萃まる夢、想い






 空は灰色から、暗色の夜空へと入れ替わっていく段階だった。
 二度目の夜。何もかもを隠し通す漆黒の闇。
 吹き付けてくる風も肌寒く感じられる。

 いや、そう思うのは自分がまた冷えている心を自覚しているからなのかもしれない、とリサ=ヴィクセンは思った。
 命の価値。誠実に生きようとする栞の怒声の中身を、口中で繰り返す。
 自分はそれを分かろうとしていたことはあっただろうか。
 理解しようと努めたことはあっただろうか。

 ……ない、わね。

 命は道具で、自分は行使する器に過ぎず、何かを愉しむ感情でさえも目を逸らすための逃避の手段に過ぎなかった。
 両親を殺した篁への復讐という目的はあった。
 そのためにはどんな努力も惜しまず、どんな任務だろうと達成する鋼のような心もある。

 けれどもそれは、生きるためのなにかではない。そこに意義を見出せるなにかを、リサは持っていない。
 全てを達成し、野に放たれればどうすればいいのか分からないという確信はあった。
 何をすればいいのかも分からず、迷子になった子供のように呆然と突っ立っているだけの自分。
 しかしそれをどうするとも考えず、目の前の事態に対処することを優先して今まで行動してきた。
 逃げ続けている。今も昔も、子供のときから変わらず……
 考えるべきなのだろうか、と思う。生きる価値のある命。自分の命の意味。

 わたしは、どうしたいのか。

 簡単な問い。あまりにも単純すぎる問題だ。それ故に……胸を張って答えることは難しい。
 もう知っている。知ってはいるけれども、言葉に出来ないものがあった。
 鍵をかけてしまった己の扉は開く気配を見せず、しかし自分は鍵を取りに行くほどの度胸もない。
 要は怖いのだとリサは知覚する。想いを打ち明けて、最後には失われてしまうことが。

 距離を保つ術を覚えてしまったから、寄り掛かる術を忘れてしまったから、何も出来ない。
 ただ悲しみだけが恐怖として残り、トラウマとなって絡めとっている。
 そうして遠ざけ、復讐で己を縛り上げなければ生きてこられなかった自分。悲しいほどに弱々しい自分。

 或いは、こうしなければ自分は崩れて堕ちていたのかもしれない。
 両親を失い、誰に頼るところもなく己の力のみで生き抜くことを課した環境と、
 打ちのめされ、目に焼き付けられた力の倫理の前ではこうするしかなかったのかもしれない。

 それでももう今は違う。己を縛り上げずとも生きてゆける可能性は目の前にある。
 どんなにささやかで小さな可能性だとしても、掴める機会は巡ってきている。
 後はそれに手を伸ばせる勇気と、一歩を踏み出す度胸だけなのに。

「……まだ、無理なのかもね」

 心の中でさえ、望みを並べることは出来なかった。
 頭に思い浮かべる寸前、スイッチのようにぷつりと切れて途絶える。
 ただ怖いだけなのだ。未来を思い浮かべてしまうことでさえ。
 胸が締め上げられ、どうしようもない思いがリサの中身を滞らせる。こうして一人でいるから靄は晴れないのだろうか。
 自然と爪を唇が噛み、カリカリという細かな音をリズム良く奏でる。一種の暗示のようなものだった。
 この音を聞いていると、感情にノイズをかけて誤魔化すことが出来るから――

「済まない、待たせたね」

 ひとつの声が雑音の掛かり始めたリサの感情を霧散させる。緒方英二の声だった。
 いくらか荷物の増えたデイパックを背負いながら、振り向いたリサに微笑を見せる。
 栞の姿はない。どうしたのだろうかと尋ねる前に英二が先手を打って「顔を洗っている」と言った。

「気合を入れ直すらしい。僕に荷物整理を任せてすぐに出て行ったけど……まだ来てないようだね」
「迷子になっているのかもしれないわね?」
「そりゃ大変だ。じきにアナウンスが来るかもしれないな、灯台から」

 流石に冗談と分かっている英二は飄々とした様子でリサに返す。既に気持ちを切り替え、以前の彼に戻ったかのようだ。
 その表情からは、眼鏡の奥に秘めた鋭さを残す瞳からは、何も窺い知ることは出来ない。
 男は自らの意義を、存在を何かに仮託しようとする生き物だ。そう聞いたことがある。
 英二もそうなのだろうか。別の何かに自分の希望を重ね、そのためにただ尽くすと決めているのだろうか。
 いつまでも躊躇っている自分同様、宙ぶらりんに己をつるし上げたまま。

「訊いてもいいかな」

 微笑を含んだ顔のまま英二が言う。じっと見ている自分の何かに気付き、応えようとしたのかもしれない。
 ええ、と返したリサに「それじゃあ、少し長話といくか」と英二は煙草とマッチを取り出す。
 宿直室からくすねてきたのだろうか。「君は?」と煙草の一本を差し出す英二にリサは首を振る。

「煙草は吸わないの。健康に良くないしね」

 微笑を苦笑の形に変えた英二は、「道理でいい匂いがするわけだ」とさりげなく気障な台詞を言うと煙草に火をつける。
 紫煙をくゆらせ、実に美味そうに煙草を吸う姿は新鮮だった。「久しぶりでね」と満足そうな表情を浮かべる英二。
 つられるようにして、リサも初めて微笑を返した。
 もしこれが彼の狙いだったのだとしたら、相当なやり手だ、とリサは思う。会話する術を心得ている。
 だがそうではないのかもしれない。自分と同じく、そうすることしか出来ないのかもしれない。
 距離を測り、それに応じた会話を為すことは染み付いて離れないのかもしれない。

 それでも、とリサは思う。今自分が感じている心地よさの欠片は確かなものであり、嫌悪感はない。
 だから笑みを返すことが出来たのだろう。慣れてしまった大人同士、こういうのも悪くない……そう思った。

「栞君とは、いつから?」
「ここに来た当初からよ。今まで、ずっと一緒に」
「家族や友人……というわけでもなさそうだね?」
「……ええ。初対面よ、この島では」

 そうか、と英二は再び煙草に口をつける。紫煙の一部が風に乗ってこちらへと流れてくる。
 意外と悪い匂いではなかった。そういう種類もあるのね、と納得を得ているリサを正面に、英二が大きく息を吐いた。

「どうして一緒に行こうと?」
「お姉さんを探すためにね。……それに、あの笑顔を見たら、何だか置き去りに出来なくなって」

 前者の言葉だけで済ませておけばいいものを、何故かそんなことまで話していた。
 見ていてこちらが悲しくなってしまうほどの笑顔。悲壮な思いを秘めた笑顔がリサの脳裏に描き出される。
 何もかもを諦めたように、怯えを押し殺した笑みは昔の自分の姿と重なって……

「僕と似たようなものか」
「え?」
「僕が最初に行動していたひとも、そんな感じでね」

 思い出すように英二は呟く。その視線はどこか遠く、自分の過去でさえ他人のように見ている風だった。
 或いは、そうしなければ感情が溢れ出してしまうのかもしれない。そうすることでしか保てない後ろ暗さが感じられた。

「もっと話しておけば良かったな……分かってもいないことが、たくさんあったのに」
「……」

 英二がどんな経験をしてきたのかは、その言葉からは分かり得ない。ただ痛烈な後悔だけが滲み出ていた。
 人は、やはり言葉に出してでしか心の内を知る術はない。思っているだけでは、どんな想いも伝わらない。
 分かっている。だが……口にして出せない。自分は臆病に過ぎる。

「率直に聞くよ。リサ君は……栞君を失いたくはないんだろう?」

 無言でリサは答える。肯定しきることが怖く、否定しきることもしない。
 だが栞が他人なのかと言われれば、そうではない。少なくとも、そうではないと思ってはいる。

「それもまた答え、か。僕は男だからね……やり通すことしか知らない。たくさん仲間を失った。
 けど変えられない。大切な人を失ってでさえ、人は根幹から変わることなど出来はしない。……狂いでもしなければ。
 そして狂うことさえ僕には出来なかった。大人だからな。そんな選択肢なんて、とうに無かった。
 だから、今もただやり通す。それだけだ。そうすることでしか、僕は何かを伝える術を知らない」

 それが栞との対話で得た、英二の最終的な結論のようだった。
 踏み出すことを捨て、代わりに迷うこともなくなった男の姿だ。
 自分はどうなのだろうか。未だ肯定も否定も出来ない立場のまま、結論を先延ばしにしている。
 子供だということだろうか。あの日から途方に暮れたままの、リサ=ヴィクセンでなかったころのまま……

「少しでも何か思うところがあったのなら、考えていることの反対に立ってみてもいいんじゃないかな。
 そういう選択肢もまた、君には残されている。僕は捨てた。何も理解してなかったばかりに、ね」

 選択肢という言葉がリサの頭を揺らし、またひとつの波紋を生み出す。
 この人になら……そんな考えが浮かぶ。
 この人になら、救いを求めてもいいのではないだろうか。手を伸ばすための助言を与えてくれるのではないだろうか。
 まだ何も知らない自分の手を取って、支えてくれる。そうだと思える実感があった。

「……考えておくわ」

 思えただけで十分だった。だから今は、その返答だけでいい。英二もまた大きく頷いた。

「それがいい。考えられるだけで十分だ」

 言い終えると、すっかり短くなった煙草を地面に落として靴で踏み消す。
 すかさず二本目を取り出そうとした英二を、リサは苦笑交じりに「やめておいた方がいいんじゃない?」と止める。

「どうして」
「栞、来たわよ」

 指を差すリサに導かれるようにして後ろを振り向く英二。その先にはまさに灯台から出てくる美坂栞の姿があった。
 遠くからでも分かるような、張り詰めた栞の様子はまた彼女にも何かしらの化学変化を起こさせたようでもあった。
 それについて考えるのは後回しにして、とりあえずは英二を嗜めることに集中しようとリサは思った。

「歩き煙草はあまり良くないんじゃない?」
「……そのようだな」

 いくらか名残惜しそうに煙草のケースを見やると、マッチ箱と共にポケットの中へ押し込む。
 タイミングを同じくして、栞がこちらへと合流する。

「すみません、遅刻してしまって」
「そんなに待ったわけでもないわよ。それに……ね?」

 ウインクを寄越してみたが、英二は大袈裟な言い方をするなとでも言いたげに肩をすくめる。
 リサの含んだ物言いを怪しいと思ったのか、栞は「何かあったんですか?」と英二の方を問い詰める。

「いや、ただの世間話だよ」
「あら、私を口説いてきたくせに」
「口説いた……?」

 驚きを呆れを交えた栞は何やってるんですかと目を鋭くして凝視する。

「語弊のある言い方をするんじゃない。栞君も簡単に信じるな」
「私は眼中にない、と?」
「年下が好みなんですか、へー」
「いや、あのな」
「年下どころじゃないかもしれないわね……」
「ああ、そういうことなんですか、ふーん」
「話を飛躍させないでくれ……」

 反論にも疲れたという風に、ガックリと英二が肩を落とす。

「あはは、冗談ですってば。ね、リサさん」

 分かっていたという風に目配せしてきた栞に「ええ」とリサも同意する。
 本当はこんなつもりではなかったが、つい栞のノリが良かったので悪ふざけをしてしまった。
 このような一面があったのかと思いながら、これが栞本来の性格なのかもしれないとも考える。

 からかわれていたと分かった途端、英二は何とも言えないような表情になって「行こう」とため息を行進の合図にする。
 それが何故だか可笑しくなって、リサは声を噛み殺して笑う。
 同時に、やはりこの男とならやっていけそうだという思いが突き上げ、脳裏の靄を払うのを感じていた。

     *     *     *

「暇や」

 だらりとシートに身を預けている神尾晴子が唐突に言った。
 足をどかっと投げ出し、ぷらぷらと足先を揺らす姿は態度の悪い不良のようだった。
 もう晴子の身勝手さにも慣れている篠塚弥生は無視を決め込んでフロントガラスから見える景色に集中する。

「なぁ、ラジオとか音楽プレーヤーとかないんか」
「見れば分かるでしょう」
「……つまらん」

 車に対してではなく、からかい甲斐のない弥生の様子を見て晴子は言ったのだろう。
 はぁ、と落胆したため息が聞こえる。というより、わざとらしく大袈裟に息を漏らしていた。
 ここまで行動を共にして、弥生には一つ分かったことがあった。

 戦うパートナーとしては最適だが、人間として付き合うには最悪の相性だ。
 元々人間性の違いはあるとはいえ、改めて認識させられた感じだった。
 普段から冷静沈着に努めてはいる弥生だが、ここまで違うと笑えてくる。実際には笑えないが。
 対する晴子はイライラを募らせているようで、早く状況に進展はないかとギラついた目を動かしている。
 無闇に八つ当たりしてこないのはこんな晴子でも大人であるからか、それとも無駄だと分かりきっているからか。
 どちらにせよ相手をしないで済むだけありがたいことには違いない。

 大きな曲がり角を過ぎると、再び長い直線が景色となった。
 緩やかな下り坂になっているようで、遠目には目指す氷川村が小さな点となって見える。
 見晴らしのいい場所だ。よく見えるということは、相手からもよく見えるということでもある。
 狙撃されないように注意しなければと思いながら、弥生は少しスピードを上げる。

「ちょい待ち」

 が、そこで晴子がアクセルを握る弥生の腕を掴む。
 何事だと講義の視線を投げかけた弥生だが、「見てみ」と顎で斜め前方を示す。
 小高い丘の上、灯台の方から下るようにして何人かの人間が固まるように進んでいる。
 まだ遠いので正体は判別出来なかったが、どうやら灯台からどこかに向かっているようだ。
 相手側はこちらに気付いてはいないようで、見る素振りも見せなかった。

「どないすんや」

 VP70を手に持ち、攻撃的な雰囲気を漂わせ始めた晴子が意見を求めてくる。
 逃げ出すという選択肢は端からないのだろう。無論それは自分とて同じだが、手段を誤れば仕損じる。
 分かっているからこそ、晴子は意見を求めてきたのだろう。

「後を尾けましょう。ここで突っ込むには車は小回りが利きにく過ぎます」
「ちっ、バイクやと気にせえへんでええのにな……」

 意外とあっさり晴子が納得してくれたので、弥生は半ば拍子抜けする気分を味わった。
 文句の一つでも寄越してくるかと思い反論を用意していたのだが……
 そんな弥生の呆けた様子に気付いたか、晴子はふん、と鼻息も荒く言い放つ。

「勘違いせんでや。アンタがええ手を思いつかんなら、勝算はないて納得しただけや。
 アンタだって尻尾巻いて逃げる気なんてさらさらないんやろ? 目がそう言うとる」
「そう見えますか」
「見える。……癪やけどアンタの言う通り、『本質的には同じ』みたいやからな、ウチらは」

 以前に弥生が晴子に向けた言葉だった。
 疑問の返答をそれで締めくくると、晴子は黙って車の外へと視線を集中させ始めた。
 特に返す言葉もなかったので弥生も無言で晴子に続く。

 本質的には同じ……大切な人のためならどんな絵空事だって信じられる、どこまでも愚直な部分。
 最初からこのように人殺しに身を堕としていたわけでもない。人殺しがしたかったわけでもない。
 ただ愚直に過ぎた。そのひとのことを想って突き進んでいこうと欲した結果だ。
 退く事を知らず、省みる事を知らず、己の筋を通そうとしただけの自分達。
 肯定も否定もするまい、と弥生は思う。その方法さえ知らないのだから……

 気付くと、連中の姿は分岐点に差し掛かり、氷川村の方角へと足を向けているようだった。
 そろそろか、と弥生はハンドルを切り、アクセルを踏み出す。
 徐々に車の加速度が上がり、それなりのスピードを以って追走を始める。
 氷川村に入り始める頃が勝負か。弥生はそう目算をつける。
 建物を遮蔽物として使えるような場所であれば、小回りの利きにくい車でも有利に立ち回れる。
 彼らが入ったと同時、この車が出しうる最大速度で突っ込む。あわよくば轢き殺せる。
 次々と戦術を構築していく弥生に、横から晴子がひとつ声をかけてきた。

「任せるで」

 不敵な笑みを浮かべた晴子の表情は信頼さえ感じさせるものがあった。
 頷き返した弥生の頭にも、確かな自信が生まれてくる。
 本質を同じくする人間が二人。一方が大丈夫だと言えば、もう片方だってそう思えてくる。
 やはりこの女とならやっていけそうだ。ニヤリと笑った弥生のアクセルを踏み込む足の強さが大きくなった。

     *     *     *

 体の芯に熱が通る感覚。それまで搦め取られていたものを一切洗い流し、栞は久しぶりに清々とした気分を感じていた。
 もちろん、背負う重みがなくなったわけではない。誰かが死んでいくという事実の重さを忘れたわけではない。
 だがそれを分かってくれる人達がいる。自分だけが感じているのではない、全く同じ感覚を持ってくれる人がいる。
 例えその方法が自分と別物だったとしても、不器用に過ぎるようなものであっても、共に悩み、見出そうとしてくれている。

 だから自分は、力を用いようとすることが出来る。こうして銃を手にとって戦うことが出来る。
 共に歩み、正しい方向へと進んでいけると信じてゆけると思ったから……
 精一杯やり通す。もし非があれば仲間が頬を叩いてくれる。その権利は自分にもある。
 最終的な結論をその言葉にして、栞はこの世界へ戻ってきた。
 昔のように諦念に縛られた自分ではなく、新しいものを探し出そうとする自分を自覚し、今はこうして歩き続けている。

 氷川村はすぐそこに見える。なだらかな坂の下にいくつかの民家の屋根や畑が見える。
 診療所はどこだろうか。もっと奥にあるのか、それとももう見えているのだろうか。

 ふと栞は、これから先、薬を探す意味はあるのだろうかという考えにたどり着く。
 今の自分がただ元気だからという思いからではない。身体的にも、精神的にも今の自分には必要ないと思えたからだった。
 もちろん体の弱さまで克服されたとは思わない。それでも以前のように倒れることはないような気がしていた。
 絶望だけが今の自分ではない。希望や未来もまた自分の中にあると確信を得ることが出来たから。
 病は気から……そんな言葉が指し示すように。

 自分はなかなか死に切れない性質のようだ。カッターの傷跡を残す腕を見ながら、栞は苦笑する。
 とはいえ、まだどんなことになるかは分からない。
 万が一には備えておいた方がいいと判断した栞はあえて何も言わないことにした。

「それにしても、この雨は厄介だな」

 先頭を歩く英二が雨に濡れた髪をかき上げながら空を見上げる。
 鈍色の空からは絶えず雨粒が降り注いでおり、しばらくは降り続きそうな気配があった。

「どうしてですか?」
「眼鏡に雨粒がつく。見えにくくて仕方ない」
「……拭けばいいじゃないですか」

 この男、緒方英二と一緒に行動してきて、分かってきたことがある。
 普段の緩み具合が凄まじい。力を温存しているというと聞こえはいいが、実際は不精な人物だ。

 ……ひげ、剃っていませんし。

 そして今も「まあ別にいいか」と頭を掻きながら結局そのまま。
 天才プロデューサーというのは本当なのだろうかと思っていると、今度はリサが声をかけてきた。

「栞の方こそ大丈夫なの? 寒くない?」
「平気です。ストールを羽織っているので」

 ふぁさ、と愛用のストールの一部を広げてリサに見せる。体温が凝縮された温かさが僅かに漏れ、リサに伝わる。
 ふむ、と納得した様子のリサは「ならいいわ。でも寒かったら言ってね」と言葉を返した。

「リサさんはどうなんですか? その服、見ててあんまり温かそうに見えないですけど」

 逆に指摘してみたが、リサはニヤリと不敵に口もとを歪めると、

「現代の技術を甘く見ないことね。こんなのだけど保温性能は悪くないわ。まあ職場から支給の服なんだけど」

 と言って服をアピールしていた。どうやらお気に入りであるらしい。
 胸元は派手に開いているが、そこは寒くないのだろうか。
 質問しようと口を開きかけた栞だったが、何だか空しくなりそうだったのでやめることにした。

「ついでに解説すると、これには防水機能も――」

 更に続けようとしていたリサの口が不自然に途切れる。どうしたのだろうと声をかけてみようとしたが、憚られた。
 何故なら……

「英二。ちょっと止まって」
「どうした?」
「……何も言わずに、栞と先に行ってくれないかしら」

 リサの表情には、狼狽とも緊張ともつかぬ色が滲み出ていたからだった。常に余裕を崩さぬリサが見せる初めての表情。
 それだけで、この場にはとんでもない脅威が待ち構えているのではないかと栞に思わせるものがあった。
 けれども何も言わずに自分達を先に行かすなんて受け入れられない。
 せめてその理由を訊こうとリサに訊き返そうとしたときだった。

 どん、と何かが壊れるような音が響き、続けてぱん、と弾けるような音が聞こえた。

 同時、背中に巨大な圧力がかかりそれが栞の体を突き抜けていく。

 煽りを喰ったかのように、遠心力で栞の体が半回転し――自分が撃たれたのだと悟った。

「栞君っ!」

 べちゃりと水溜りに沈んだ栞へと英二が駆け寄って抱き起こす。遅れてくるようにして脇腹にじんとした痛みが巻き起こる。
 ぐっ、と悲鳴を堪え、意識を保つ。大丈夫だ、痛すぎるが致命傷ではない……そう判断した栞は首を縦に振った。
 一体誰が撃ったのか。まるで気付けなかった……敵を探ろうと視線を動かそうとしたが激痛で体が動かない。
 そうこうしているうちに体が持ち上げられ、宙に浮く感覚があった。
 英二が持ち上げているのだろう。待ってください、と栞は言おうとした。

 せめて援護をしなければ。まだ何の役にも立っていない。このときのための力を得たというのに。
 デイパックに手を伸ばそうにも痛さのあまりか、硬直したように固まって動かない。
 嫌だ、こんな形で、離れたくない――
 どこか遠くの方で怒声が聞こえたような気がしたが、その内容まで聞き取ることは、もう栞には出来なかった。

     *     *     *

 雨が降っている。
 悲しみを伝える雨だ。

 あの時は気付けようもなかった一つの事実。
 それが今、一つの結果として目の前に立ち塞がっている。
 その事すら分かりきったかのように、目の前の人物は冷然として無表情な瞳を向けていた。

「久しぶりだな」
「久しぶりね」

 喜びを分かち合うのでもなければ、懐かしむ声でもない。
 ただそれぞれに現実を認識し、引き返せないところまで来てしまったことを認識するものだった。
 どのような事があったのか、リサ=ヴィクセンには知りようもないし、答えてはくれまい。
 ただ思うのは、ここが正念場……ここで退いてしまえば、取り返しのつかない後悔をするだろうという予感と、
 倒すべき敵を眼前に見据えて、闘争心が猛り狂うのを感じていた。

「柳川祐也……」
「リサ=ヴィクセン……」

 お互いがその名を呼ぶ。恐らくは、別れの合図なのだろうとリサは思った。
 かつての仲間に対して。
 今の敵に対して。
 分かり合えぬ現実を目の前に。

 狐と、鬼が地面を蹴った。




時間:2日目午後20時00分頃】
【場所:I-7 氷川村入り口】

リサ=ヴィクセン
【所持品:鉄芯入りウッドトンファー、支給品一式】
【状態:宗一の言葉に従い分校跡に移動。栞に対して仲間以上の感情を抱いている。柳川に強い敵対意識】

美坂栞
【所持品:M4カービン(残弾30、予備マガジン×4)、何種類かの薬、支給品一式】
【状態:脇腹に銃傷(命に別状は無い)。リサから射撃を教わった(まだ素人同然だが、狙撃の才能があるかもしれない)。リサに対して仲間以上の感情を抱いている】

緒方英二
【持ち物:ベレッタM92(15/15)・予備弾倉(15発)・煙草・支給品一式】
【状態:健康。首輪の解除、もしくは主催者の情報を集める。リサたちに同行。『大人』として最後まで行動する。栞を連れて逃走】

柳川祐也
【所持品:ワルサーP5(2/8)、コルト・ディテクティブスペシャル(0/6)、支給品一式×2】
【状態:左肩と脇腹の治療は完了、ほぼ回復。椋を見つけ出して殺害する。また、有紀寧、初音、柳川の三人になるまで他全員を殺害し続ける】
【備考:柳川の首輪爆弾のカウントは残り22:00】


【場所:H-8】
【時間:二日目午後:20:00】

神尾晴子
【所持品:H&K VP70(残弾、残り4)、大きなハンマー、支給品一式】
【状態:マーダー。右手に深い刺し傷、左肩を大怪我(どちらも簡易治療済み。痛みはあるものの動けないほどではない)、弥生と共に勝ち残り、観鈴を生き返らせてもらう。氷川村に行く。英二、栞、リサを追跡中】
【備考:蘇生の情報には半信半疑】

篠塚弥生
【持ち物:支給品一式、P-90(20/50)、特殊警棒】
【状態:マーダー。脇腹の辺りに傷(悪化)、晴子と共に勝ち残り、由綺を生き返らせてもらう。氷川村に行く。英二、栞、リサを追跡中】
【備考:蘇生の情報は一応理解を示している】

【その他:弥生と晴子は乗用車に乗っています。ガソリンはほぼ満タン】
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