十一時四十三分(1)/私らしく






 
世界が割れるその一瞬に、前触れはなかった。

然程のことではない。
それは単に、目に映る世界が八つだか九つだか、その程度に増えたに過ぎない。
同じように耳に聞こえる音が幾つも幾つも重なって、息の吹きかかるのを感じるような耳元で
沢山の唇がぞろりぞろりと喋り出したとして、大した違いはない。

然程のことではない。
それは単に、自身の正気を疑うに足る程度の問題に過ぎなかった。

 ―――海に囲まれた島と、その中央に位置する山。
 ―――山頂に顕れた銀色の湖と、それを取り囲むように立つ、八体の石像。
 ―――そして重なる、無数の視界。

正視すれば視界は揺れる。
ぐるりぐらりと揺れて歪んで、右に揺れれば左に震え、前と後ろと上と下とがてんで勝手に入り混じって
頭が引き裂かれそうになって、もうどちらが上なのか、わからない。
きっと足の着いている方が下だろうと、そう思ってもゆらりゆらりと入れ替わる視界は不安定で、
右の腕のある方に落ちていけばそちらが下のようにも思えるし、そう感じてしまえば戻れない。
くらりと揺れて。
身体は右に、落ちようとする。
右は下でなく、下は右でなく、落ちようとして落ちられなくて、ぐわりぐわりと頭が揺れる。
見えるものと感じることと、違いが過ぎて頭が痛い。
ぐずぐずと煮えたぎるような頭痛が伝染するように、胃から辛くて苦いものがこみ上げてくる。
吐こうとして、どちらが下かがわからずに、口を開ける。
開けて流れるほうが下だろうとそんなことを考えて、だらだらと胃液の毀れるに任せた。

 ―――何だ、今の……!?
 ―――郁未さん、気をつけてください……!
 ―――……!
 ―――誰だ、誰が喋っている!?

ぞろりぞろりと声がする。
毀れた胃液が制服を汚して、嫌な臭いを撒き散らす。
谺するような吐息と喘鳴と舌打ちとが、臭いに混じって耳朶を打つ。
幾つもの鼓動と幾つもの息遣いとが不規則に重なって、どれが自分の鼓動だかも分からない。
分からないから正しいリズムが掴めない。
息を吸うタイミングと吐くタイミングが滅茶苦茶で、いま自分が息を吸ったのだか、
それとも吐いていたのだかすらも、次第に判然としなくなってくる。
吸って、誰かの息を吐いた音に騙されて、もう一度息を吸おうとして胸が苦しくて、
吐き出そうとしたら誰かが先に吐いてしまって、吸って、吐いて、吸って、
そんな当たり前のことができなくなってくる。
息が苦しくて、頭が痛くて、ぐるぐると巡る音と視界とが、ぐねぐねと歪んで偏在する。

否。
否、否、否。
それらは巡っているのではない。まして、歪んでいるのでもない。
それらはただ、通り過ぎていこうとしているのだ。
誰かの視界が、誰かの声が、何故だか自分の中を通過していくだけの、それは単純な現象。
単純に通り過ぎようとして、だけど沢山のそれらが通るには狭すぎて、だから押し合い、だから圧し合い、
ぎゅうぎゅうとつかえて、周りを削り取っていく。

削り取られていくのは辛くて、頭は痛くて、息は苦しくて。
ひびが入って割れそうで、壊れてしまえば楽そうで。

だけど、それは、できない。
それをさせない、願いがあった。
それをさせない、祈りがあった。

それは小さな、透き通った願いだ。
それは脆くて、儚く消える祈りだ。

それは、届いて、と。
そういう、気持ちだ。


***

 
「なに、これ……」

呟いて上体をぐらりと揺らした長岡志保が、その場に崩れ落ちる。
泡を食ったのは国崎往人である。
振り返れば、志保が青い顔で頭を抱えていた。

「……どうした!?」

気を失って倒れた春原陽平を介抱していた国崎がひとまずそちらを置いて駆け寄っても、
志保は顔を上げすらしない。
ひ、ひ、と。
しゃくり上げるような呼吸を繰り返している。

「ったく、次から次へと……! おい、気分でも悪いのか……?」

自らの頭を押さえるように座り込む志保の肩を掴んだ、国崎の表情が変わる。
小刻みに震えるその細い肩は、ぞっとするほど冷たい汗に濡れていた。

「な……! どうした、大丈夫か!?」

慌てたような国崎の声が、届いたか。
突然、志保が顔を上げる。
それを覗き込んだ国崎は、しかし思わず一歩を退いていた。
射竦めるような眼が、そこにあった。

「流れて……流れてくる……。あたしを通じて……拡がってく……」

呟く声はどこか病的で、差し出しかけた手が、躊躇を感じて止まる。
止まったその手が、掴まれた。
国崎が小さく表情を歪める。
べったりと汗に塗れ強張った志保の指が、国崎の掌に爪を立てていた。
少女とは思えぬ強い力が皮膚を裂き、血を滲ませる。

「しっかりしろ、長お……」

長岡、と言いかけた国崎の言葉が止まる。
ふるふると震える志保が、掴んだ国崎の手を支えに、ゆっくりと立ち上がろうとしていた。

「おい、無理するな……」
「―――るっさい……! へばって、らんないのよ……!」

労わりを弾くような、強い口調。
玉のような汗が、頬を伝って顎から垂れ落ちる。
脂汗と吐瀉物とで濡れたシャツをべっとりと肌に張り付かせたまま、志保が首を振る。

「届けろってんなら……! 届けて、やるわよ……!
 志保ちゃん情報……、なめんじゃないっての……!」

少女を支えているのは矜持と反骨。
跪けと命じる声に屈するを良しとせぬ、その志だった。

「届けてあげる……! この、志保ちゃんが……ッ!
 言葉も……心も、全部! まとめてッ!」

その瞳は既に眼前の光景を映さず、その耳は吹き抜ける風の音をすら聞き取れず。
それでも、少女は立っていた。
ぐらりぐらりと歪み揺れる世界の中で、誰とも知れぬ小さな祈りを叶えようと、立っていた。

それが、長岡志保だった。



 
【時間:2日目 AM11:43】
【場所:G−6 鷹野神社】

長岡志保
 【所持品:なし】
 【状態:異能・詳細不明】

国崎往人
 【所持品:人形、ラーメンセット(レトルト)、化粧品ポーチ】
 【状態:健康・法力喪失】

春原陽平
 【所持品:なし】
 【状態:妊娠・意識不明】
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