青(5) いつか甘やかに優しい声で、おやすみと笑って






 
青。
青の中にいる。
激しさを増す戦場を唐突に塗り替えた青一色の世界に、私はいた。

母が仕損じたのかと、思う。
水瀬秋子の目指す、世界の改変―――神と呼ばれる者の軛からの、解放。
青と赤、肯定と否定という概念の合一。
その均衡が崩れれば、どちらか一方の概念だけが溢れることもあるのかもしれない。

一瞬だけ過ぎったそんな考えを、だが、と思い直す。
だが、違う。この青は性質が違う。
この世界を満たす青はひどく、そう、澄んでいた。
私と同様に、或いはそれ以上に老いさらばえ、妄執に凝り固まったあの人が生じるのとは違う、
混じりけのない純粋な青。
それは、この世ならざるほどに迷いのない、肯定の意思だった。
生きる穢れ―――生まれ、衰えていく過程で生じる命の澱の一切を感じさせない、
こんなものを生み出せるような存在を、私は知らない。
だからこの世界、それを満たす青の根源が何であるのかを、私は考えないことにした。
重要なのは考えることではない、記憶すること―――見て、聞いて、感じて、それを引き継ぐこと。
私はもう、考えることに疲れ果てていた。
この、これまでに見たこともないような青の世界をどう利するかを考えるのは、母の役割だった。
あの人の計画が成功し、この歴史の向こう側へと道が開くのなら、それでいい。
それは同時に私の役割の終わりも意味しているのだから。
失敗し、次の世界が来るのなら、その時に伝えればいい。
どの道、今生ではもう会うこともないだろう。

そう考えて青の中、目を閉じる。
耳を澄ましても、何も聞こえない。
誰いもいない街を思い出す。
もう終わった世界の、誰かが造り、造った誰かはもういない街の静けさを、思い出す。

世界の終わりを、私は知っている。
それは概念ではなく、哲学でもなく、文字通りの意味での、終焉だ。
世界は終わり、終わり続けている。
終わり、また始まって、終わっていく。
それは何度でも繰り返される、無限の輪環だった。

この戦い、沖木島で行われるこの殺戮はその端緒にして、閉幕の序曲だった。
何度も繰り返されてきた、この世界の終わりの始まり。
この殺戮の宴がそういうものであることを知っている人間は、もう殆ど残っていない。
そしてそれは同時に、この戦いの勝者が背負う二つの奇妙な呪いに関して知っている人間が、
もう私を含めて僅かに三人しか残っていないということを意味していた。

そう、この戦いの勝者は、とある役割を与えられる。
誰がそれを与えているのかは知れない。
与える誰かがいるとも、思えない。
水瀬秋子はそれを神と規定した。
私はそれを、システムと考えた。
いずれにせよ、それは選ばれるのだ。
何のことはない―――世界の終わりを見届ける、最後の一人に。

その時期自体に、数年単位の前後はあった。
そこに至る過程にも、様々な差異はあった。
だが、結末だけは変わらなかった。
この島で、この戦いが行われた直後―――世界は、例外なく滅亡する。
そして優勝者は、終わっていく世界の、最後の一人となるのだ。
誰もが死んでいく中で、何もかもが崩れ落ちていく中で、瞬く間に全てが滅びる中で、
たった一人生き延びてしまう、それは呪いだ。

呪い。
そうとでも呼ぶより他はない。
誰も彼もが死んでいく中で、誰も、何も、勝者を殺せない。
自分自身ですら、その命を絶つことが叶わない。
幸運という名の暴力が、その命と因果を、支配するのだ。
そうして選ばれた滅亡の見届け人は、世界に取り残される。
それは、絶望だ。
世界の最後の一人に選ばれる、それはつまり、永劫の苦悶だ。
誰もいない世界で、ただひとり生き続けることの恐怖。
希望を信じて、誰かを捜して、数十年を費やして自分を磨り減らしていく記憶だった。

灰色の静かな街に満ちる絶望を思い出す。
彼方の空に架かる虹の、誰とも分かち合えぬ美しさと哀しさを思い出す。
どこまでも広い空の色の中、秋の花の瑞々しい赤を思い出す。
そんな記憶を、思い出す。

そうだ、私には思い出すことができる。
終わった世界の、終わった命の記憶を、私は持っているのだ。
それが勝者に与えられる、第二の呪いだった。
即ち、終わった世界の記憶を、次の世界に引き継ぐ力。

終わる世界は、滅びる世界は、何度でも始まり直す。
何度でも始まって、何度でも終わっていく。
そんな世界の中で、人もまた生まれ直し、生き直し、死に直っていく。
それはつまり、私もまた、幾度も生まれ直させられているということだった。
生まれ直した私は、前の世界の私の記憶を持っている。
苦悶も、絶望も、恐怖も、恐慌も、諦念も疑念も妄念も、何もかもを引き継いでいる。
永劫という檻の中で、私は、この戦いの勝者たちは、生きていた。

かつていた多くの勝者たち、終わる世界の記憶をもった彼らは、繰り返す歴史の中で
結束し、或いは反目しあいながら、磨耗していった。
何度でも生まれ直す彼らにとって死に意味はなく、それは生に終わりがないのと同義だった。
長すぎる生を倦み、厭い、磨り減っていく彼らは、この歴史の袋小路を超えようと足掻いた。
それぞれの方法で歴史の修正に挑んだ彼らの試みは、膨大な時間の中で繰り返された悪足掻きは、
端的に言って、その悉くが失敗に終わった。

幾度も失敗を繰り返し、幾度も死に、幾度も生まれ直す内、彼らは生きることが無駄と悟った。
そうして彼らは、生まれることを、やめていった。
無限の輪環の中、繰り返される死に意味はなく、しかし生は死を内包する。
生まれてしまえば死なざるを得ず、死ねばまた生まれ直してしまう。
故に彼らは、生まれてくること自体を、拒んだ。
その道筋も仕組みも、誰も知らない。
だが死と生の狭間にある、それが唯一の逃げ道だと、いつしか誰もが理解していた。
一人が減り、二人が欠けて、そうして気づけばいつの間にか残ったのは私と母と、もう一人だけになっていた。
あの自覚もなかった広瀬という少女のように誰も知らない勝者が存在している可能性はあったが、
少なくとも私たちの記憶の中に存在している者は、もう他にいない。
ここ何十度かの歴史では、私と母とで交互に優勝を繰り返していた。
これ以上の勝者を、呪いを増やさないための、それはひどく不毛な工作だった。

目を開ける。
青は変わらず世界を包んでいて、こんな風に終わる世界なら、それもいいと、思った。
風のない、晴れた日の湖面のような穏やかな青に包まれて眠れるのなら、長い長い次の生も、
きっとそれほどには、疎ましく思わずに済むだろう。

そして何よりも、こんなに綺麗に世界が終わるなら。
あの人は、私の大切なあの人は、いま以上には壊れずに、今生を終えることができるのだから。
危機によってでなく、絶望によってでなく、眠るように終われる世界に救いなど、必要ない。
だからそんな世界の終わりには、救世主は現れない。
現れない救世主は、これ以上は、壊れない。

かつて救世主という概念であったもの。
無感情に世界を救うシステム。
世界の危機に、誰もが救いを求めるときに現れ、誰かを救い、救おうとして壊れていく、
些細な矛盾で破綻する、糸の切れた操り人形。
救いを求める者の前に現れて、壊れ。また現れて、壊れ。
壊れたまま何かを救おうと現れる、歯車の欠けたデウス・エクス・マキナ。
私の大切な人。

相沢祐一という名の少年は壊れずに、終われるのだ。
それは、幸福という言葉で言い表されるべき、空虚だ。

この青の終わりが世界の終わりであるのなら、どんなにか素晴らしいだろう。
これまで繰り返してきた中でも、極上の終焉だ。
そうであったなら。

―――どんなにか、素晴らしいだろう。

と、もう一度口の中で呟いて、私は深い溜息を吐いた。
見下ろす彼方に、光があった。
光の周りには、幾つかの影が動いている。
光の下に集まりつつある影は人の形をしていて、それはつまり、命が続いているということだった。
世界はまだ、終わりそうにない。
そんな諦念にすら、慣れきっていた。




【時間:???】
【場所:???】

水瀬名雪
 【所持品:くろいあくま】
 【状態:過去優勝者】
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