雨でぬかるむ山道は、想像以上に走り辛いことこの上なかった。 まだそれほど足を取られるということもなかったのだが、気を抜くと滑って転んでしまいそうになる。 木の合間から雨粒が零れ落ち、服も肌も濡れていく。 前髪をべったりと額に貼り付け、汗なのか雨粒なのか、既に分からなくなっている水滴を拭いながら、伊吹風子は走り続けていた。 山の中腹まで来たのだろうか、それともまだまだ先は長いのか……同じ風景が延々と続くお陰でどこが麓なのか分からなかった。 ただ、目印となるであろう地点にはひとつ覚えがある。 岡崎朋也と、みちる……風子の行く先には、必ずこの二人の死体が転がっているということ。 そして風子は、まだそれに遭遇していなかった。 土と泥に塗れ、赤い水溜りを広げて穴だらけになっている二人の体。想像するだけで胸が痛むが、更にそれを乗り越え、いや放置して進まなければならない。死者への冒涜……そんな言葉が風子の脳裏を掠めた。 見返られることもなく、路傍の小石のように無視され、哀しいほどに報われない二人の魂。 そればかりではない。由真と花梨とぴろ、実の姉の死に顔だって立ち会えていない。 一人寂しく死んでゆく。それを課させてしまった自分の罪の深さを改めて実感する。 無性に泣き叫びたい気持ちに駆られた。彼らの遺体に縋り付いて、どうかお願いです、寂しい思いをさせないでくださいと言いたかった。 けれどもそれは許されない。恐らくは、この殺し合いが終わるまでは、永遠に。 その時は、きっと自分はいないのだとも思うと風子はこんなのってない、とやり場のない怒りと、己の無力さ加減に罵倒したくなった。 だがそれをぶつける術も知らず、またそんな機会もありはしないのだとも理解している。 自分に残されているのは、ただただ贖罪を為す時間、それだけなのだから…… 内省の時間を終わりにして、風子は自分を忘れ、もう何度目か分からないくねった坂道を曲がろうとした。 その瞬間、ガシャンという金属音が風子の耳朶を打った。 直感的に危険を察知した風子は、振り向く間もなく地面に伏せた。 雨で濁った土が顔にへばりつき、泥臭い匂いが鼻腔を満たしたが、咳き込んでいる暇も無かった。 伏せた直後、ぱらららららというタイプライターの音が通り過ぎ、続いて高速で迫ってきた何かが風子の横をグラグラと危なっかしく通過した。 体がまだ動くことを確認した風子は何を思う間もなく飛び跳ね、その場から離れる。 さらにぱらららという音が聞こえたかと思うと、それまで風子のいた地面に無数の小さな穴が穿たれていた。 この『タイプライター』の正体を風子は知っている。 己の頭に憎悪を呼び起こす、この忌まわしい音を、風子はうんざりするほど聞いてきた。 起き上がりざまに、ちらりと前方を確認した時見えた人物――朋也とみちるを殺害し、なおもしつこく追い縋る殺人鬼の青年が、イングラムM10のマガジンを交換していたのだった。 あちこちのフレームがへこんだ自転車に乗り込み、吐息も荒い男の姿を確認した瞬間、風子は全身の血がカッと熱くなるのを感じた。 頭でどれほど憎んでいようとも、いざ目の前にすると改めて体全体が怒り狂う。 張り倒したい。頭を何度も踏みつけて殺してきた仲間に詫びを入れさせたい。 だが今は足りない。あの男を倒すのに、必要な力が足りない。 時間稼ぎのために用意した、バルサンを取り出してボタンを押す。 途端、雨が降っているにもかかわらず物凄い勢いで煙が噴き出し、イングラムにマガジンを装填し終えた男の体を煙に巻いた。 「っ! この……!」 ゴホゴホと男が咳き込むのを尻目に、前を塞いだはずの男をあっさりとすり抜け、風子は再び前へ前へと走る。 無論その際、全力で自転車を蹴り飛ばして派手に転ばせる。煙が目に入ってまともに風子の姿も確認出来なかったので、反撃出来るわけもなかったのだ。蹴り飛ばした瞬間、自分でも驚くほど乱暴な行為を働いたという実感があったが、感慨に囚われる時間も惜しく、風子は後ろを振り向くこともなかった。 更にもう一個バルサンを取り出し、ボタンを押しながら後ろへと放り投げる。 一個目同様の凄まじい煙が男の周りを覆い、悪態をつくのが聞こえた。 これでもうしばらくは……十秒は時間が稼げる。まだ、未来に繋がる十秒は残されている。 先程よりも早く、より早く。 服も髪も靴もドロドロに汚れて気持ち悪い感触だったが、関係なかった。少しでも前に。少しでも可能性を繋げるために。 ふと、風子は以前どこかでやった、草野球のことを思い出していた。 野球のことはよく分からなかったが、とにかく打って走れと言われたのでそうすることに努めた。 コツン、とボールにバットが当たる。ふわりと球が宙に浮き、走れ走れと皆が怒声を飛ばす。 とにかく全速力で走った。塁を目指して、真っ直ぐに走った。 誰かに何かを期待されるのは、家族以外では初めてのことだったから…… セーフ、という塁審の声が聞こえ、風子はそこで立ち止まる。 ベンチの方を向く。そこではよくやったと声援を飛ばす者、意外な足の早さに感心する者、色々いたが一様に労ってくれていた。 全速で走って、息も上がった体の動悸がやけに大きく感じられた。 これが一生懸命ということなのか。全力で何かを成し遂げるというのは、こういうことなのか。 ほんの小さなことに過ぎなかったが、忘れることの出来ない達成感があった。 頑張るという言葉の中身を改めて理解した風子の中には、走って走って、どこまでも前に進むのも悪くないという思いがあった。 そして、やり遂げたときには全力で喜んでいいのだとも。 やりました、と風子は全身を声にして、快哉を叫んでいた。 今はまだ違う。 今は一塁にもたどり着いていない。 ホームはまだ先、まだ自分は、何もやり遂げてはいない。 打って、走れ。誰かが言ったその声が風子を奮い立たせる。絶対に諦めるなと叱咤してくれている。 その瞬間には贖罪の思いも、罪の意識も関係なかった。 どうすれば罪を償えるかではなく、どうすれば前に進めるかを考えて。 何かが分かりかけていた。今までの自分とは違う、本当に大切なものが何かということを。 けれどもその思いは直感的に生じた、言わば動物的勘とも言えるものにかき消される。 後ろを向くと、そこには再び自転車に跨って、怒りの形相も露にした男の姿があった。 坂道なのと地面のコンディションの悪さゆえとてもバランスが取れているとは言い難い。だがこの状況では銃を撃たずとも、自転車そのものが凶器となり得る。自転車を躱しきったとしても、前に回りこまれれば蜂の巣にされる。 もうバルサンはない。不意打ちもどこまで通ずるか分からない。 賭ける要素があるとするなら、今もポケットの中にある拳銃だけだが、果たして賭けて、勝てるだけの可能性はあるのか。 まだだ。まだ五秒は考える時間が残されている。 知恵を振り絞って掴み取ったこの時間を絶対に無駄にしたくない。 仲間が命を落としてまで与えてくれた、この時間をも。 一秒。 サバイバルナイフはある。一気に反転して、すれ違いざまにナイフで切りつけるか? いや足りない。ナイフを取って構えるまでに、自転車が激突してくる。 そもそも自分は小柄で、玉砕覚悟でナイフを正面から突いたとしても届かない。 刃の切っ先が当たる前に吹き飛ばされる。 二秒。 拳銃を盾にして、相手が反射的に回避する行動をさせて隙を作るか。 これも一連の動作を行う余裕がない。火力という点でも自分は見劣りしている。 三秒。 ナイフも、拳銃も用を為さない。この先にあるのは袋小路、デッドエンドだけだという思いが風子を過ぎる。 こなくそと弱気を一蹴するも、しかし勝機のある作戦を思いつかない。 四秒。 諦めるわけにはいかない。せめて、相打ちだとしても死んでいった仲間に恥じない死に方をしたい。 全力だと言い切れるような、悔いのない最期を…… けれどもそれは何かが違うと風子の内奥が叫んでいた。 掴みかけていたもの。野球の思い出を反芻する中で分かりかけていたもの。 こんなのじゃない、これは一塁にはたどり着けても、ホームにはたどり着けない悪手。 でも、それは何だ? 違うとは分かっていてもこうなのだと言い切れる何かがまだ分かっていない。 後少しで分かりそうなのに。足りなかったのか、自分が作り出したこの時間は―― 五秒。 タイムリミットと理性が告げ、こうなった以上は一か八かで拳銃で対抗するしかないとポケットに手を入れたとき、見えたものがあった。 赤く広がる波紋。棒切れのように伸びた体。 ほんの何時間か前まで一緒に話していた仲間。自分を励ましてくれた、ちょっと怖くて、ヘンな人だと思っていた人。 同じく一緒にいた、元気が取り柄だと言えた少女。 岡崎朋也、みちる。 二人の無残な遺体が悲痛さを伴って風子の目に飛び込んできたのだった。 岡崎さん、と我知らず風子は口にしていた。こんな形で再会するなんて。 情けない、恥ずかしい姿を見せてしまったことに自虐的な笑みが零れ、足が止まってしまいそうになる。 岡崎さん、風子は、こんな…… 『止まるなっ!』 風子の弱気の虫を感じ取ったかのように、いつかどこかで聞いた声で、激励の声が発されていた。 『止まるな! 走れ、全力だ! ホームに飛び込めっ!』 野球のときの声だ。そう叫んだ人が空高く打ち上げたボールと共に、グラウンド中に響かせた声。 何かを確信した、希望を追い続ける声だった。 風子はそのときベンチにいたのだが、その人が発する声を、目をしばたかせて聞いていた。 勝とう。勝ってみせる。そんな思いが伝わってくるようだった。 ボールを目で追ってみる。どこまでも高く、天まで届くように距離が伸びていく。 そのときの空の色はなんだっただろうか。夕暮れも近い空は茜色で、けれどもどこまでも透き通るような色だった。 目を戻したときには、全力で戻ってくるその人の姿があった。 ホームラン間違いなしの打球で、そんなに全力で駆ける必要もないのに、一生懸命に走っていた。 ヒットを打ったときの自分のように。 そうして掴み取ったものこそが本当に大切なものなのだと訴える笑いを、こちらに寄越していた。 飛び越えろ。あのボールのように。突っ切れ。フェンスを越えて……! 風子は地を蹴り、あの人が打った打球のように、空高く飛んで、二人の体を飛び越えていた。 浮く感覚。けれども走っている。どこまでも、どこまでも…… 地に足が着いた直後、風子はわき道の茂みに飛び込み、転がるようにして坂を駆け下りる。自転車がブレーキを踏む音が聞こえたが、何かに躓いて派手に転がる気配がした。仕返しとでもいうように。 ありがとうございます、岡崎さん…… 感想はその一言に留まった。背後にはなおもしつこく、坂を下りてくる追跡者の気配があったからだ。 だが、十分時間はある。勝てる、その勝機が巡ってきた―― 泥だらけの風子の口もとがにやりと笑みの形を浮かべた。 * * * 目に入った煙の痛みが、まだ尾を引いている。 何故だ。何故、後少しのところで邪魔をされる。 苛立ちを隠しもせず顔中に滲ませ、七瀬彰は眼下に広がる森林と藪を見渡していた。 自分が死体に躓いて転んでいる間に、標的の少女は段差を駆け上り、道と森林を隔てていた境界を突き破り、隠れる場所の多い茂みへと身を隠した。 雨のせいで視界も悪い。おまけにこうも草木が多くては折角奪った自転車も意味を為さない。 ホテル跡で放置されていた自転車を拾い、連中の中では最も弱そうな奴を選んで追跡してきたはいい。 危険な奴らとは距離も離せたし、自分の勘に間違いはなく、追いついてもロクに反撃すら返ってこなかった。 だが何だ? 後一歩のところで逃げられる、この詰めの悪さは何だ? 殺虫剤の煙らしきもので不意打ちを喰らい、更には蹴飛ばされ、追いついたかと思えば今度は以前殺した連中の死体に引っかかって転んだ。 偶然とは思えない、何か特別なものが彼女を守っている…… 馬鹿馬鹿しいと吐き捨て、彰はこけて泥だらけになった顔を袖で拭う。 運がいいだけだ。実力でもなんでもない、こちらが少し油断していた結果に過ぎない。 認めざるを得ないだろう。時間稼ぎとはいえ不意打ちを浴びたのは確かだし、以前殺した連中の死体が障害物になり得るだろうということも失念していた。だが標的は見誤っていない。確実に倒せるだけの実力差、武器の差はある。 確実に追い詰められれば勝つのはこちらだ。これからは一対一、拠るべきものもなく頼れるものも期待できない、孤独な者同士の争い。 そうなれば場数を踏んでいるこちらの方が適切に判断を取れる。 他人の助力に甘んじ、自身の実力も上げることを考えもしない奴に負けるはずはない。 僕は誰にも頼らない。周りを全て敵だと見なしていれば対応する術を考えなければならない。そうして戦ってきた。そうしていたら生き延びられた。 ひとりでいられる覚悟もない甘ったれに、負ける道理はないんだよ……! 侮蔑的な思念を逃げた少女だけではなく、誰かに寄りかかって戦うことを考えもしない無責任、無関心な人間たちに憎悪を向け、彰はそれを思い知らせてやるべく茂みの中へと踏み出した。 雨で濡れた草木は思いのほか滑りやすく、集中していなければまた転んでしまいそうだった。 イングラムM10は残りのマガジンが一本しかない。弾数的にあっという間になくなりそうだが、まだM79グレネードランチャーがある。 この雨では火炎弾の威力は期待するべくもないので、炸裂弾をセットする。 どうする、試しに何発か撃ってみて燻りだしてみるか? だが森林は広大で、一発撃っても大海の中に小石を放り込むようなものだ。 だからといえど、何もせずに敵地に踏み込むにはいささか油断が過ぎる。不意を打たれた先ほどの痛みが蘇り、彰は目を細める。 ホテルから何を持ち出していたかは知らぬが、下手をすれば今度は殺虫剤の煙だけでは済まない。 相手もいつまでもここに留まっているわけにもいかないだろう、出てくるまで慎重を期すか。 だがそれも問題がある。出てくるということは、それなりに作戦があってのことかもしれないからだ。 追い詰められた狐は、逆に襲い掛かってくるということもある。それを上手くいなし、仕留めてこそ一人前の戦士。 やはりこちらから燻り出す。予定を狂わせ、こちらのペースに持ち込む。 しかし無駄弾を使うわけにはいかない、どこに炸裂弾を撃ち込む…… そう考えたとき、デイパックの中に入れていた、あるものの存在を思い出す。 あれならばどうだ? 電撃的に浮かんだアイデア。だが騙せる保障はあるのか。 いや、自分も素人にほど近い存在だが、相手はさらに素人。ダメで元々と考えるべきで、ここで使わずにいつ使う。 出し惜しみするは宝の持ち腐れと判断をつけ、彰はデイパックからクラッカーをあるだけ取り出す。 イングラムを代わりに仕舞いこみ、M79を脇に挟みこんで、ヒモ部分に手をかける。 さあ、どうだ。当てずっぽうとはいえ、当たるかもしれないという恐怖に晒される感覚に、お前が耐えられるか。 彰は茂みの方へと向け、クラッカーのヒモを思い切り引っ張った。 パーン、と銃声にしてはやけに軽い音だったが山中ということもあってかエコーもかかり、それらしく聞こえることには聞こえた。 一つ目。出てはこない、がまだ次はある。一つ目を投げ捨て、二つ目のヒモに手をかける。 反応なし。ここまではまだ我慢できるだろう。だがまだ次があると知ったら? それほどの弾薬の余裕があると知れば、どうだ? 三つ目。回数を重ねてやけに大きく聞こえるようになったクラッカーの音が木霊する。木々の葉が驚いたようにざざと揺れる。 次で打ち止めだが、動きはない。見破られているのか、それともやせ我慢か。どちらにせよ、四発分の銃声を受けて精神に余裕があるか? ないはずだ。同じだったから。銃の感触など知らず、死の恐怖に、同じく追い立てられていた自分だから、銃声に晒され続けるのは恐怖だと知っている。 次だ。彰は使用済みのクラッカーを投げ捨て、最後の一つのヒモを取る。 最後に残したのは、特大のクラッカーだった。一際大きいそれは、今までのものより重く、バンという大音響を山中に響かせた。 ガサリ、と葉が揺れてひとつの影が飛び出してきた。我慢しきれないというように。 「見つけたっ……」 追い立てられた獣、いや小動物が背中を見せ、坂道を下っていくのを彰は見逃さなかった。 だがその足取りは草木に足を取られて遅く、また足場が悪いせいもあり決して早いものではない。 M79の射程には入っていたが、まだ近づかないと当てられる自信はない。 五メートルが確実に命中させられる射程だと当たりをつけた彰は、真っ直ぐに少女の背中を追った。 だが数歩踏み出した時点で彰は足を止める。彰の足元には、一直線に横切るようにして張られていた線らしきものがあったからだ。 引っ掛けか? いつの間にこんなものを…… 幸いにして色が緑に紛れるような色ではなく、白色だったということ、注意深く罠がないか足元を観察していたお陰でどうにか難を免れることが出来た。 真っ直ぐ進めば、同様の罠があるやもしれない。彰は少し右寄りに迂回して少女の後を追う。 くるり、と少女が後ろを振り向く。罠にかかることを期待していたのだろうその表情は一瞬の驚愕に見開かれ、続いて落胆と焦りの様相を呈する。 そう何度も手の内にかかってたまるか。M79のグリップを強く握り締め、若干前側へと傾ける。 射程距離に入るまで、残りおよそ10メートル前後……いや、この瞬間7メートル程になった。 少女の足は相当に重い。自転車に乗っていた彰と違い、その身ひとつでここまで走り抜けてきたのだ。 称賛に値すべきだと思うが、ここまでだ。体力を使い果たして息切れするがいい。 体力の低下は、そのまま各種回避行動、攻撃、防御、集中力の低下を意味する。 無論自分も体力が減っていないわけもないが、度合いに関しては相手の方が減少率は高いはずなのだ。 特に罠も見えない。やはり集中的に仕掛けられていたのは少女の進む直線上だったということか。 そうこうするうちにあっという間に差は詰まり、十分に当てられる射程まで残り……4メートルか。 距離は約10メートル。当てられるか。その疑問が胸に当たり、無駄弾を消費する余裕があるかと計算する。 いや、直接体に当てる必要はない。炸裂弾なら爆発時の破片だけでダメージ自体は与えられる。先のホテルでの一戦でそれは証明されている。 足を止められれば、後は一分足らずで決着がつく……そう判断した彰はM79を持ち上げ、トリガーを引き絞った。 自身の体に少しの反動がかかり、引き換えに吐き出された炸裂弾が相手目掛けて直進する。 動きながら撃ったお陰で狙いは正確ではなかった、けれども効果は十分だった。 少女の脇を外れてやや近くの地面に叩きつけられた破片弾が地面と草木を抉って爆発し、土や小石を伴いながら破片を周囲2メートル程を巻き込んで飛び散らした。当然、その範囲内には少女もいる。 爆発時の爆風にまずあてられ、体のバランスが崩れたのと同じタイミングに破片や土くれ、小石の群れが襲い掛かる。 咄嗟に顔を庇う動作は見せたものの破片の一部や石が体に次々とぶつかり、さらには爆風の影響もあって軽く体も宙に浮き、そのまま倒れる。 恐らくは転がっていっただろう。ダメージ自体は致命傷にはほど遠く、些細なものに過ぎないだろうが転ばせられたというだけで十分だ。 M79に再び破片弾を詰めなおし、さらに接近を開始する。 射程圏内。入った――そう認識した時、思いも寄らぬ反撃が彰を迎えた。 黒い布に包まれた、つぶてのようなもの……それが少女の手から放たれ、想像以上の速さを伴って彰へと向かった。 何だと認識する間もなかった。運悪く額にぶつかった『つぶて』がガツンという鈍い音を立て、彰の脳を揺らした。 ぐっ、と呻いてぼやけそうになる意識を何とか繋ぎ止め、続け様に『つぶて』をぐるぐると頭上で回す少女の姿を見る。 西部劇か何かに出てくる、捕縛用の縄を回す保安官のようだった。あれは、さっき投げたものと同種のものか? まだあんな武器を残していたとは……諦めの悪い女め……! どろりとした水滴が頬を流れ落ちる。『つぶて』がぶつかったときに額から出た血なのだと気付いた瞬間には、既に第二撃が飛んできていた。 M79で『つぶて』を叩き落とす。女の力だ、銃身がへこむということは考えられない。 だが『諦めの悪い女』は三つ目も隠し持っていて、先ほどまでのような勢いはないまでもそれなりの速さを以って『つぶて』を投げてきた。 これも叩き落とす。ごんという低い音を共に『つぶて』はあらぬ方向へ飛ぶ。 無駄だ、そんなものでどうにかなるものか―― が、それすらも『諦めの悪い女』の本命ではなかった。 二つ『つぶて』を叩き落とし、それに対応する隙が生じ、彰はM79の銃口が向ける事が出来ずにいた。 それこそを狙っていたかのように……『諦めの悪い女』は、両手に拳銃を、しっかりと構えていた。 拳銃から銃弾が放たれ、一直線に彰へと向かっていく。狼狽した彰だったが、こんなことでやられてたまるかという意地が体を動かした。 「舐めるなっ!」 『つぶて』を叩き落すときにM79を振った方向に合わせて体を捻り、重心を移動させる。 それでも銃弾を躱しきることが出来ず、脇腹を銃弾が掠め、僅かに肉を抉り取っていったが、痛み以上の妄執が彰を突き動かした。 戦いを逃げてきた人間に。信念の意味を知りもしない人間に、負けてたまるものか。 伏せるようにして地面に倒れ、それと同時にM79のトリガーを引く。 地面スレスレから発射された炸裂弾が、彰の射程外ギリギリの地面を吹き飛ばす。 土と塵の余波が彰にも襲い掛かる中、『諦めの悪い女』が悲鳴を上げるのを彰は聞き逃さなかった。 草木と泥の匂いが混じった自然の味が鼻腔に広がるのを感じながら、彰は立ち上がり、イングラムM10をデイパックから取り出した。 * * * 体中が痛い。 一度目は爆風に吹き飛ばされたくらいで済んだが、今度はそうもいかなかったようだ。 ほぼ数メートル近くで爆発した破片弾は風子の体中にダメージを与え、手足はもぎ取られたかのように動かなくなっていた。 破片がいくつか服を通して刺さっており、恐らくはその痛みによるショックなのだろうと風子は考えた。 坂道に転がっている自分の体は、それでも諦めるまいと熱を発していたが、最早万策尽きたに等しい。 茂みに入ってから必死に糸を木と木の間に繋ぎ、ゴム糸には接着剤まで垂らして工夫を凝らしたというのに、あっけなく見破られた。 やはりそう簡単にはいかなかったということか。所詮は即興で考え出した素人の浅知恵…… 本来ならこの各種引っ掛けトラップで足を取られている間にお手製の『ストッキングに石を詰めた砲弾』で集中打を浴びせて拳銃で止めを刺す、これであの殺人鬼を打倒するつもりだった。 拳銃に弾が入っていなければそれまでの作戦だが、風子はまだ弾が入っている可能性に賭けた。いや信じた。 朋也が、みちるが背中を支えてくれている。なら由真や、花梨だって……そう思ったから。 その信頼に応えてくれたかのように、拳銃には一発だけ弾が入っていた。花梨が与えてくれたチャンス。 無駄にはしなかったつもりだ。ちゃんと前を見据えて、敵の真正面目掛けて撃ったつもりだった。 しかし、結果は失敗。 トラップは見破られ、お手製砲弾は一発当たったものの後はことごとく潰され、最後の切り札も躱されて…… 勝機はあったはずだった。あのとき、確信した可能性は無謀なものではなかったはずだった。 一体、何が足りなかったのか。 銃弾らしきものに驚いたふりをして逃げ出した演技がばれたのか、引っ掛けトラップが分かりやすすぎる位置にあったのか。 それとも拳銃の構えが甘かったのか、もしくは焦りすぎたのか…… つまるところ、自分の至らなさが決定的な敗因になったということか。 どんなに千載一遇の好機が巡ってきたとしても、それを活かせるだけの技量がなければただの、無力の悪あがき。 蔑むような、含んだ笑いが風子の口から漏れ、悔しさで顔が歪んだ。 でも、泣かない。 それだけは絶対にしない。お姉さんとして、一人の人間として、踏み越えてはならないものだと決めたからだ。 後、もうひとつある。……諦めない。最後の、最後まで、どこまでも足掻いてやる。 例えそれが自らの不実、罪の意識に起因するものだとしても、風子自身が強く願ったことだった。 どんなに格好悪くても、背中を支えてくれる人がいると分かったから…… 応えられるような力を、恥ずかしくない生き方を求めて。 キッ、と風子は悔しさを力そのものの意思に変えて、目の前に立つ男の顔を睨んだ。 額から血を流し、無表情の中にも強い憎悪を含んだ瞳が、同じく風子を睨み返す。 やはり自分の作戦はそんなに間違っていなかったらしいと、風子は鈍い実感を確かめた。 足りなかったのは、風子の力ですか……最悪、です。 自分に言ってみると、あまり気分のいいものではない。朋也にこんなことを言い続けていたのは間違いだったかなと思いつつ、低く声を搾り出した。 「どうして、こんなことをするんです」 あまりに遅い質問だと考えながらも、それだけは確かめておきたかった。 朋也を殺し、みちるを殺し、二人の命に匹敵するものをこの男は内包しているのかと確認したかった。 もちろん、そうであろうがなかろうが、風子がこの男を許さない気持ちに変わりはなかったが。 男は無表情を崩さず、虫けらを見下すような目で答える。 「好きな人の……美咲さんのため。そして、僕自身のためにだ」 ミサキ……かすかに覚えている。今と同じ、冷酷を無表情の中に押し込んだ双眸で見下し、銃口を向けたときに発した言葉。 だが、しかし…… 「……死んでるじゃないですか。その、ミサキさんは」 正確な漢字までは分からないが、ミサキという読みを持つ人は既に死んでいると知っている。 復讐を誓ったのか。自分のように? だが以前言ったときの言葉は『ミサキさんのために死んでもらう』というものだった。 まるで、まだ生きているかのような。 言葉を突きつけられた男は僅かに眉根を寄せ、不快感を滲ませていた。死という言葉をこんな奴の口から聞きたくない。そういうように。 「知っているさ。だからどうした」 生き返らせるなんて馬鹿なことを言うな――その返しを拒絶し、また口にすることさえ許さない重圧が銃口を通して滲み出ていた。 どうやら、この男は自分とは間逆のようだと風子は内心に嘆息した。 誰かの死を知って自棄になり、受け止めずに逃げ出した挙句、都合のいいことだけを考えて他を拒絶する、頭でっかちの偏屈者…… こんな男に許せない、心が張り裂けるくらいの復讐心を抱いていたのかと思うと急速に腹の底が冷え、萎えていくのが感じ取れた。 自分とて人のことを言えたものではないと思うが、それでも逃げ出していないということは胸を張って言える。 現実逃避に甘んじることなく、死んでいった者たちに報いるために、考えて考えて考え抜く。 愚順で無知だとなじられても、絶対に逃げ出さない。逃げ出したくない。 逃げ出してしまっては、本当に掴みたいものがつかめなくなってしまうから。 だから、こんなところで……殺されるわけにはいかないんです! 全身をバネにして、風子は力を振り絞り、銃を向けていた彰の腕を力任せに引っ張った。 いきなり伸ばされた風子の手に反応できず、男がバランスを崩し倒れ掛かってくる。 風子も引っ張った際の反動を利用して、男がダラダラと血の川を流す源の、額へ全身全霊をかけた頭突きをブチ当てる。 頭突きした風子の脳にも火花のようなものが見えたような気がしたが、痛みに構っている暇はない。 よろよろと立ち上がり、再び逃走を試みる。 だがぐいと引き寄せられる力にそれを為すことはあっけなく拒否された。 髪の毛を引っ張られたと思った瞬間、ガツンという堅い衝撃が風子の背中を突き抜け、痛みを全身に伝播させた。 銃把で殴られたのだと理解したときには、風子はごろごろと坂道を転がり草いきれの匂いを再び味わうことになった。 土に指を掻き立てるようにして転がるのを抑えたものの、止まった瞬間には男の足が風子の体を強く踏みつけ、ぐりぐりと足裏で擦り付ける。 「……諦めが悪いんだよ、戦いから逃げ出した臆病者の癖に。そんなに死にたくないか」 暗澹とした、陰惨な憎悪を増して見下す男の声が降りかかる。 風子がここまで抵抗してもそれだけの価値を認めようともしない、優越感のみで己の意義を見出そうとする声。 負けたくないという強い思いは相変わらず風子の中に堅く存在していたが、力が伴っていなかった結果が、今の有様という冷めた感想も持っていた。 この島に厳然として我が物顔で居座り、何をしても許されるという力の倫理。 どんなに覚悟を持って、傷つき、傷つけるのも厭わない勇気があってもそんなものをあっという間に押し潰す、やられる前にやるという暴力の嵐。 それに対抗するだけの本当の力が、自分にはないのか。 悔しくてならなかった。もっと力があれば、自分が無力でさえなければ。 やりきれなくなった思いを、風子は全身で声にしていた。 「あなたのような人に負ける風子が……最悪です……! でも、風子は負けたつもりなんてありません。風子にここまでしてやられるくらいのあなたが、この先勝っていけるわけないんです。ふんって笑ってあげます。自分より弱い人を見下すだけのいじめっ子だって言ってあげます……!」 最終的に得た、この男に対する風子の総括だった。 今は自分を見下すこの男も、結局は更に大きな力の倫理に呑み込まれ、為す術もなく消えていく。 それに抗するだけの本当の力を、身につけていかなければならないのに。 でも、風子も負けました。同じ敗北者です。所詮は同じ…… 「言いたかったのはそれだけか? ……なら、死ね」 どこか遠くから響くような冷たい銃声が、山中に響いた。 * * * 「……おい、あれ」 山の方角を指差した国崎往人に合わせて、川澄舞もそちらを向く。 雨で燻る視界の中、山中からもうもうと煙が立ち昇っているのが遠目にも確認できた。 まるで何かを目指すように高く、高く。 しかもその元が花梨や由真、風子を残してきたホテル跡に近いのでは、という予測を走らせた瞬間、往人の胸にざわとした不安が粟立った。 まさか、三人に何かあったのでは…… 一度考えてしまえば脳裏から消し去ることはできなかった。 ひょっとしたら、今にも彼女達の命が危うくなっている……行動を起こして、彼女らの元に舞い戻りたい。 だが同行者のこともある。今ここにいる舞と背中に背負っている朝霧麻亜子を放っておくわけにはいかない。 今の俺がやるべきことは二人の安全の確保で、独断で勝手な行動を起こすわけには…… 「往人」 凛として強い意志の篭もった声が、往人の耳朶を打った。それが舞のものだと分かって振り向くまでに、舞は手に怪我をしているとは思えないほどの力で朝霧麻亜子の体を引き摺り下ろしていた。 唖然とする往人をよそに、舞はしっかりとした調子で朝霧麻亜子の体を抱え直し、背中に負ってから「行って」と続ける。 「まだ間に合う。……そんな気がする」 完全に勘に任せて言ったと思われる言葉だったが、不思議な説得力があった。 だが、ここに守ると決めた者を残しておくわけにはいかないと理性が語り、しかしと反論の口を開こうとした瞬間、ふっと舞の表情に翳りが差した。 出掛かっていた言葉が、そこで完全に遮断される。そうだ、舞は何も出来ずにただ傍観して見ているだけしかできなかった。 ひとつ行動を起こせていれば、今とは違う未来になっていたかもしれなかった舞。 最悪の結果になることもなく、重荷に過ぎる重荷を背負わなくても良かったのかもしれない。 行動しなかったばかりのツケ。それを舞は、自分に教えようとしてくれているのではないか? ポケットに入れたままの風子のプレゼントが、不意に重さを帯びたような気がした。 これでいいのか? 希望的観測に縋って何もせずに、また見捨てるのか? それが原因で不幸な結果を迎えたとして、守るべき人がいたから仕方がなかったんだと理由をつけてしまうのか? 俺はまだあいつらに、人形劇も見せていないのに。 「……済まない。任せても、いいか」 搾り出した声は、それでも苦渋に満ちたものがあった。 我侭だ。抱えきれる範囲のひとしか守れないということは先刻承知のはずではなかったのではないか。 自分がこんな行動を起こしたばかりに、舞を失ってしまうことがあるかもしれない。 それで、誰も彼も失うようなことになってしまったら…… 声に出したものの、足は一歩も先に進もうとしなかった。恐れている。失ってしまうことを。 自分の力に限界が見えてしまったがための諦めが、いつの間にか往人の底にへばりついて縛り付けていた。 一度守ると決めてしまえば、失うのが怖くて自分を狭めてしまう。分かったような気分になって、それ以外のものが見えなくなる。 どうする……? 二人とも連れて行くか? いや、それは自分が楽になりたいだけの安全策だ。 どうして、俺はこんな考え方を……怯える自分がどうしようもなく許せなくなった。 やりきれない気持ちが昂ぶったとき、往人の手のひらを包むものがあった。 「私は……問題ない。生きていくって決めたから、どんなものにも負けない」 決然とした意思が見える舞の台詞は、手のひらから伝わってくる温かさと合わせて、往人の抱えるつまらない打算を溶かしていった。 生きていく。己の命を信じ、また人の命のありようも信じる、本当の信頼を携えた響きは往人にもその意味を思い出させていた。 自分ひとりだけじゃない、誰かが己を支えてくれているという実感。それを力として、正しく使っていける自信があるからこそ、舞は自分に行ってくれと頼んだのだろう。それを自分は、まだ何もかも一人で背負った気になっている。 結局のところ、ひとりでいた頃の自分自身しか信じられなかった癖が抜け切らないのだろうと感じた往人は、つくづく進歩がないと苦笑した。 そしてそれが分かった今は、そこから一歩でも進歩しようとする自分の決意をも沸かせていた。 いつまでもこのままじゃ、皆に笑われるから。 「……正直、不安ではあるけど、信じてる。だから、待ってる」 分かってるさ。……たった今、お前が分からせてくれた。 口には出さず、往人はコクリと頷いて、もうもうと煙を昇らせている山の方へと視線を移した。 今はやるべきことをやる。どんなに不安でも、それに抗えるだけの力があると分かった。 自分ひとりで全てを見なくてもいい。背中を任せていられるだけの存在がそこにあるのだから…… 「ああ。すぐに戻る。その間、こいつを頼むな」 その言葉だけを残して、往人は猛然と山に向けて走り出した。 もう迷いはない。今度こそ、間違えずに……求めることが出来るから。 村を抜け、外れから山中へと伸びる坂道に向かう。以前はここを通って平瀬村へとやってきた。 そういえばここを通ってきたとき、死体を発見したのだったということを往人は思い出す。 あの二人の遺体は、今はどうなっているのだろうか。雨に晒されて酷いことになっているのではという想像が頭を過ぎったが、すぐに打ち消した。 それを考えている時間も、どうこうする時間も今の自分にはない。 人の死を悼む気持ちはないではなかったが、それで何が救われるわけでもないし、またそうなるとも思わない。 だが自分の命も、この使命感も他人の死の上に成り立っていることは実感している。 だから目を逸らさない。逸らすまい。一度弱気の虫に負け、何もかもを蔑ろにしようとした己を忘れない。 痛みも哀しみも乗り越えて、その先の沃野にたどり着くための鳥。血を吐き続けながらもどこまでも飛び続ける鳥。 あの時自分が発した言葉の意味が、ようやく理解できたような気がした。 忘れてはならない。この島には、まだまだ笑わせるべき、笑顔を失ってしまったひとがたくさんいる。 飛ぶことを止め、座して死を待つだけの鳥を、もう一度羽ばたかせたい。共にその先の未来を迎えるために。 そのためになら、たとえどんな苦しみが待ち構えていようとも逃げ出さない。 生きるというのは、そういうことなのだろうと、今一度結論を噛み締めた往人は、山の中腹でまた煙が出ているのに気付いた。 誰かがいる。まだ戦いを続けている人があそこにいる。 もう一度往人は自分に対して問う。 お前はその手で、どれだけの人間を抱えきれる? 出来もしないことをして、挙句大切な人を失ったらどうする? ……そうならないために、互いが互いを支えあう。 協力して、手を取り合って立ち向かえば少なくとも自分ひとりよりは、大きな力を持つことができる。 信頼という言葉の中身。自分が学ぶべきものを求めて、俺は人形劇を続ける。 だから……助けに行くんだ。 なんだ、つまりは自分のためじゃないかという結論が出て、そうかもなと往人は嘆息した。 だがそれでいい。今はそれでいい。まだ自分は何も知らないのだ。分かったような気になるのがおかしい。 ポケットからコルト・ガバメントカスタムを取り出し、スライドを退いてチェンバーに初弾を装填する。 フェイファー・ツェリスカとは勝手が違うだろう。あの銃は反動が大きすぎて連射など問題外だったが、こちらはどうか……? フェイファーより小さいものの、それでも両手に余る大きさのガバメントカスタムの重さを気にしている間に、軽いような、重いような破裂音が立て続けに響き、戦闘が熾烈になってきていると予感を抱かせる。 問題は、この先どちらに味方するか、だ。標的を見誤れば最悪の事態にもなりかねない。 いや、複数人で戦っている可能性もある。気をつけなければ狙撃されることもあるかもしれない。 素早く辺りを見回してみる。複数の人間が潜んでいる気配は……ない。 寧ろ殺気……戦闘の気配は一方向からしか感じられない。複数人による戦闘なら、この場一帯を取り囲むように音を響かせていてもおかしくはないはずなのに。やはり、一対一の戦いなのだろうか? 考えながら目を凝らした先、これまた立て続けに閃光が奔り、派手に土埃を巻き上げた。 爆発したと理解したときには、往人の体は体勢を低くして山を駆けていた。 いくつか修羅場を乗り越えて慣れてきたらしい。人の適応能力は存外高いものだと不謹慎な感慨を抱く間に、人の呻き声が聞こえてくるようになった。 さらに近づくと、細身で、長身の男と思しき人物が何やらものを投げられ、それでも再び反撃して相手を追い詰めているようだった。 爆発の正体は奴か。射撃を試みようと思ったが、距離がまだ遠く射程にも入っていない。 くそっ、間に合うのか……? いや間に合わせてみせると啖呵を切った往人は更に速度を上げて雨の降りしきる坂を登る。 心臓が悲鳴を上げ、酸素を寄越せと催促を始める。普段の生活が運動のようなものだとはいっても坂を登るのはつらい。 走り回るといえば、ポテトに人形を取られたときのことを思い出す。 あの畜生は今も元気だろうか。あわよくば、人形を口に加えて戻ってきたりしないだろうか。 人形が手元にないと、どうもすっきりしない。人形劇を続けるなら、あの人形は必須だ。旅の道連れであり、母が託した願いの元が。 ……なおさら、死に急ぐわけにはいかない、か。 つい先程までは自殺しようとさえ考えていたのに。ちょっとしたことで世界や価値観なんて変わってしまう。 生きてさえいれば、まだ変われる可能性はある。 だからそれを奪おうとする奴を、俺は許さない。 これも矛盾していることは分かっている。だがそれでも何も己のありようを変えようともしない奴を許す気にはなれないし、分かり合おうという気にもなれない。何が理由であれ、目的のために同胞を躊躇無く殺せるということを受け入れられないというだけだ。 そのために犠牲になってしまった、ひとりの少女の姿を思い浮かべて。 視界に入った、二人の人間の姿を確認し、倒すべき敵を見定めた。 みちる――口中に呟いて、往人は手にマシンガンを構え、抵抗を試みていた伊吹風子を殴り倒した男……風子、由真をして、みちるを殺害したと言わしめた男を双眸に見据え、勢い良くガバメントカスタムを持ち上げて照準をつける。 激しく上下に揺れ動く体で、果たして狙い通りに弾が飛ぶのか。この体力で果たして勝負になるのか。 打算的に考えた脳がそう言ったが、関係ないとかき消す。 助けることが第一義だ。まずは注意を逸らすだけでいい。やるべきことをやるだけだ。 意識の全てを戦闘に傾けた往人の体が、ガバメントカスタムのトリガーを引き絞った。 男の死角から放たれた38口径の銃弾が山中に木霊し、真っ直ぐに相手へと向かう。 往人の狙いは体の中心部。単に体の表面積で一番大きいところを狙っただけなのだが、その行為は間違いではない。 少々目算がずれても体のどこかにでも当たれば激痛に身をのたうち、即時反撃という選択肢を相手から奪う事が出来るからだ。 『殺す』ことより『動きを止める』ことを優先した結果ではあったが、それは如実な効果として表れた。 「ぐっ!?」 体の中心部から大きくずれ、腕に少し掠っただけとなったが、男に苦悶の表情が生まれ、意識が往人へと向いた。 ちっ、と舌打ちして木の陰に隠れた瞬間、ぱららららというタイプライターのような音が弾け、泥が激しく飛び散った。 だがその狙いは明らかに精彩を欠いている。恐らく突っ立っていても当たらなかっただろうし、何より気付いて撃つまでに数秒もの時間があった。 格闘戦には持ち込み辛いが、射撃なら互角の条件で戦える。 攻略の糸口を見つけ出した往人は木の陰から半身を出すとそのまま連射する。 正確に狙いをつけたわけではなかったが、急な坂に立っており、尚且つ滑りやすい地点であったが為に急速な回避は男には不可能だっただろう。 その証拠に近くの木の陰に隠れるまでに十秒近くの時間をかけ、しかも一発が膝を掠った。 いける、とは思わなかった。地形的に有利なまでで、仕留めるにはもう一つ足りない。逃げられてしまうのだけは避けたかった。 ここで逃がしてしまえばまたこの男の犠牲者が出るかもしれない。それ以前に、みちるの敵討ちという情念もあった。 確証はない。目の前の男がみちるを殺害したとは言い切れない。だがマシンガンという特徴と、風子を狙っていたという事実から往人は間違いではないという確信を抱いていた。 殴られたまま、風子は姿を見せない。一歩遅かったのか、それとも…… とにかく、早急に対処するまでだ。気を引き締めなおして往人は雨で滑らぬよう、ガバメントカスタムのグリップを握りなおした。 さてどうする。敵も隠れてしまった以上迂闊に弾を浪費するわけにはいかない。 かと言って持久戦に持ち込めばじわじわと相手の体力も回復し、逃げられるかもしれない。 ……止むを得ない事態と割り切って、弾幕を張りつつ攻撃あるのみ、か? 猶予は少ない、ならば早急に決断をするべきだ。 飛び出ようとした往人の足元に、ばさりと何かが落ちて音を立てた。 思わず注意を逸らされ、足元を凝視した瞬間、そこに黒いものが転がっているのを見た。 手榴弾か――!? 考えるよりも先に体を動かした……それが見当違いだと分かったのは、体が動いてしまった後だった。 草木に紛れ落ちた黒いそれは、四角形で僅かに曲がった形状をしており、およそ手榴弾とはほど遠いものだった。 箱型の手榴弾など見た事が無い。つまり、それは…… 嵌められた……! だが一度動かしてしまっている体はどうすることも出来ず、無防備な姿を敵に晒してしまっていた。 視界の隅に入った男の姿に、やられたという敗北感が浮かぶ。 だが致命傷さえ喰らわなければいい、持ちこたえてくれと目を瞑った往人の耳に、吼える声が聞こえた。 「わああぁぁああぁぁああぁっ!」 力を振り絞り、大気をも振るわせるその色は男のものではなかった。まさかという思いで往人は目を見開く。 男の背後から、逆落としの勢いを以って、風子が銃を手に持って突進してきていた。 死んでいなかった……そればかりか、自分が戦っている隙に隠れながらも移動し、好機を待ち構えていたのか。 抜け目ないと思いながらも、再逆転の隙が生まれたと往人は口を歪め、よしと口中に呟く。 相手にとっても風子の奇襲は誤算だったようだ。狼狽した様子で後ろを向き、銃を乱射したものの一発として当たらず、しかもすぐに弾切れとなりカツンという空しい音を最後に弾を吐き出さなくなった。 さらに慌てたようにして平静も保てなくなっている様子の男に、絶好とばかりに風子が銃口を向ける。 自分の体はまだ動かない。だが足が地面に着けば再び蹴って、挟み撃ちにすることができる。 これで詰み。ジ・エンドだ。 「ふざ、けるなっ!」 往人の考えを読み取ったかのように、予想外の出来事に翻弄される己を叱責するように、何よりも目の前の邪魔者に対して男が絶叫した。 まずい、と往人のどこかがそう叫んでいた。終わりではない。まだこの男には風子をどこまでも追い詰める『執念』が残っていた。 そこから先は一瞬だった。 まるで戦闘慣れした歴戦の傭兵の如く、男はマシンガンを捨て素早く風子の手首を捻り、銃を奪い取るや後ろに回りこんでその頭に銃を突きつけたのだ。 往人が体勢を立て直したときには、さらにもう一方の手で風子の首を締め上げていた。 人質に取られた……! またもや事態は逆転し、不利な状況に一変したことを往人は認識せざるを得ない。 ガバメントカスタムを構え直したものの、風子の影に隠れるようにした男は不敵な、しかしどこまでも見下すような嗤笑を浮かべていた。 「馬鹿な女だよ……逃げていただけの癖に、僕を倒せると思い込んで……思い上がりも甚だしい」 「伊吹っ!」 風子に当てず、敵だけを仕留められる箇所はないか。必死に目を動かして探す往人だが、自分の射撃力でどうにかなるレベルではない。 側面にでも回り込まない限りはまず風子に当たってしまう位置だった。 折角、ここまで来たのに。今度こそ本物の、どうしようもない敗北感が往人のうちに塗りこめられ、悔しさが往人の胸を締め上げる。 「く……国崎さん……」 締められた喉から搾り出すようにして、風子が往人を見る。 しかしその表情は、苦しいながらも助けを求めるものではなかった。寧ろどこかふてぶてしい、してやったというような顔だった。 「撃って……下さい。風子なんかに、かまわ、ず」 「……黙れ」 臭い芝居だというように、嫌悪感を隠しもせずに男が風子の側頭部に銃口を押し付ける。「よせ!」と往人は叫んだが、風子は黙るどころかじっと往人を見つめ、臆している風もなく喋り続けた。 「これで、いいんです……岡崎さんも、みちるさんも、笹森さんも……十波さんも殺されて、それでも風子が出来る、たったひとつのこと……」 「聞こえないのか、黙れ」 男の締める力が強まり、けほっと咳き込み苦しさを増した風子の表情が歪む。 それでも風子の瞳に宿る意思は消えない。ただひたすらに何かを伝えようとしてくる。その強固な視線は、ただ愚直に往人を見つめていた。諦めさえ見える言葉とは裏腹の、真っ直ぐな双眸…… 台詞と明らかに異なる風子の様相。ならば、そこには隠された何かがあるのではないか? ふとそんなことを考えた往人の頭には、まさかという思いがあった。 憶測が往人の中を飛び交い、どれが真実だと問いかける。 いやそれ以前に撃てるのかという迷いも残っていた。 例え風子が何かを考えていたとして、そのために自分は人を撃つことが出来るのか。 『少年』のときとは違う、仲間だと認識した人間を撃つことが出来るか? もしものことだってあるかもしれない……恐れる自分に、だがしかしと反論する自分がいた。 失敗を恐れる気持ちは誰しもある。けれども逃げ出してしまったら、俺は何もかもを裏切ってしまう。 送り出してくれた舞も、何かの意思を伝えようとする風子も、ここまで背中を押してくれた皆にも。 信頼を寄せて、自分に運命を託したのなら、その先の結末を見届ける義務がある。 それが自分が目指す、沃野への標となるのなら。 決意を込めて、往人はガバメントの銃口を風子の先にある、倒すべき敵へと向けた。 「お前……!」 男の気配が、憎しみから怯えへと変わる。仲間を見捨てようとする冷酷な行為と受け取った男の頭は保身を選んだようだった。 風子から奪い取った拳銃をこちらへと向け、にべもなく引き金を引く。その目に、来るなという言葉を含ませて。 だが、男の向けた銃口から弾丸が放たれることはなかった。 カチンというスライド音だけを残し、拳銃の中身は空っぽだったという事実を告げた。 「な、に……?」 怯えから呆然一色の表情に切り替わる。刹那、往人は風子がニヤと笑ったのを見逃さなかった。 抜け目ない奴だよ、と往人も笑い返して引き金に手をかける。 「っ、くそ……!」 立て続けの予想外に見舞われた男は気が動転したか、風子を盾にしておけばいいものを、向けられた往人の銃口から逃げるように風子を放り出し、背中を見せ逃走しようとする。そんなものを、往人が逃すはずはなかった。 弾倉が空になるまで連射されたガバメントカスタムの銃弾が、男の体にいくつもの穴を穿っていく。 おびただしい血を噴出させた男は、恐らくはもう起き上がらないのだろうという感想を、往人に抱かせた。 戦場の匂いが急速に薄れていくのを、往人は感じていた。 * * * 銃弾に倒れた彰の頭に浮かんだものは、負けたのかというぼんやりした感覚と、痛みもなにもなく、ただ命だけが溶け出していく感触だった。 ひとりで戦って戦って戦い抜いたが、結局は仲間という存在に負けた。 もう起き上がって反撃する気力もない。ただ自分が捨てたものに強烈なしっぺ返しを喰らったようで、情けない気持ちだった。 「大丈夫か」 「……平気です。けほ、上手くいったようで、良かったです」 まだ自分には声を聞き取るだけの意識があるというのに、まるで何もかもが終わったかのように喋っているのが気に入らなかった。 だが、やられた。絶対の優位を確信していた相手に出し抜かれ、致命傷を負う羽目になった。 仲間、という言葉を彰はもう一度思い浮かべる。 もし自分も仲間を作っていればこんな負け方をせずに済んだだろうか。 こんな風に最後に顧みられることもなく、ひとり寂しく死なずに済んだだろうか。 誰かが自分のことを覚え続けてくれていただろうか。 全ては後の祭り。そう思うと、急に死ぬのが怖くなってきた。 死にたくない。こんな風に、ただ敗北者として名前を知られることもなく…… しかし助けを求める資格も、手を差し伸べてもらえるだけの優しさも、全て自分で振り払った。拒絶して、一人なら何も失わずに済む。 一人なら望むことが出来ると豪語したザマがこれだ。残ったものは、寂しさと空しさだけだというのに。 戦いをやめておけば良かったとは言わない。澤倉美咲のことを忘れ、新しい道を踏み出しておけばよかったとも言わない。 己の選択は今も間違っているとは思わない。戦わずして、自分が自分でいられるものか。 戦わなかった瞬間、人は暗闇の底に落ちて何を求めていたのかも忘れてしまうから。 たったひとり……そう、ひとりでいいから、仲間を作っておけば良かった。 それが自分を慰めるものであろうと、偽りの関係であっても構わない。 冬弥。由綺。他の顔も知らない誰か。 耳の奥には先程まで喋っていた二人組の声が残り、言いようのない哀しさを彰に覚えさせた。 少しだけ後悔して、少しだけ涙を流しながら……七瀬彰は息絶えたのだった。 【時間:2日目午後21時00分頃】 【場所:F−3北部(山中)】 国崎往人 【所持品:フェイファー ツェリスカ(Pfeifer Zeliska)60口径6kgの大型拳銃 5/5 +予備弾薬5発、パン人形、38口径ダブルアクション式拳銃(コルトガバメントカスタム)(残弾0/10) 予備弾薬57発ホローポイント弾11発、投げナイフ2本、スペツナズナイフの柄、支給品一式(少年、皐月のものを統合)】 【状況:強く生きることを決意。人形劇で誰かを笑わせてあげたいと考えている。まず風子を保護。次にまーりゃんの介抱、然る後に椋の捜索】 【その他:左腕に文字を刻んだ。舞に対して親近感を抱いている(本人に自覚なし)】 川澄舞 【所持品:日本刀・支給品一式】 【状態:同志を探す。往人に付き従って行動。強く生きていたいと考えている。まーりゃんを連れて移動中。両手に多少怪我(治療済み。支障は全くない)、肩に浅い切り傷】 【その他:往人に対して強い親近感を抱いている】 その他:舞の持ち物(支給品に携帯食が十数個追加されています。) (武器・道具類一覧)Remington M870(残弾数4/4)、予備弾×17、スイッチ(未だ詳細不明)、トンカチ、カッターナイフ、SIG(P232)残弾数(2/7)、仕込み鉄扇、ワルサー P38(0/8)、フライパン、投げナイフ(残:2本) 朝霧麻亜子 【所持品1:デザート・イーグル .50AE(2/7)、ボウガン(34/36)、バタフライナイフ、支給品一式】 【所持品2:ささらサイズのスクール水着、芳野の支給品一式(パンと水を消費)】 【状態:鎖骨にひびが入っている可能性あり。往人・舞に同行。スク水の上に制服を着ている。気を失っている】 伊吹風子 【所持品:サバイバルナイフ、三角帽子、青い宝石(光四個)、グロック19(0/15)、支給品一式】 【状態:泣かないと決意する。全身に細かい傷、及び鈍痛。疲労困憊でしばらく行動不能】 七瀬彰 【所持品:イングラムM10(0/30)、イングラムの予備マガジン×1、M79グレネードランチャー、炸裂弾×2、火炎弾×9、支給品一式】 【状態:死亡】 【その他:折り畳み自転車はE−4南部に放置】 - BACK