麗人






 
「これは……」

眼前に広がる光景に驚愕の色を隠せない蝉丸が、傍らに立つ光岡が、共に言葉を失う。

「麦……畑……?」

青一色の世界の中、黄金の光とも見まがう色の、それが正体であった。
さわ、と吹き抜ける風に、頭を垂れた麦の穂が揺れる。
それはまるで黄金の海に波濤の寄せては返すが如き、幻想の具現。
見上げた空は青く、だが先程まで世界を覆い尽くしていたような平坦な色ではない。
天頂の濃紺から地平の彼方の群青へと続く、それは正しく蒼穹の青である。

空があり、風が吹き、そして麦穂の揺れる黄金の海。
この上なく長閑な、平穏という言葉の顕現したような光景。
しかし唐突に戦場を覆い、何もかもを埋め尽くした青一色の世界の中にあっては、
彼岸の中にある此岸とでもいうべき、その長閑さこそが異様であった。

「何が起きるか見当がつかん、油断するな坂神」
「ああ、判っている……」

身構えながら慎重に辺りを見回す二人が、背を寄せ合うように動く。
死角を補い、状況の変化に迅速に対応するための陣容である。
と、

「む……?」
「どうした、坂神」

蝉丸の低い呟きに振り返った光岡が、思わず瞠目する。
その瞳に映っていたのは、あり得べからざる長閑さという異様を更に塗り替える、奇異であった。
想像の埒外とでもいうべきそれは、この青の世界で何度目かの絶句を、二人に齎していた。



 †  †  †  †  †

 
そこにあったのは、澄んだ瞳である。
遥かな海の底を思わせる、深い色の眼差し。
郷愁と共にこみ上げる感情の名を、光岡悟は知らぬ。
知らぬが、それは確かに光岡の胸に宿っていたものである。
何年も、否、それよりもずっと以前から抱き続けた、それは臓腑の底の焼け付く痛みのような、
或いは声の嗄れるまで叫びたくなる衝動のような、しかし同時にひどく神聖な光を放つ何かを
その内に抱くような、そんな感情である。

その瞳を覗き込むとき、光岡の胸に奔るのは衝動であった。
遮二無二掴み取り、引き裂いてその中にある脆く美しい何かを掻き抱いて眠りたくなるような衝動。
それを抑え続け、目を逸らすように生きてきたのが光岡悟の人生である。
だが今、その瞳はあまりにも近く、そしてあまりにも無防備にそこにあった。
手を伸ばせば届いてしまうほどに近く。
掻き抱けば容易く引き裂けてしまうほどに無防備に。
目を逸らせぬほどの、深さで。
知らず、その名を口にする。

「坂神……」

触れれば、熱い。
熱さは身を焦がし、心を焼き、光岡悟の自制を融かし尽くすだろう。
それが、怖い。
それは、怖い。
堪えてきたのだ。抑えてきたのだ。
そうしてここまで、築き上げたのだ。
離れることなく、歩み続けてきたのだ。
それを、壊すのか。
そんな声が、聞こえる。
それは、光岡悟という男の怯懦が発する声である。
惨めに震え、哀れを誘うように涙を流す、それは光岡の最も嫌う、しかし最も強く彼自身を縛る声であった。
声はいつも、光岡の衝動を冷ましていく。
求めようと伸ばされる手を、その涙の冷たさで抑え込んでしまう。
それを繰り返してきたのが光岡悟の人生で、いつだってそうしてきて、

「光岡……?」

しかし、今日の瞳は、近すぎた。
伸ばした手が、届いてしまうほどに。

「……騒ぐのだ、この胸が」

開いた口から漏れた声は冷静を装って。
しかし、隠し切れない想いの色が、顔を覗かせている。

「鎮まらんのだ、この鼓動が……坂神、貴様を見ているとな」
「光岡……」

何かを言おうとしたその乾いた唇に、指を添える。
触れた指の先に感じる熱が、鼓動を早めていく。
早まった鼓動が、指を伝ってその唇に何かを言付けてくれればいいと、思う。
言葉が、出てこない。

「―――」

言葉を発さぬ唇は役立たずで、そんな役に立たない唇は、きっともう一つの役割を望んでいる。
言葉の代わりに想いを伝える、そんな役割を。
深い色の瞳が、近づいてくる。
否―――近づいているのは、自分だ。
空と海との間に生まれたような、静かな瞳に吸い込まれるように、そっと唇を重ね―――

 
 †  †  †  †  † 






******


「―――という展開になったら、皆さぞかし驚くだろうね」

くるり、と椅子を回して後ろを振り返り、男が笑う。
視線の先には一人の少年が立っている。

「いえ、驚くとかの前に意味がわからないです」
「おや」
「だいたい二人きりって、砧夕霧はどこ行ったんですか」
「そりゃあ演出の都合ってもんだよ、細かいなあ滝沢君」
「先生が大雑把すぎるんです」

ぬけぬけと言い放った男の名を、竹林明秀。
一言の下に切って捨てた少年を、滝沢諒助という。

「はあ……そんなことだから超先生、なんて呼ばれるんですよ」

狭い部屋に嘆息が響く。
暗い室内には簡素な事務用の机と椅子が一脚。
机の上ではキーボードを照らすように小さなモニタが光を放っている。
沖木島の地下、遥かな深みに存在する一室の、それが全てであった。
元来はプログラム開催の為、各種施設を建造する際に築かれた物置の類である。
基礎部が完成し、上層に設備が整っていく内に忘れられたその空き部屋に目をつけた竹林が
密かに管制系統を引き込み、自身の私室として改造したそれを名付けて曰く、超先生神社という。

「いいじゃないか、超先生。なにせ超だぞ? スーパーだぞ? 君も尊崇を込めて呼びたまえ」
「はぁ……」
「しかし実際、すこぶる暇でね。こんな妄想くらいしかすることがないのだよ」
「死亡報告まで偽装して司令職から逃げてきたのは自分じゃないですか……。
 というか、ここ」

滝沢が覗き込んでいるのは、モニタに映る映像である。

「これ、どうなってるんです? 合成前のCGみたいなブルーバックですけど。
 カメラの故障……っていうには妙な感じですよね」
「私にも、たまには分からんことくらいある」
「……」
「……」
「聞いた俺がバカでした」
「うむ」

重々しい顔で深く頷く竹林に、滝沢がもう何度目かも分からない溜息をついて話題を変える。

「……そういえば真のRRの完成でしたっけ? 先生の目指してたあれはどうしたんですか」
「ああ、それなのだがね。聞いてくれたまえよ、まったく非道い話だ」

水を向けられた竹林が、これ幸いとばかりに語り始める。
適当に相槌を打つ滝沢の冷ややかな視線は特に気にした様子もない。

「命の炎を燃やした殺し合いの末に現れるという最後の玉を待つために仕方なくこんなところで
 油を売っているというのに、もう誰も当初の殺し合いなどには見向きもしていないじゃないか。
 首輪の爆破機能もいつの間にやら切られていて作動しないし、もう管制システムで動いているのは
 監視カメラくらいのものだよ。もうプログラムは滅茶苦茶だ。
 おまけに後任の司令はどいつもこいつも勝手なことばかりやって、挙句になんだね、あの巨大な怪物は。
 バトルロワイアルは怪獣退治じゃないんだぞ。かといって今更帰る場所のあるでもなし、
 戦いが落ち着くまではおちおち地上に出ることもできないときた。実際、私の計画では―――」

立て板に水の如く愚痴をこぼし続ける竹林の、いつ果てるともない憤りを止めたのは、

「―――あらあら、大変そうですわね」

ころころと鈴を転がすような、笑みを含んだ声である。

「うわあっ!?」

飛び上がったのは滝沢だった。
狭い室内のことである。
扉は一つ、その向こうには長い階段が伸びているだけ。
誰かが入ってくれば、気づかないはずはなかった。
それが、

「あらごめんなさい、驚かせてしまったかしら」

微笑んで言ってのけた声音の主の、弓のように細められた瞳が、至近にあった。
まるで、モニタの光を受けて背後に伸びた己の影が、人の肉を得たように。
その女は、いつの間にか狭い部屋の中に、存在していた。

「……、……っ!」
「おや、安宅君じゃないか」

言葉もなく口を開け閉めする滝沢をよそに、振り向いた竹林が小さく片手を上げる。
その表情に驚愕の色はない。

「久々だね。いつこっちに戻ってきたんだい」
「あら、先生ったら」

呼ばれた女性が、口元に手を当ててころころと笑う。

「安宅だなんて、随分と懐かしい名前で呼んでくださるんですね。
 若い頃を思い出してしまいますわ」

言って笑んだ、その切れ長の瞳からは薫り立つ蜜のような艶が滲んでいる。

「ん? ああ、これは失敬。今は何というんだい?」
「―――石原、と」

名乗った女に、竹林が何度も頷く。

「石原、石原君か。……そうか、しかしあの安宅君がね……時が経つのは早いものだなあ」
「長らくご無沙汰しておりました、竹林先生」

深々と、頭を下げる。

「……先生はこそばゆいな。今は私も軍属だよ」
「存じておりますわ、竹林司令」
「恥ずかしながら、そこには元、と付くがね」
「それも、存じております」

薄く笑んだまま居住まいを正した女が、

「本日ここへ足を運んだのは、他でもありません、先生。
 因と果の狭間を歪め、縁を捻じ曲げる呪い―――リアル・リアリティ。
 その当代随一の遣い手たる竹林明秀……いいえ、青紫先生のお力を、是非お借りしたく存じます」

忘れられた部屋で、忘れられた名を、口にした。




 【時間:2日目 AM11:40???】
 【場所:沖木島地下の超先生神社】

超先生
 【持ち物:12個の光の玉】
 【状態:よせやい】

滝沢諒助
 【状態:どうしたらいいんだ】

石原麗子
 【状態:???】
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