―――十六年も前のことだ、と声は告げた。 十六年前。 一人の男が、国政の頂点に立った。 男の名を犬飼俊伐。 世界に先駆けて覆製身技術を完成させた科学者にして、気鋭の論客であった。 当時、十数年にわたって打ち続いていた戦役に厭戦感情の沸騰しかけていた国民は、文民出身の首相を歓迎の声をもって迎えた。 軍部による傀儡政権との見方も、彼の政治手腕によって瞬く間に休戦条約が纏め上げられるに至って沈黙した。 疲弊しきった国家は、ここに一時の休息を得たのである。 内政に、また外交に高い手腕を発揮した犬飼は国民の圧倒的な支持を背景に幾つもの改革を断行。 短い休戦期の間を縫うように、内閣主導による行政機関の再編が行われた。 腐敗した官僚の一新と行政の効率化という合言葉の下で再編された省庁の一つに、厚生労働省がある。 企業との癒着で多くの汚職官僚が摘発され、清廉の故に苦汁を舐めていた職員だけが諸手を挙げて再編を受け入れる中、 誰の注目も浴びないままに一つの部署が誕生している。 ―――『特別人口調査室』。 組織図上は人口調査調整局の下部に位置するものの、事実上の大臣直轄とされ局長クラスですら関与できぬ、 その部署の業務内容は、ただ一つ。 犬飼首相の肝いりで行われる極めて特殊な、そして極めて異常な企画の、運営である。 バトル・ロワイアル―――民間人による、殺戮遊戯。 何を目的として始められたのか誰一人として知る者のない、悪夢の企画。 内部的には『プログラム』と呼ばれたその第一回が開催されたのは、犬飼の首相就任から三年が過ぎた夏である。 山陰地方のとある廃村を封鎖して行われた第一回プログラムの参加者は、実に百二十人。 老若男女を問わぬその人選に如何なる意図が働いていたのか、それは既に知る由もない。 判明している事実は、その選出が完全な乱数によるものなどではなかったという一点である。 友人、知人といった関係者が揃ってプログラムに参加させられた集団の存在が、それを裏付けている。 訳もわからぬ内に拉致され、殺戮を強要されたその百二十人の中の、幾つかの集団。 その一つに、とある青年を中心とした友人集団で構成されたものがあった。 青年は平凡な学生だった。 中流の家庭で学徒動員されることもなく育ち、休戦期の中で青春を謳歌していた青年は、強要された殺戮を好まなかった。 友人たちを集め、和をもってプログラムへの対抗を呼びかけた。 青年と友人たちは他の集団へと積極的に融和を求め、その勢力は徐々に大きくなっていった。 そして、それが為に―――悲劇が起こった。 いつの間にか青年たちの勢力は、プログラムの趨勢を完全に握っていた。 その保持する火力と人数は、彼らの思惑次第で残る人間……彼らに与しない人間の命運を決められるまでになっていた。 彼らは大きくなりすぎたのだ。 最大勢力となった彼らは、その主導権を巡って争いを始め―――混乱の中で、一発の凶弾が青年を撃ち抜いた。 青年の方針に小さな反目を持った別集団の、リーダーを盲目的に崇拝していた者の発砲と記録されている。 要であった青年を喪って、勢力は即座に瓦解した。 プログラムへの対抗という一つの目的に向かっていたはずの彼らは、青年たちに合流する以前の集団単位で分裂。 保持する武装をもって、互いに殲滅戦を開始したのだ。 そして、多数に分裂した集団の殆どから狙われたのが、死んだ青年を中心としたグループだった。 青年を喪ったとはいえその火器は勢力中で最大を誇っていたのが脅威であったのかも知れないし、或いは かつての結束の象徴であった彼らが、多くの者にとって精神的な枷であったのかも知れない。 いずれにせよ窮地に立たされた彼らを救ったのは、一人の男だった。 男は青年の親友だった。 智謀をもって青年を支え、雄弁をもって彼らを最大勢力に導いた男は、青年を喪った悲しみに浸ったまま 抗戦の意思を見せない友人たちを叱咤し、銃を手に取らせた。 ―――諸君、反撃だ。 青年の遺骸を抱いた返り血で顔を赤く染めながら、男は笑ったという。 笑って走り出した、男のその後の記録は凄惨に満ちている。 奇襲、夜襲、伏兵、罠。 あらゆる手段を駆使して敵集団を分断し、かつて手を結んだ人間たちを皆殺しにしている。 時に再びの融和を呼びかけておきながら、最悪の状況で裏切りをかけて死に追いやり、 そうして敵と味方の全てを巻き込んだ鬼謀の果てに、男は勝利した。 生き残ったのは、最初から青年の友人であった者たちだけだった。 その他の全員を男は殺し、そして運営に携わっていた当時の特別人口調査室の人間と接触している。 どのような取引があったものかは知れない。 長い協議の果てに出た結論だけが、現在の事実として残っている。 即ち―――その時点での生存者全員が、第一回プログラムの優勝者であった。 文字通り完膚なきまでの勝利を収めた男は、ただ一つの喪失について何の言葉も残していない。 あらゆる公式の場で青年の死に触れることは、一切なかった。 プログラム終了後、男は国家への所属を決める。 約束された厚遇に甘んじる青年の友人たちと袂を分けて選んだ道は、陸軍士官学校への編入である。 プログラムで見せた神算鬼謀を証明するように男は入学当初から頭角を現した。 幹部候補生として陸軍士官となった後も結果を出し続けた男は、やがて陸軍大学校へ進学。 類稀な成績を残して卒業し、俊才として上層部の目に留まることとなった。 有力な人脈を得た男が幾つかのポストを経て就任したのが、憲兵隊司令部付副官の役職である。 この間の男の職掌に関しては一切の記録が残されていない。 しかし犬飼首相との距離を急速に縮めたのがこの時期であったことを考え合わせれば、議会及び官庁へ派遣される 特務憲兵を統率する役職にあった男が、政府首脳や軍部に批判的な人物の発言内容やそれに起因する攻撃材料を入手し、 それを政治的に活用したことは想像に難くない。 著しく灰色の手法で犬飼首相の政治基盤を堅固なものとし、その影響を背景に発言力を強めていった男は、 同時にこの時期、積極的な論述を各方面に展開している。 機関紙への投稿を始めとして、著書、講演など枚挙に暇がない。 本来、秘密裏の任務に従事すべき憲兵の責任者が大々的に思想信条を公言するのは極めて異例である。 だがその破天荒が血気盛んな多くの若手将兵の尊崇を集め、より発言力を強める結果となった。 犬飼首相を積極的に支持し、公然とその恩恵を受けながら思想面で軍部の旗振り役となった男は、 崇拝者を三軍に増やしていく。 その先鋭な主張や放言をよしとしない人物も櫛の歯が抜けるように失脚し、彼が遂に将官にまで登り詰めたのは、 実に二年前のことである。 *** 「―――だが、だがな、坂神」 光岡が、笑む。 「誰も知らなかったのだ。男の心根の底に何が棲むのか。男が何を思い、何を支えに登り詰めたのか。 首相の懐刀と呼ばれ、軍における絶大な発言力を持つに至った男が、一体、何者であるのか」 牙を剥くように。 炎に巻かれ天を仰ぐように。 光岡悟が、世界を満たす青の中で、哄っている。 「そうだ、そうだ、男はな、坂神。忘れてはいなかったのだ、友の死を。 友を死に追いやった者たちのことを。友を死に追いやった國のことを。 泥を啜り、石を噛んで雌伏したのだ。友の仇に尻尾を振って、犬と呼ばれるまでに」 その瞳には、信仰と呼ばれる光が、宿っていた。 「男は待ち続けた。國を変えるその日を。友の無念を晴らし、仇を討つその時を。 力を蓄え、同志を募り、ひたすらに待ち続けたのだ。分かるか坂神? その執念が、その怨念が、その想念が、終に実る日が来たのだ。それが今日、この時だ!」 熱に浮かされたように、大仰な身振りで。 「そうだ、坂神。これは維新だ。腐り果てた大樹を立て直す、憂國の決起だ。 そして同時に、これは物語でもある。これはかつて何もかもを奪われた男の物語だ。 己が総てであった友を奪われた男の、仇討ちの物語だ」 聞け、坂神蝉丸―――と、声が響き。 「この國で行われた最初のプログラムを半ばまで制しながら凶弾に斃れた青年の名を、千堂和樹。 その友であり、第一回バトル・ロワイアル優勝者である男の名を―――九品仏大志という」 光岡悟の告げる、それは過去という真実であった。 「これが我等の義だ。そして閣下の仁だ。貴様の求めるものだ、坂神。 武勇に非ず、智謀に非ず、我等が信ずるは閣下の在り様、魂の高潔よ。 己が信を全うし友の無念を晴らすのみならず、國を憂いて変えようと起つ男の器に、我等は意気を感じたのだ。 その背を見て歩もうと、その道を切り開こうと共に起ち上がったのだ。 閣下は既に先を見据え、諸国との講和を模索して動いておられる。 これまでのような仮初めの休戦期ではない。真の終戦が来るのだ、この國に。 半世紀以上を経て終に至るのだ、我等が待ち望んだ、争いのない時代に!」 狂信の瞳と、熱っぽい口調と、大仰な身振りと。 その全部を込めて、光岡悟が語りを終える。 最後に、そっと。真っ直ぐに蝉丸の目を見据えて、告げた。 「かつて人であった男はその怨を以て鬼と成り、そして今、國を憂いて刃と成った。 勇と謀と、仁と義とが我等には在る。今こそその身を焔と成して、我等が愛する國を変える時だ。 ―――共に往こう、坂神蝉丸」 *** 差し出された手を、じっと見つめる。 見つめて、思う。 この手は友の手だ。 気心の知れた手だ。 共に汗を流し、木剣を握って肉刺を潰した手だ。 そして同時に、思う。 この手は時代の手だ。 新たな時代の差し伸べる手だ。 見知らぬ街並みと穏やかな食卓と、平和という言葉の意味へと続く手だ。 その街並みには青い空と白い家と子供の声があり、灰色の煙の燻る焼け跡はない。 その食卓には笑顔があり、笑顔だけがあり、悲憤に暮れる顔は、どこにもない。 平和という言葉の中に、戦はない。あっては、いけない。 じくり、と。 傷が疼いた。 身体の傷ではない。 それは、坂神蝉丸という男の奥底、暗く澱んだ淵の向こう側にできた、小さな傷である。 じくりと傷が疼くたび、その小さな、しかし深い傷から膿が染み出してくる。 嫌な臭いのする毒々しい色をした膿は、じくじくと染み出して蝉丸の中に小さな棘を撒き散らす。 撒き散らされた棘につけられた傷から新たな膿が染み出して、拭っても拭っても染み出して、疼くのだ。 焼け跡から立ち昇る煙のない、広く青い空を思うとき、傷は疼く。 崩れた壁も割れた窓もない、塗りたての白い家を思うとき、傷は疼く。 笑顔の囲む食卓に乗った秋刀魚の塩焼きと筑前煮の匂いを思うとき、傷は疼く。 悲嘆が落胆が焦燥が諦念が絶望が、昨日まで誰もが抱いていた筈の諸々がどこにもない国を思うとき、 平和という言葉を、平穏という言葉を思うとき、坂神蝉丸は己が奥底で膿み果てた傷が度し難く疼くのを、感じていた。 そういうものを守りたいと、思っていた。 そういうものを掴みたいと、戦ってきた。 そういうものを築くための、力を求めた。 だが、ならば何故、手を取らぬ。 差し出された手を見つめながら、蝉丸は逡巡する。 傷の疼くに任せて目を閉じる。 瞼の裏に浮かぶのは、笑顔に満ちた街並みではない。 それは、砂塵の吹き荒ぶ平野であり、土嚢の裏に深く掘られた暗く湿った塹壕であり、熱病を運ぶ蚊の跋扈する密林である。 何日も前に声の嗄れ果てたひりつく喉と、鼻の曲がるような垢と汚物の臭いと、蚤に食われて掻き溢した脚の痒みと、 ばさばさと乾いた塩の味しかしない糧食と、時折響く銃声と、ぎょろぎょろとそれだけが光る同輩たちの充血した目と、 死にかけた兵のぞんざいに巻かれた包帯の隙間から漏れるけくけくという咳と、そういうものたちである。 守るべき何物でもなく、掴むべき何物でもなく、築くべき何物でもない、それはただ、そういうものたちであった。 そういうものに囲まれて、いつまでも収まらぬ荒い呼吸がごうごうと耳の中に谺するのを思い描いて、 蝉丸はひどく安らかな気持ちに包まれるのを感じる。いつしか、傷の疼きも消えていた。 思う。 その中には、己がいると。 荒野に立つ坂神蝉丸がいる。塹壕に伏せる坂神蝉丸がいる。密林を切り開く坂神蝉丸が、そこにいる。 それは心安らぐ地獄、心地よい悪夢、穏やかな泥濘だった。 思う。 傷の疼く光景の中には、坂神蝉丸がいないと。 平穏の中に、笑顔の満ちる街並みの中に、暖かい食卓を囲む中に、坂神蝉丸は存在していないのだと。 故に傷が疼くのだと。故に膿が染み出すのだと。 真新しい街並みの、明るく色鮮やかな家々のどこにも、坂神蝉丸はいない。いられない。 そこに地獄はなく、そこに悪夢はなく、そこに泥濘はなく、故に坂神蝉丸の居場所は、そこにはない。 帰る街はなく。 いるべき場所はなく。 故に、その穏やかな日差しの下へと続く手を、差し出された時代からの手を取れず―――、 そうして、そのすべてが欺瞞だと、分かっていた。 欺瞞だった。 それは、傷から染み出したじくじくと嫌な臭いのする膿が見せた、舌触りのいい嘘だと、理解していた。 帰るべき場所など、いくらでもあった。 存在が赦されないことなど、ありはしなかった。 新しい時代が、平和という言葉が蝉丸を受け容れぬのではない。 受け容れぬのは、蝉丸の方だった。 ぬるま湯が嫌だった。穏やかな食卓が嫌だった。笑顔に満ちる街並みなど、反吐が出そうだった。 ただ、坂神蝉丸という一人の病んだ男が、平穏という凪を忌避している、それだけのことだった。 何かを守るための力。 何かを掴むための力。 何かを築くための力。 そういうものだったはずの力は、いつしかその性質を変えている。 地獄を往く内、悪夢を彷徨う内、泥濘を這いずる内に、力はいつしか、坂神蝉丸という存在と同義となっていた。 坂神蝉丸の生は、力を振るい戦を切り開く生であり、それ以外の何物でもない。 蝉丸自身の抱く、それは実感であった。 同時にそれは恐怖である。 そこに義はない。 そこに仁はない。 それは単に、度し難い破壊衝動でしかない。 そんなものに衝き動かされる己が未熟を、そんなものの見せる嘘に縋りたくなる己が惰弱を、蝉丸は恐れていた。 恐怖が脆弱を産み、脆弱が欺瞞を求め、欺瞞が恐怖を作り、坂神蝉丸は、嘘の螺旋の中に居る。 麻薬のような抗い難さをもって、いくさ場が蝉丸を呼ぶ声が聞こえる。 甘露の如き芳香を放って、泥濘が蝉丸を手招きしている。 同胞のぎらつく飢えた瞳が、蝉丸の助けを求めてこちらを見ている。 そこにはない、今は遠い、乾いた埃交じりの空気を吸い込む。 そこにはない、今は遠い、湿った泥の臭いのする空気を、胸一杯に吸い込む。 その全部をいとおしむように一瞬だけ息を止め、ゆっくりと吐き出して。 静かに目を開けた坂神蝉丸が―――差し出された手を、取った。 瞬間、砕けていく。 砂塵の荒野が、泥濘の密林が、薄暗い塹壕が砕けて散って、舞い飛んでいく。 惰弱の見せた白昼夢が、握った手の温もりに融けて、消えていく。 「―――ああ。往こう、友よ」 言葉に迷いはなく。 握る手に震えはない。 坂神蝉丸の選んだ、それは己が惰弱との訣別の、第一歩であった。 新たな時代を迎える恐怖に、傷が疼く。 疼く痛みに引き裂かれそうで、しかし蝉丸は膝を屈しない。 それこそが己との、己を侵す力との戦いであると、心得ていた。 「―――」 血を吐くように息をついた、その見上げる青の彼方に、光があった。 【時間:???】 【場所:???】 坂神蝉丸 【所持品:刀(銘・鳳凰)】 【状態:背部貫通創(軽傷・仙命樹により急速治癒中)】 光岡悟 【所持品:刀(銘・麟)】 【状態:軽傷】 砧夕霧中枢 【状態:意識不明】 - BACK