青(3) 志士、意気に通ず






「……神、坂神!」

耳朶を震わせる声に、我に返る。
ゆっくりと辺りを見回した坂神蝉丸の目に映るのは、青の一色に包まれた空間である。

「聞いているのか、坂神」
「……あ、ああ」

こめかみの辺りを押さえながらぼんやりと答える蝉丸に、光岡悟の鋭い視線が飛ぶ。

「貴様……何を呆けている?」
「済まん。……しかし、今の声は……」
「声? 何の話だ」

怪訝そうな顔をする光岡に、蝉丸は眉を顰める。
あれほどに響き渡った声が、聞こえていないという。
自身にのみ聞こえた声、それは切々たる渇望。
幾千、幾万に分かたれた身体と魂の狭間で震える、それは悲鳴だった。

「……」
「その娘の聲でも聞いたか、坂神」

腕に抱いた小さな肢体に目を落とした蝉丸に、光岡が嘆息する。

「夢想も大概にしろ、坂神。貴様は現状を理解しているのか」
「……」
「……変わらんな、貴様は。そうして己が仁と國の大計を秤に掛ける」

吐き棄てるように呟いた光岡が、瞳を細めて蝉丸を見据える。

「これだけは言っておく。貴様の仁は誰を救った例もない。
 貴様の手前勝手な情は、それを向けられた者を追い立てる。
 追い立てられた者は己が分を弁えず駆け……いずれ身を滅ぼす」

訥々と、独り語りの如くに紡がれる言葉は、どこまでも昏い。

「これまでもそうだった。幾人もが貴様に、貴様の在り様に惑わされて死んでいった。
 まだ立てると。まだ戦えると。まだ希望はあるのだと思い違えて命を散らした。
 貴様は強く在りすぎるのだ、坂神。だがそれは危うい煌きだ。刃を持たぬ者の目を眩まし、殺す光だ。
 貴様は為せると言う。何事も為せると。だが貴様は考えぬ。強く在れぬ者たちを。その弱さを。
 為せぬのだ、弱者には。貴様の放つ煌きの何一つとして為せぬ。貴様の見せる夢の一つとて手に取れぬ。
 貴様は己が仁のままに駆ける。後に続いて駆け出した者たちを振り向かぬままにだ。
 力を弁えず後に引けぬ場へと踏み出した弱き者たちを、その身の破滅を貴様は目に映さぬ。
 己が後ろで人の死ぬとき、貴様は既に眼前の新たな誰かに情を向け、振り向こうとせぬのだ。
 ああ、貴様の仁は人を救わぬ。人を殺す仁だ、坂神」

口の端を上げて笑む光岡の瞳には小さな炎が宿っている。
ちろちろと揺らめくそれは、燃え移る何かを探すように舌を伸ばしていた。

「―――戦争は」

青の世界に、光岡の言葉が染み渡る。

「戦争は続いているのだ、坂神」
「そんなことは……」
「分かっている、か? 本当に分かっているのか。分かっていて軍を抜けたのか坂神。
 ならば俺は俺の言葉を訂正しよう、貴様の仁は人を殺すだけではない。貴様は國を殺す。
 その覚悟があって口にするのか。分かっていると、戦争は続いていると口にするのか坂神」

常になく饒舌な光岡に気圧され、蝉丸はただ口を噤む。

「五年以上も続いた今の休戦期も、最早限界に達しているのは知っているな。
 大陸では協定線を挟んだ睨み合いへ増派に次ぐ増派が繰り返され、協定破棄に備えた布陣が互いに完成しつつある。
 我が國の新型艦の就航を控えた今、何らかの口実で越境が開始されるのは時間の問題だ。
 ならば、何故この時期に改正バトル・ロワイアルなどという厚労省主導の酔狂が罷り通ったと思っている?」
「……それは」
「内務省肝いりの、固有種因子陽性保持者の選別とその殲滅?
 皇居に巣食う奸賊共のご機嫌取りに、海軍が情勢を度外視して十五隻もの艦隊を寄越すと?」

忠孝を旨とする光岡らしからぬ物言い。
眉根を寄せた蝉丸に、光岡が白い歯を見せる。

「ん? ……ああ、驚くには値せん。奸賊を奸賊と評した、それだけのことだ。
 坂神、この國という大樹には巣食う蟲が多すぎると思わんか。
 必要なのだ、腐った枝葉を切り落とす鋏が。蟲共を焼く炎が。歪んだ幹を支える添え木が」
「光岡、貴様……いったい、何を」
「―――固有種の殲滅など、目晦ましに過ぎん」

疑念を断ち切るかのように、唐突に話題を戻す。
渋面を作る蝉丸を無視して、光岡の言葉は続いていく。

「このバトル・ロワイアル―――真の目論見は、固有種因子覚醒者……その骸の回収だ」
「……!?」
「我が國の覆製身培養技術は世界に先駆け、既に完成を見ている」

飛躍する話の展開についていけぬまま、蝉丸が少女を抱く腕にほんの僅か、力を込める。
覆製身という存在の意味は、思い知っていた。

「母胎より産み落とされぬ異形……覆製身はそれでも本来、赤子として誕生し、人と同じように育つものだ。
 しかし我が國の覆製身培養は、その時間を必要としないまでに革新を遂げた。
 今や、ものの半年を待たずに成人と遜色ないところまで成熟させることが可能だ」
「だが、それは……」
「ああ、長くは保たん。急速な成長は急速な老化を伴う」

精々が一年、長くても数年。
それが培養覆製身の寿命というのが、蝉丸の知る常識である。

「それでは戦線の維持も難しい、その点が覆製身兵の限界だった。
 だが、ここに来てようやく先進研究の成果が出た。新たな技術が確立されつつあるのだ。
 それが、固有種因子覚醒者の覆製身生成。そして―――」

光岡が、蝉丸の腕に眠る少女を、そして蝉丸自身を、じっと見据える。
ほんの僅かの間を置いて、

「覆製身固有種の、強化兵生成だ」

言葉が、紡がれた。
向かい合う蝉丸の渋面に変化はない。
刻まれた皺だけが、微かに深くなる。

「貴様や俺……仙命樹を移植した各種の試挑躰。その実験結果を集積し、技研の白衣共は一つの結論を得た。
 培養覆製身の極端に短い寿命は、仙命樹による再生効能で補完が可能だと。
 そしてそれは、固有種覚醒者の覆製身に対しても有効だ、と。
 革命的な成果だと、連中は躍り上がっただろうな。
 固有種の覆製身による強化兵団……完成すれば、大陸諸国との力関係は一変する。
 膨大な予算を投入して実験は続けられ、遂に研究は強化固有種兵団の試験運用へと至った。
 それが―――」

光岡の視線が、蝉丸の腕の中に眠る少女を射抜く。

「……砧夕霧、というわけか」
「そうだ。光学戰完成躰、培養覆製身兵団。三万の末端兵を、中枢体を経由した意識共有で有機的に運用する人形の軍隊。
 我ら試挑躰に代わる、次世代の兵器だ」
「だが、それとて……」
「ああ。甚大な損害を被っているな、たかが十数の敵を相手に」

疑念を呈する蝉丸に、当然といった体で光岡が頷いた。

「だからこそ、だ。だからこそ必要としたのだ、より強力な素体を。
 より強く、より早く、より大きな力を持つ固有種覚醒体を選別し、その因子を回収する。
 それこそが、この改正バトル・ロワイアルの真の目論見。
 長瀬源五郎……そして、その背後にいる犬飼俊伐の推し進める軍制改革の第一歩なのだ、坂神」
「犬飼……だと?」
「長瀬の如き一介の研究屋風情が、後ろ盾も無く軍を顎で使えるか。
 内閣総理大臣、三軍統帥・犬飼俊伐こそがこの大仰な茶番劇の黒幕よ」

事も無げに言い放った、それは蝉丸の認識を大きく逸脱した事実であった。
幾多の修羅場を越えようと、坂神蝉丸は叩き上げの下士官に過ぎぬ。
叙勲の場を除けば、連隊長とすら言葉を交わしたことがない。
尻に殻の着いた新米尉官の出世していく背中は見ても、その階段の上など思考の埒外であった。
己が義の揺らぐに任せて軍務に背いたのも、いくさ場を知らぬ上層部との乖離を感じたが故である。
空転する蝉丸の思考を無視するように光岡の言葉は続く。

「……だが、中心となって研究を主導していた長瀬源五郎が叛逆の徒として化け物と成り果てた今、
 最早その目論見も潰えた。強化兵団計画は近日中に凍結されることになる。
 判るか、坂神。この茶番劇は既にその役割を終えているのだ。貴様も―――」
「待て、光岡」

尚も続けようとする光岡を、蝉丸の声が遮った。

「仮に貴様の言うことが真実だとして……それでは長瀬は尖兵に過ぎんのだろう。
 奴が斃れたところで、犬飼が政治を動かす限りその計画とやらは進められるのではないか」
「……其処よ、坂神」

蝉丸の指摘に、しかし光岡は我が意を得たりとばかりに笑みを深める。

「正に其処が肝要なのだ。貴様の言う通り、犬飼こそが計画の黒幕。戦を捻じ曲げ、この國を傾ける元凶よ。
 なればこそ、我等は―――決起する」
「……!?」

決起。
軍に身を置く者がその一語を発する、そこに篭められた意味を汲み取って、蝉丸は戦慄する。

「待て光岡、貴様一体……!」
「九品仏少将閣下の下に集う憂國の士、三軍将校に二百余名。麾下兵力は全軍を掌握するに足る。
 決起は本日午前十時。帝都の制圧目標は市ヶ谷、立川、霞ヶ関、愛宕山―――そして、永田町」

挙げられた地名は軍の中枢が置かれた場所。
そして同時に、国家の要と呼べる施設を示していた。

「政変……だと……!?」
「言葉が悪いな、坂神。これは維新だ」

さしもの蝉丸も、告げられた状況の重大さに言葉を詰まらせる。
対して意に介した風もなく返してみせる光岡。
その態度は相当の以前から事に臨む覚悟と準備を固めていることを窺わせた。

「肥大した戦線を放置し国力の疲弊を招きながら無策のまま五年の休戦を経て尚その責を負わず、
 あまつさえ覆製身強化兵団などと先達の英霊を愚弄する目論見を進める奸賊犬飼に天誅を下す。
 陛下の聖旨を捻じ曲げる腐った枝葉を切り落とし、國という大樹を蘇らせる。
 それこそが九品仏閣下の御意志であり―――我等将兵の採るべき道なのだ、坂神」

切々と語る光岡の視線は、どこか熱に浮かされたように危うい。

「正気か、光岡……そのような計画、成功するとでも……!」
「―――俺が、この島へと向かう直前のことだ」

覆い被せるように、光岡の声が蝉丸を遮る。

「一報、奸賊誅殺セシム。そう……犬飼俊伐は既に黄泉路へと旅立った。
 陛下の玉體も同志が警衛し奉っている。我等の決起は成功したのだ、坂神」
「……!」

首相の暗殺。
五期十六年もの間、国家の中枢に座り続けた男が凶弾に斃れたという。
それは取りも直さず、未曾有の大混乱を意味する。
最早計画の成否と関わりなく、周辺諸国を巻き込んだ騒乱の火蓋が切って落とされたということだった。

「政府の転覆など……貴様等、国を二つに割る気か……?
 開戦を前にしたこの大事に、そうまでして逆賊の汚名を被りたいか……!」
「……言った筈だ、坂神」

搾り出すような蝉丸の言葉にも、光岡は表情を変えない。
悲壮はなく、混沌はなく、ただ静かな覚悟と余裕だけがある。

「陛下は我等の同志が警衛し奉っている、と」
「……ッ!?」
「間も無く詔勅が下されるだろう。……國賊犬飼に与する者は将校から下士官、一兵卒に至るまでが
 陛下の御名に於いて討伐されるべし、とな。そしてその軍令は、九品仏少将閣下に宛てられる」

文字通りの、錦の御旗。
神聖にして不可侵なる、この国の義の象徴。
陸海空を問わぬ、全軍の絶対的な行動原理。
その掌握が、完了しているということ。

「陛下を……陛下の御意を何と心得ている……!」
「先帝崩御の折、女帝の古今に例ありと横車を押したのは犬飼とその腰巾着の内大臣よ。
 まだ幼くあられる陛下に摂政を僭称し、聖旨を曲げて政を恣にした奸賊より御護り奉る。
 それが閣下の御意志であり、我等が決起の血盟でもある」
「……虚言を弄するな、貴様等のしていることは犬飼と変わらん!」

皇という象徴。
その詔を得た者が官軍であり、得ぬ者は逆賊となる。
百年も昔に国を分けた維新と何一つ変わらぬ、それは構図であった。
そこに在るのは玉體という神宝であり、皇という人では決してない。
幼くして即位した今上の皇の、まだあどけない面立ちを蝉丸は思う。
年賀の儀に際して玉音を賜る、たどたどしい童女の声を蝉丸は思う。
色々なものが、ぐるぐると巡っている。
死んでいった幾多の戦友。若い士官。故郷に妻子を残した兵卒。
屍を晒した数千の砧夕霧。久瀬少年。腕の中に眠る最後の少女。
ぐるぐると、廻る。
銃後の要職にありながら我を貫いた来栖川綾香。長瀬源五郎。
得度を重ねた僧の如き貌で切々と身勝手な理を説く光岡悟。
泥と、埃と、蚤と虱と灰と血と膿とだけが溢れたいくさ場。
ぐるぐると、ぐるぐると廻った末に、

「貴様等の義は……全体、何処に在る……!」

それだけを、坂神蝉丸は呟いた。

「……國を殺す仁が、義を問うか。坂神」

返す言葉は、抜き身の刃。
人の命を削るが如き鋭利を持った、声音であった。

「ならば……ならば貴様好みの義を示そう、坂神蝉丸。
 理を説いて解さぬ、貴様の頑迷に」
「……」
「これは一人の男の物語だ。かつて何もかもを喪った、少年の物語だ。
 何不自由なく傲岸不遜に生きていた少年が、すべてを奪われる物語だ」

そうして光岡悟が、語りだす。




【時間:???】
【場所:???】

坂神蝉丸
 【所持品:刀(銘・鳳凰)】
 【状態:背部貫通創(軽傷・仙命樹により急速治癒中)】
光岡悟
 【所持品:刀(銘・麟)】
 【状態:軽傷】
砧夕霧中枢
 【状態:意識不明】
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