなっていることも認識していた。
 美凪も同様のようで、だからこそ離脱話を、提案として持ちかけたのだった。

「古河さんが嫌いじゃないんです。……寧ろ、自分自身が嫌いになりそうで……」
「私も古河は嫌いじゃない。あいつはまあ、大人し過ぎるが面白い奴だ」
「そうですね。何だか危なっかしくて」
「一生懸命で、手伝ってやりたくなる」

 思わず苦笑が漏れた。釣られるようにして美凪からも苦笑が出る。
 そんな渚と一緒にいると、どうしても自分の側面が浮き彫りになってしまう。
 そこが浮き出るたび、自分で自分に嫌悪感を持ち、このままいていいのかという気持ちに駆られる。
 決して善人でいられず、醜い部分を残したまま渚といていいのか。そんな感慨に囚われる。

 だがそのまま別れてしまい、次に会った時溝が大きくなってしまうのでは寂しすぎる。
 それだけが引っかかりとなって、一度決意したはずの離脱を急遽取り止めにした。
 これで良いんだという思いもある反面、僅かな苦痛と向き合い続けることが出来るかと不安にもなる。
 けれども唯一確信を持って言えることがある。この選択をしたのは自分だけでなく、美凪もだ。
 多数の正しさとは言わない。が、二人の気持ちは共に同じだということは間違いない。

 今はその事実だけ受け止めればいい。正しいかどうかはまだ決めなくていい。
 互いに頷きあったのを終わりの合図にして、ルーシーは再び窓の外へと視線を移した。
 相変わらずの雨だ。強くもなく、さりとて当分は止みそうにもない。

「……ん?」

 燻る雨の向こう、山の中腹あたりから何やら煙のようなものが見える。
 よく目を凝らしてみるが、あれはまさしく煙だ。
 闇夜に紛れかかっていたのと空のどんよりとした色のせいで全然気付けなかった。
 火事だろうか。それにいつ頃から起こっていた?

「なぎー、見てくれ」
「はい?」

 窓を開け、煙の出ている方向を指差す。
 最初は何があるのか分かっていない様子で目を細めていた美凪だが、次第に何があるのか見えてきたらしく、
 火事でしょうか、と呟く。そして同時に、こうも付け加えた。

「山の中……だとしたら、ホテル跡かもしれません。まだ煙があるということは」
「この雨だ、山火事の可能性はなさそうだ。……間違い、ないかもな」

 人はいないと断定したはずのホテル跡で、不自然な火災が起こっている。
 そこから考えられる事実はひとつしかない。戦闘だ。誰かが殺しあっている。
 それも小競り合いなんかじゃない、大規模な乱闘だ。
 ここから見えるほどの火災が起こっているのはそういうことだ。
 まずい事態になったな、と内心に舌打ちして職員室に割って入ろうとしたとき、扉が派手に開けられた。

「おいルー公、遠野! 火事があるみたいだぞ! こっち来てみろ」
「何?」

 あっちでも? とルーシーと美凪が顔を見合わせる。
 同時多発火災。ピーポーピーポー。消防車は引っ張りダコ。

「実はこちらも火事を発見したところだ。向こうの窓から見てみろ」
「マジか」

 今度は職員室から出てきた渚と宗一が顔を見合わせる。
 そこはかとない不安を感じ取ったのか、「早く見てみましょう」とせっつく渚に引っ張られるようにして、
 宗一が廊下側の窓に張り付く。ルーシーと美凪も入れ替わるようにして職員室に入っていく。

 宗一達が発見した火事は割と分かりやすく、雨にも関わらず空の一部が紅に染まっていたことから、
 すぐに分かった。もう一箇所の火事は平瀬村で起こっているようだった。
 同時に発見したということは、犯人は別々……つまり、最低でも二人の殺人鬼が近くにいることになる。

「……水瀬名雪……」

 隣で火事の起こった方向を見ていた美凪が、低い声で呟く。
 色の無いその声は、美凪が目にした悲劇の程を言い表すのに十分過ぎるものがあった。
 水瀬名雪。美凪の仲間二人と、ルーシーの相棒を葬り去った仇。
 この事件の下手人として彼女が絡んでいる可能性は確実にある。
 だとするなら……

 ぐっ、とデイパックを持つ手に力が入る。感情が復讐心で塗り固められ、どろりとした澱みが内を満たす。
 忘れられない記憶が恨みを呼び覚まし、己を獣へと変えていく。
 渚のようになりきれない理由だ。
 理屈では分かっていても許せないという言葉ひとつで変貌してしまう自分がここにいる。
 我慢出来ず、殺されたということを殺し返すことでしか満たせない、食い合うだけの存在だ。
 だから、私は――

「……行きましょう。二人で、あの人を『殺す』んです」
「――ああ」

 頷いたときには、既に走り出していた。
 結局はもう一度手のひらを返し、宗一たちから離脱することにしてしまった。
 中途半端に方針を変えた挙句、最後には復讐心に従ってでしか動けない。
 だが自分にはこうすることしか出来ない。こうすることでしか感情を抑える術を持たない。
 自分も、美凪も……凡人でしかないのだから。

「那須、私達はあっちの、村の方の火事を当たってみる。お前達は向こうに行ってくれ。
 ひょっとしたら探してる人が襲われてるかもしれん」

 職員室から出た直後、宗一の姿を確認するやいなや、ルーシーは早口に言い放った。
 半分は嘘だ。単なる理由付けにしか過ぎず、その実名雪を殺しに行くことにしか意識を傾けていない。
 それでもなるべく冷静を装って言ったつもりだった。ただ反論の機会は与えない。

「何もなかったらそちらに合流する。それでも行き違ったら最後にはここに戻ってくればいい。文句はないだろう?」
「ルー公……? お前」
「任せたぞ。行こう、なぎー」

 言うだけ言うに任せると、ルーシーは美凪を引き連れて足早に昇降口まで行く。
 頭の中は、これからほぼ確実に出会うであろう名雪との戦闘だけを意識していた。
 デイパックからウージーを取り出し、美凪もまた包丁を取り出している。

 ここから先は使命を果たすだけの機械。復讐心に染め上げられただけの存在に過ぎない。
 脱出するという目的も、生きて帰るという決意も、憎む感情の前には霞んでしまう。
 何故ならそれほどに、それほどまでに……あのひとは、美凪にとってはあのひとたちは。
 半身、だったのだから。

     *     *     *

 有無を言わせずルーシー、美凪の二人が立ち去った後、宗一はどうするかと頭を回転させていた。
 二人では危険だと後を追うか。それとも言葉に従ってもうひとつの火災現場に向かうか。

 早口にまくし立て、言葉も待たずに駆け出した二人の様子は尋常じゃない。
 口調こそ冷静だったが、心中では何かがあったはずだ。
 想像を働かせようとするが、彼女達とは知り合ったばかりで、詳しいことはなにひとつ知らない。
 この地獄をどのように生き延び、その過程で何を見てきたのか……
 そしてそれに応えられる言葉は何であるのか。……そんなものを、持てるはずがなかった。

「宗一さん」

 考えあぐねている宗一の耳に飛び込んできたのは、驚くほど冷静ではっきりとした渚の声だった。
 水をかけられたような声に弾かれたようにして、渚の顔を見る。
 決意を秘め、為すべきことを見つけ出した人間の顔がそこにあった。

「わたしがお二人の後を追います。宗一さんは指示通り、あの山へ向かってください」
「渚……? 待て、それなら」
「わたしが行かなきゃダメなんです」

 ぴしゃりと撥ね付けられた声に、宗一は言葉を失うしかなかった。
 栗色の瞳の中には強靭な、男でさえ見ることのないような意思がある。

 不意に宗一は遺体の姿で見た古河秋生のことを思い出した。
 目を閉じていながら尚意思を持ち生きているような気配さえ見せていた父親の顔。
 それと同種の気配が今の渚にはある。
 みっともないあの時とは一変した渚。

 これが澱みを洗い流し、強くなった彼女の姿なのか。
 呆然としたままの宗一に、渚は言葉を重ねる。

「わたしは……今まで自分のことしか考えてなくて、誰のことも知ろうとしませんでした。
 正確にはわたしを知らせたくなかったのかもしれません。どうしてかというと……
 わたしは、ひとりのまま、これまで生き長らえてきた責任をとって死のうとしていましたから」
「……ああ、薄々でしかなかったが……気付いてた、それは」
「ですよね。宗一さんは、世界一のエージェントさんですし」

 それにわたしは嘘が苦手ですから。苦笑した渚には後ろめたさのようなものが感じられたが、
 すぐに打ち消した。今は過去に囚われていない渚の強さが垣間見えたようだった。

「ですから、わたしが行かないといけないんです。まだわたしにはたくさん知りたいことがあるんです。
 このまま別れたままだと……きっと、合流できても何も分かることが出来ないと思います。
 ええと、分かりやすく言うと――死なせたくないし、仲良くなりたいです。お二人とは、もっと」

 目を細め、微笑んだ渚にはあらゆる弱さを吹き散らす光があった。
 単純なことだった。仲間だから、もっと分かり合いたい。
 そんな願いに対して、宗一が応えられる言葉は一つしかなかった。

「……ああ、分かったよ。任せるぜ、セイギピンク」
「ええっ」

 まだピンクなんですか、と困ったような表情を見せた渚に、今度は宗一が吹き出した。
 俺が守りたかったものはこれなんだ。俺が馬鹿でいられるひとや、場所を守りたいのが俺の願いなんだ。

「こっちのことはこのセイギブラックに任せろ。どんな問題だってたちどころに解決してやるさ」
「あぅ、うー、はい……が、頑張ってくださいっ。わたしもですが」

 慣れない様子で握り拳を作った渚に、宗一も拳を作り、軽く突き合わせた。
 こん、とぶつかる感触を確かめ、宗一は何の含みのない笑顔を向ける。渚も同様に笑った。
 間に合わせろよ、渚――

「よし、行くぞ。立ち止まっていられないからな」
「は、はいっ!」

 二人は走り出す。

 長い、長い道を――




【時間:二日目20:00前】
【場所:F-3 分校跡】

古河渚
【持ち物:おにぎりなど食料品(結構減った)、支給品一式×2(秋生と佳乃のもの)、S&W M29 4/6、ロープ(少し太め)、ツールセット、救急箱】
【状態:心機一転。健康】
【目的:ルーシー、美凪を追って平瀬村方面に。人と距離を取らず付き合っていく。最優先目標は宗一を手伝う事】

那須宗一
【所持品:FN Five-SeveN(残弾数11/20)、防弾チョッキ、SPAS12ショットガン8/8発、スラッグ弾8発(SPAS12)、ほか水・食料以外の支給品一式】
【状態:心機一転。健康】
【目的:渚を何が何でも守る。渚達と共に珊瑚を探し、脱出の計画を練る。ホテル跡方面に移動】

遠野美凪
【持ち物:包丁、予備マガジン×1(ワルサーP38)、包丁、防弾性割烹着&頭巾、支給品一式、お米券数十枚、色々書かれたメモ用紙とCD(ハッキング用)、ノートパソコン】
【状態:強く生きることを決意。だが名雪への復習は果たす。お米最高】
【目的:名雪を探して平瀬村方面に。るーさん達と行動を共にし、珊瑚を探す。ハッキングを絶対に成功させる】

ルーシー・マリア・ミソラ
【所持品:IMI マイクロUZI 残弾数(30/30)・予備カートリッジ(30発入×5)、支給品一式×2】
【状態:生き残ることを決意。だが名雪への復讐は果たす】
【目的:なぎー達と行動を共にし、たこ焼き友だちを探す。なぎーに同行】

【その他:22:00頃にはここで再合流する約束をしています】
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