青(7) もし夢の終わりに、勇気を持って現実へと踏み出す者がいるとしたら、それは






 
そこにあったのは、可憐な瞳である。
さやさやと風にそよぐ黄金の麦穂の海の中、じっと蝉丸と光岡を見つめているその瞳の色は、
遥か離れた場所からもそれと分かるほどに深く、重い。

麦穂の中から顔だけを出していたのは、幼い少女であった。
ふくよかな輪郭は紛れもない幼女のそれであったが、しかし超然と蝉丸たちを見つめる表情は
どこか遠い国の哲学者を思わせるように大人びた色を浮かべていて、黄金の海に浮かぶ夜闇の如き瞳と
その身体と表情とのアンバランスとが、何とも言えず奇妙な違和感を醸し出している。
或いは奇異な世界に現れた静穏の海という奇怪の中にあって、その奇妙な少女の在り様は
逆に自然とでも呼べるものであっただろうか。

「……―――」

遠く、黄金の波の向こうで少女が何事かを呟く。
爽々と麦穂をざわめかせる風にかき消されて、その声は蝉丸たちには届かない。

「お前は―――」

問いかけようと蝉丸が口を開くと、一際強い風が吹き抜けた。
紡がれかけた問いが風に散らされていく。
尋ねるべきこと、問い質さねばならぬことは幾つもあった。
お前は誰だ。ここは何処だ。全体、何がどうなっている。
そんな問いの全てを遮るように風は吹き抜け、黄金の野原を揺らしていた。

『―――ここは、ぜんぶが終わった場所』

声が、聞こえた。
それは答えだった。
蝉丸の問いに応える、声。
声に出して問うてはいない。
疑念は言葉にならず、風に散らされて消えていった。
それでも、答えは返ってきた。

『何も始まらない時間。もう何も終わらない、何処にも続かない、そんなところ。
 あなたたちがいてはいけない世界』

幼いその声は、音ではない。
蝉丸の耳朶を震わせることのない、それはしかし言葉であり、声だった。
頭蓋に直接響くような、そんな声の持ち主はそれだけを言うと、ふい、と余所を向く。

「待て! ……いや、待ってくれ」

そのまま少女がどこかへ消えてしまいそうな、そんな根拠のない予感に衝き動かされるように、
蝉丸が慌ててその幼い横顔を呼び止める。

「俺たちは望んで此処に足を踏み入れたわけではない。
 元の場所に帰る方法を知っているのなら、教えてはくれないか」

風にかき消されぬように、一語づつに力を込めて言葉を発する。
その様子の何が可笑しかったのか、少女がくすりと笑った。
視線を蝉丸たちの方へと向ける。

『すぐに戻れるよ。この場所とあなたたちは、繋がっていなかったんだから。
 何かの間違いで開いた穴は、すぐに塞がってしまう。そういう風にできているんだよ。
 ……だからあなたも、後ろの人たちも心配しなくても、大丈夫』

後ろ、と言われて初めて気づいたように、蝉丸が振り返る。
どこまでも広がるような黄金の麦畑の中、いつからそこにいたのだろうか。
怒っているような、不貞腐れているような、或いは長いこと会わなかった旧い恋人を見つめるような、
ひどく色々な感情の交じり合った顔で、女が二人、立っている。
その遥か向こうにも一つ、人影があった。

「天沢郁未と鹿沼葉子、あれは……水瀬名雪だろう。俺たちのすぐ後からここへ入ってきたようだ」

今更気づいたのか、と言わんばかりに光岡が口を添える。
近くに立つ郁未と葉子、不可視の力と呼ばれる異能を振るう二人の魔女は、同じ色の
深い感情に煙った瞳をこちらへと向けていた。
否、と蝉丸はしかし、すぐに己が認識を改める。
注がれる視線が向けられているのは、前方に立つ蝉丸たちへではなかった。
蝉丸と光岡を通り越した向こう、黄金の野原に顔だけを出していた、幼い少女。
その少女をこそ、二対の瞳は見つめているようだった。

「―――?」

向き直れば、しかしそこにはもう、誰もいない。
麦穂の間から顔だけを出していた少女は、目を離した隙に黄金の海へと潜ってしまったのだろうか、
ただ風にそよぐ波の如き金色の野原だけがそこにあった。

「……」

不可解だ、と蝉丸は思う。少女の存在や言動ではない。
あの幼い少女自身は確かにこの青一色の中に忽然と現れた黄金の麦畑という奇妙な場所に
在るべきものなのだと、そんな確信を抱かせるような雰囲気を纏っていた。
名画と呼ばれる絵のように、在るべき処に在るべきものがある、この場所と一体であるような、
そういう存在であるのだと思わせる何かを、少女はその一瞬の邂逅の中で垣間見せていた。
だが、そうであるならば。
天沢郁未は、鹿沼葉子は少女に何を見たのであったか。
少女の存在がこの場所と一体であるならば、二人は此処を知っていたのか。
この異変を、この奇妙を理解していたものであったか。
そうでないのならば、幼い少女にずっと以前からひどくよく知っていた誰かを見るような、
そんな視線を向けているのが、不可解であった。
初対面の誰かに向けられるものでは決してない、重く、薄暗く、どこか郷愁と悔恨とが
ない交ぜになったような色の瞳の不可解を蝉丸が思った、刹那。

『聞かせて、一つだけ―――あなたの、名前を』

さわ、と吹く風に消えぬ、音ならぬ声。
天沢郁未の放つ、それは問いだった。
沈黙が、降りた。
風が金色の野の上を吹き過ぎていく。
長い、長い間を置いて。

『―――この島の』

声が、響いた。
少女は顔を出さない。
ただ風にそよぐ麦穂の向こうから、声だけが返ってきていた。

『この島の一番高いところ。ぜんぶが終わった後で―――待ってる』

それだけが、答えだった。
それきり少女の声は途絶え、再びの沈黙が降りた。

『……郁未さん、あの子供は』

暫くの後、声を発したのは鹿沼葉子である。
何かを気遣うような声音に、天沢郁未が首を振る。

『わかってる。あいつじゃない。わかってる。……だけど、同じ。あいつと、同じ匂いがした』
『そう……感じましたか』

言葉の意味は、蝉丸には判らない。
ただ消えた少女の纏っていた空気、異様の中にある自然とでもいうべき在り様が、
二人の知る誰かと似通っていたのだと、そう理解した。
と、

『―――風が、変わる』

呟かれるような声は、天沢郁未のものでも、鹿沼葉子のものでもない。
遠く、黄金の麦穂の海の向こうで、ぼんやりとあらぬ方を見つめていた女の声。
水瀬名雪。表情を隠すように長い髪を靡かせた女の、それが名であった。
ちらりと横目でこちらを見た名雪の瞳の、どんよりと澱の如き疲労と磨耗とを溜めたそれに
どこかで見覚えがあると蝉丸は思い、思い返し、思い出そうとして、

 ―――ああ、成程。

それが鏡に映る己が顔であると気づいた瞬間、ぐらりと世界が揺らいだ。



******

 
 
何処までも続く麦畑。
風にそよぐ黄金の海には、もう誰もいない。
坂神蝉丸も、光岡悟も、砧夕霧も、天沢郁未も、鹿沼葉子も、水瀬名雪も、もういない。
誰もいなくなった麦畑の中心で、少女は一人、黄金の海に潜るように、座り込んでいる。

座り込んだ少女は、じっと何かを見詰めていた。
幼い少女の目の前に横たわる、それは白い裸身である。
女性であった。少女から女へと移り変わる途上にあるような、滑らかな曲線を描くその肢体は
石膏で型を取った像の如く、こ揺るぎもしない。
生きているのか死んでいるのかも判然とせぬその裸身をじっと見詰めながら、少女が静かに口を開いた。

「あたしは、あなた」

そっと手を伸ばし、仮面のように堅く目を閉じた顔に触れる。
愛でるように、懐かしむように、羽毛の風に揺れるが如く、そっと撫で上げながら、謡うように呟く。

「あなたの望むかたち。あなたのみる夢」

短い指が、裸身の髪を梳く。
肩口を越え背中に届こうかという長い髪は細く、まるで夜の内にそっと降り積もり、足跡もつかぬまま
朝の陽を浴びて煌く雪のように、白い。

「あたしは待ってる。ここで待ってる。夢から覚めたあなたが、いつかあたしに会いに来てくれる日を。
 ずっと、ずっと待ってるからね」

少女は知っている。
堅く閉じた瞼の向こうに、輝く瞳のあることを。
その目に意思を宿らせて、駆け抜ける道のあることを。

「だから、さよなら。あたしを生んだ、あたし」

微笑んだ、その眼前。
横たわる裸身が、静かにその色を失っていく。
白い髪が、緩やかな双丘が、黒く染まった腕の輪郭が、風に融けるように薄れ、そうして、消えた。

「―――」

裸身が消えてからも、少女は暫くの間、じっと地面を見詰めていた。
佇む者はなく、訪れる者はなく、今度こそ本当に誰もいなくなったように思われた黄金の海の真ん中で、

『……で?』

少女は、問いかける。

『あなたは、どうするの?』

問うた声は、誰に向けられたものかも知れぬ。
見渡す限り人影はなく、見詰める視線の先にはただ黒い土壌だけがあった。

『……そう。なら……いってらっしゃい』

一人語りのように呟かれる、その言葉の消えるか否かの刹那。
ゆらり、と黄金の海に立ち昇る、陽炎の如き何かがあった。
立ち昇り、蒼穹と黄金との狭間に揺らめいたそれが、瞬く間に集まり、縒り合わさって容を成す。
それは、髪のようであった。長く美しい、女の髪。
そしてまた同時に、笑みのようでもあった。頬を吊り上げ牙を剥く、獣の笑み。
哂う女の如くにも、しなやかに美しい獣の如くにも映る影が、ほんの僅かの間を置いて、消えていく。

『―――さようなら』

言葉を最後に、世界が閉じた。



******

 
 
時が再び―――動き出す。



******



  
【時間:2日目 AM11:40】
【場所:F−5 神塚山山頂】

坂神蝉丸
 【所持品:刀(銘・鳳凰)】
 【状態:健康】
光岡悟
 【所持品:刀(銘・麟)】
 【状態:健康】
砧夕霧中枢
 【状態:意識不明】
天沢郁未
 【所持品:薙刀】
 【状態:健康・不可視の力】
鹿沼葉子
 【所持品:鉈】
 【状態:健康・光学戰試挑躰・不可視の力】
水瀬名雪
 【所持品:くろいあくま】
 【状態:過去優勝者】
川澄舞
 【所持品:ヘタレの尻子玉】
 【状態:???】
来栖川綾香
 【所持品:なし】
 【状態:???】


【時間:すでに終わっている】
【場所:約束の麦畑】

少女
 【状態:???】
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