青(1) ずっとふたりで/私、貴女、それ以外






青。
青の中にいる。

天沢郁未が認識したのは、まずそのことである。
ぼんやりとした頭で考える。
巨像はどこにいったのか。
戦いはどうなったのか。
考えて、その結末が思い出せず、しばらくしてそれも当然と思い直す。

「……どこよ、ここ」

辺りを見回す。
まるで網膜に青色のフィルターが貼られてでもいるかのような、奇妙な感覚。
そこは明らかに、つい今しがたまで立っていた神塚山の山頂ではなかった。
見上げても空はなく、無論のこと日輪もそこにない。
どこまでも広がる、透き通った青色の大気に包まれたような、不思議な場所だった。
郁未の思考がはっきりとしてくるに連れて、徐々に記憶が蘇ってくる。

異変が起こったのは双剣使いの像との戦いの最中だった。
変幻自在に襲い来る二刀をどうにか捌き、活路を見出そうと激闘を繰り広げていた郁未の視界が、唐突に塗り潰された。
世界を、青い光が包み込んだ。
咄嗟に認識したのは、その一事である。
青の一色に、巨像も、山肌も、空も海も郁未自身も、あらゆるものが飲み込まれ、塗り潰され。
そして、記憶はそこで途切れていた。
と、

『お目覚めですか』
「……葉子さん?」

郁未の耳朶を打ったのは、馴染みの声。
安堵を感じて振り返ればそこにいたのは果たして鹿沼葉子である。
空とも海ともつかぬ青一色の世界を背景にしてもまるで変わらない仏頂面に苦笑しかけた郁未が、
ふとその足元に目をやった瞬間、思わず呟きを漏らす。

「……なんで浮いてんの、葉子さん」

その膝下まで伸びる長いスカートの下、革靴を履いたその足は郁未の眼前、どこにも着いていない。
激戦を物語るように全身を返り血に染め、ふわふわと宙に漂うようなその姿は妖精か幽霊か、
いずれ彼岸の存在を思い起こさせる。

「……自縛霊?」
『ここが地獄でなければ違います』

冷静に否定する声音には揺らぎがない。
言葉を失った郁未を見下ろすように浮き上がった葉子が、言葉を継ぐ。

『これも不可視の力……といいたいところですが、それも違うようです。
 ところで一つ伺いますが郁未さん、あなたはどこに立っているのですか?』
「どこ、ってそりゃあ……え? ……あ、……え? わ……私まで浮いてる!?」
『……気付いていただけたようで何よりです』

呆れたような葉子の表情など、郁未は既に見ていない。

「ちょ、わ、何これ溺れる!?」
『溺れません。ずっと息をしているでしょう』

言われてみれば、と郁未は手足を振り回すのをやめて深呼吸。
問題なく肺が空気を取り込み、排出する。
一つ、二つと繰り返す内、郁未が次第に落ち着きを取り戻していく。

「うーん……慣れてみればまあ、どうってこともないのね。……で、ここはどこで戦いはどうなったの?」
『その前にもう一つ、気付いていますか?』
「……何のこと?」

きょとんとした表情を浮かべる郁未の眼前、ふわふわと漂う葉子が唇に指を当ててみせる。

『私、先程からずっと声を出していません』

郁未に聞こえたその声は確かに鹿沼葉子のもので、しかしその言葉通り、葉子の口は動いていない。
それはつまり、と少し考えて、

『……こんな感じ?』
『郁未さんにしては飲み込みが早いですね』
『……』
『ええ、伝えようと思うだけで、相手に考えが伝わる……ここはそんなところのようです』
『気味の悪い場所だこと』
『……便利だとは言わないのですね』
『何が便利? 面倒が増えるだけでしょ』
『かもしれません』

漂いながら器用に肩をすくめてみせる葉子。

『で、先程の問いに答えますが……ここがどこかは判りません。戦いの行方も』
『珍しい、葉子さんにも判らないことがあるんだ』
『無知の知という言葉をご存知ですか?』
『馬鹿にされてることだけは分かるよ』
『素晴らしい』
『……』

実のない会話を打ち切って辺りを見回した郁未が、何かを見つけて指をさす。

『あれ、何だろ?』

指し示したのは、透き通る青の広がる世界、その水中とも空中とも判然としない中に浮いた、小さな球である。
全体には丸い形をした、人の頭ほどもあるそれは時折ぶよぶよと歪みながら、幾つも辺りを漂っている。

『泡? 突っついたらどうなるんだろ』
『……やめておいた方が、』

葉子が止める間もなく、郁未が手を伸ばす。
その指が触れた瞬間、泡が弾けた。


 ―――國體を護持し奉る為、此の身命が一片に至る迄、忠と成し義と成さん事を誓約す。


弾けた泡から声がした。
弾けた泡から色が零れ、弾けた泡から音がして、弾けた泡から溢れた世界が一瞬の内に、郁未を飲み込んでいた。


******


『―――人を棄てるのではない』
『どう違う!』

男の声が、狭く雑然とした部屋を震わせる。
重く響いた声音は怒りに近い感情を乗せていた。

『我等は蛮戎夷狄を討ち払う國の礎、挺身忠孝の魁となるのだ、坂神』
『そういう話ではない!』

男は二人、他に人影はない。
坂神と呼ばれた男が、扉に背を預けるようにして立っている長髪の男に何か詰問しているようだった。

『他に何が必要なのだ。國の為に死ねと命ぜられれば死ぬのが兵だろう』
『しかし……!』
『この期に及んで臆したか、坂神』
『そうではない、そうではないが光岡……貴様とて思わんか』

取り付く島もないといった様子の長髪の男に、坂神と呼ばれた男が口調を変える。

『あの男……犬飼が政治を牛耳るようになってからの軍は……いや我が國は、どこかがおかしい。
 何か取り返しのつかない方向へと走り出しているようにすら思えるのだ、俺には』
『……滅多なことを言うな、坂神。奴はあれで九品仏閣下の後ろ盾だ』
『またその名か……』

坂神が嘆息交じりに目を伏せる。

『九品仏という男、シンパは多いが……要は憲兵の元締めだろう。佐官に閣下もあるまい』
『貴様……もう一度言ってみろ!』
『何度でも言う。あの男に会ってからの貴様は何かに憑かれたようだ―――』


***


大きな泡が弾けて消えた。
押されるように、小さな泡が幾つも弾ける。


***


『―――坂神、貴様も来ないか』
『いや、俺は遠慮しておこう。まだ稽古の途中でな』
『そうか……だがいずれ時間を作れ。閣下のお考えを聞けば貴様にも分かる―――』


***


『……奴も変わったな』
『ケケ、お上品なインテリ連中の考えることなんざ放っとけ、坂神。
 それよか、たまには置屋に付き合えや。女郎共が煩くってかなわねえ。
 あのお連れの方はいらっしゃらないの、次はいつお見えになるの……とまあ、こうよ』
『御堂……貴様、掟を何だと思っているのだ』
『いいじゃあねえか、いくら色町で種を撒こうが孕むわけでもあるめえ』
『―――ほう貴様、まだ悪い癖が治らんと見えるな』
『おお岩切、戻っていたのか。そうだ、貴様からも言ってやれ』
『ゲェェーック、怖えのが来やがった……くわばらくわばら、っとくらあ』


***


『―――なあ、御堂。俺はたまに、思うのだ』
『あァ?』
『こんな、泥沼を這いずるような戦いが―――いつまでも続けばいい、と』
『……ケケ。手前ェも大概、病んでらぁな』


******


最後の泡が弾けて消える。
色が失せ、音が消え、世界が融けてなくなって、静寂に満ちた青だけが残った。

『今の、って……?』

きょろきょろと辺りを見回すようにしているのは天沢郁未である。
頭痛に耐えるようにこめかみを押さえた鹿沼葉子が、それに答える。

『過去の記憶……MINMESのようなものでしょう。こちらは強制的に公開される機能付のようですが』
『悪趣味だね。……まあ、ELPODじゃなかっただけマシだけど』
『まったくです。風体からしておそらく、あの怪物と交戦していた男たちのものでしょうね』
『……あんなんだっけ? 髪の長いのがいたのは覚えてるけど』

首を捻った勢いでトンボを切るように回転した郁未に、葉子がこれ見よがしのため息をついてみせる。

『本当に、周りを見るということをしない人ですね……』
『そういうのは葉子さんの担当』

けろりと言ってのける郁未。

『けどさ、犬飼って……ずっと前から総理大臣だよね』
『就任は十六年前ですね。今は第五次内閣です』
『言うほどこの国、おかしくしたっけ?』
『一般的には現在及び前回の休戦期を主導した人物として知られていますが』
『じゃ、いいじゃん』
『軍部には軍部の言い分もあるのでしょう。昨今は縮小傾向のようですし』
『そんなもん?』
『そういうものです。ちなみに話に出てきた九品仏とは陸軍の九品仏少将でしょう』
『誰、それ』
『知りませんか? 若くして将官にまで登り詰めた気鋭の軍人にして犬飼首相の懐刀』
『全然』
『雑誌にもよく特集記事が組まれていますが』
『興味ないし。ていうか葉子さん、案外そういうの好きだよね』
『……』
『何で黙るかな』

ほんの僅か頬を染めた葉子の周りをくるりくるりと回っていた郁未が、
ふと何かに気づいたように動きを止める。

『ねえ、葉子さん』
『……』
『ねえってば。……あれ、何だろ』
『……また泡でも見つけましたか? 今度は不用意に突かないでくださいね』
『違うって』

つい、と指さす先。
目を向けた葉子が、微かに表情を変えた。

『何か……あれは、光っている……?』
『だよね、やっぱり』

どこまでも拡がる青のフィルターがかかったような空間の、果てしなく遠く離れた彼方。
針の先ほどに小さく見えるそこに、何かが瞬いている。
揺らめき、薄れ、時に煌くそれは夜空に輝く一番星のようにも、或いは今にも消えんとする灯火のようにも映る。

『……行ってみますか』
『他にアテもないしね』

踏みしめるべき地面はない。
しかし蹴るように足を動かせば、海にでも潜っているかの如く身体は前へと進む。

『……そういえば、葉子さん』
『何でしょう』

泳ぐように歩を進め始めた郁未が、肩越しにちらりと振り向いて問う。

『さっき、私のこと止めたよね? 泡、突こうとしたとき』
『……』
『私が起きる前に誰かの過去、見たんでしょ』
『ええ、まあ』

葉子の表情は変わらない。
空を蹴る足のリズムも変わらない。
ただ、ほんの少しだけ言葉を選ぶように目を細めて、口を開く。

『……人形も歌をうたう、……そんな、他愛もない夢でした』

それきり途絶えた背後の声にふぅんと気のない返事を返し、郁未が前へと向き直る。
その行く先では豆粒ほどだった光が、次第にその大きさを増しつつあった。




【時間:???】
【場所:???】

天沢郁未
 【所持品:薙刀】
 【状態:軽傷・不可視の力】
鹿沼葉子
 【所持品:鉈】
 【状態:健康・光学戰試挑躰・不可視の力】
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