もう嘘しか聞こえない






 無人の氷川村を、一目につかぬように、されど素早く駆けて行く男の姿があった。
 カッターにネクタイ、決して派手と言い難い髪型と黒縁の眼鏡という出で立ちはどこにでもいるサラリーマンという風貌である。
 だが近づいてみれば分かる、刃のように鋭く研ぎ澄まされた視線、僅かに覗く腕から見える筋肉のつき具合から考えればただの人物ではないだろうということが窺い知れる。何より、男の動きは機敏に過ぎていた。

 疲れなど微塵も感じさせず、ひたすらに隠密行動している男……柳川裕也には、人に見つかってはならない理由があった。
 赤く点滅している彼の首輪……それを起動させた彼女曰く、「24時間後に爆発する」という時限爆弾を背負わされつつも、柳川は初音の救助を諦めたわけではなかった。寧ろ、窮地に立たされた直後の今こそが彼女――宮沢有紀寧――を出し抜くチャンスだと柳川は考えていた。

 有紀寧の指示通り、殺し合いに向かったと思わせて有紀寧の後を追跡し、初音と合流したところを監視し、解毒剤、解除スイッチの両方を見せたところで突入、殺害して問題は解決する。
 解毒剤と解除スイッチ、両方ともを出してくる機会は必ずあると柳川は思っていた。確かにこの爆弾で自分も初音も拘束されたようなものだが、逆を言えば有紀寧もこの縛りを受けている。柳川が有紀寧に従属しているのは初音の命が手玉に取られているからであり、有紀寧にとってみれば初音が死んでしまえば命綱はあっさりと切れ、自分の首を絞める結果になるだけだ。

 つまり、柳川の死亡が確認できない限りは有紀寧は決して、初音を無為に殺すことは出来ない。自分の命を天秤にかければそのまま放置という選択肢は在り得ないのだ。ましてこれまで善人を装っていた有紀寧のこと、保身思考は人並み以上に高いに違いない。
 毒の方はともかくとして、首輪は再起動させられる恐れがあるが、それも解除できない道理もない。
 有紀寧の戦術は、戦力になると判断した人間の近しい人物の首輪を起動、解除、再起動させることで成立する。
 生殺しの状態であれど、殺されはしないのだ。

 付け入る隙はそこにある。
 上手い具合に初音だけに接触して、自然を装って有紀寧に解毒剤と首輪解除スイッチを持ってこさせるということだって不可能ではない。
 初音は所詮人質。弱者だと有紀寧は見下しているはずなのだから。
 敢えて逆らい、裏の裏をかく。
 この判断は間違っていないはずだと断じて、柳川は有紀寧の追跡を開始したはずだった。

 だが有紀寧も周到なもので、柳川が背を向けると同時に戻ってしまったのか姿を掴むことは出来ずじまいだった。
 診療所に戻ったのか、それとも別の場所を移動中なのか。
 だが移動し続けるということは在り得ない。それは即ち、解毒剤と解除スイッチの両方を持っていると証明しているに他ならないのだから。

 先の戦術を行使するならば、わざわざそれらを自分から遠ざける理由はないからだ。
 持って来る最中に人質と従属させた者と接触される恐れもあれば、持ってくる最中に襲撃される恐れもある。
 何より、自分にとっての命綱を目の届かないところに置いておくのは常に不安が付きまとう。
 ちょこちょこ場所は移動するにしても、絶対に自分の手の届かないところに解毒剤と解除スイッチを置いておくことはない。
 それはまた……宮沢有紀寧は、この氷川村から出られないということも指していた。

 首を絞められたのは、お互い様というところだな?

 冷笑を殺意に変え、だが楽観視できる状況でもないと気を引き締め、柳川は周りの動向を窺う。
 何はともあれまずは誰にも気付かれず有紀寧の監視を続けなければならない。
 このような作戦を立てていると、人づてでもバレてしまえば有紀寧は自分を殺しにかかってくるかもしれない。
 直接的ではないにしても、同じく首輪爆弾を点滅させられ、隷属させられた者を介して襲わせたり……
 極力人の手は借りたくない。作戦を遂行させる意味でも、巻き込みたくないという意味でも。

 ふと柳川は、この思いは他人を信用していないのか、それとも慮っているのか、どちらなのだろうかと思った。
 個人的にはどちらともとれる。邪魔だという思いもあれば、迷惑をかけたくはないという思いもある。
 他人との共同作戦など人付き合いが苦手だった自分がそんなこと出来るものかという己への嗤笑もあるし、もし失敗すれば申し訳がたたないという思いやりとさえ言える考えだって持っていた。

 変わりつつあるのだろうか。半ば孤独を生きてきた自分と、人と関わりあうのも悪くないという自分がせめぎ合っているのか。
 倉田佐祐理を通して、過去の中にしかなかった貴之だけから、美坂栞、リサ=ヴィクセン……そして血の繋がった同族とも言える初音。
 おじさんと言われたときの違和感。年不相応だと思いつつもどこかくすぐったい響きは、互いに頼りにし、一蓮托生の言葉さえ思わせた昔を思い出させていた。鬼であっても未来を信じ、人間らしくいられると信じていたあの頃を……

 有紀寧に殺人鬼と謗られ、激しく憤ったのもそのせいなのだろう。
 ここに来た頃の自分なら、無表情に言葉を受け流し、どのように場面を展開していくか機械的に考えていくだけだった。
 どうかしている、と思いつつもやはりそれも悪くないと思う。相反する思考がぐるぐると回っている。これが葛藤なのだろうかとも柳川は思った。
 人のために動く。誰かを助ける、助け合う。当たり前ながらもどうしてという問いが柳川に投げかけられている。

 柳川はしばらく逡巡し、やがて一つため息をついた。
 結局、自分のツケを自分で払いたいだけなのだと結論付けた柳川は、軽く苦笑した。
 家族のため、という言葉も付け加えてもいいかもしれない。
 人間らしく、家族のために……『ごっこ遊び』などではなく、本当に未来が築いていけると確信するためにこうしているのだ。

 そう、俺は殺人鬼なんかじゃない。
 人を思いやれる心も、慈しみ助け合う心だって俺は持ち合わせている。
 たとえそれが人より少なく、冷酷と揶揄される程度のものだったとしても。

 俺はこんなものも忘れていたんだという思いが過ぎり、思い出させる切欠となった人達の出会いをもう一度脳裏に反芻した。
 倉田、お前の仇は取る。初音を無事救出した暁には必ず……無念を晴らしてみせる。藤林椋を、必ず殺す。
 拳を堅く握り締めた視線の先には、氷川村の診療所、その裏手が見えていた。
 まずここに有紀寧と初音がいるか、ということだが……とにかく、様子を探るしかない。

 対人レーダーでもあれば話は別になるのだが、生憎と今の柳川の持ち物は弾切れのコルト・ディテクティブスペシャルと予備弾倉のないワルサーP5、そして支給品一式だ。とても何かを探れるとは思えない。
 戦力的にもワルサーP5だけ、しかも弾数から考えれば残弾が少ないということは明白。宮沢有紀寧が持っているであろう武器を奪えば少しは楽になるのではあろうが……だが、有紀寧一人だけを仕留めるのに銃はこれだけでもいい。
 刑事として、拳銃の発砲経験もある柳川と、いかに狡猾と言っても一介の女子高生に過ぎない有紀寧とでは実力差は歴然。
 だからこそ、自分を使って人を殺させようとしたのだろうが……

 足音を殺し、ゆっくりと、しかし確実に診療所に近づいていく柳川。最低でも12時間以内には初音と接触を果たしたい。もっとも、毒の進行状況を考えるとおたおたしていられないが。
 診療所の壁に張り付き、ちらりと窓を覗き見てみる。ここからでは様子を探るにも限度がある。
 だが中に侵入するのは気付かれる。ただでさえそんなに広くない診療所だ、気付かれでもしたら……

 焦ってはならない。一応、時間的猶予だけならば24時間ある。実際はそこまで長くは待てるはずもないが、先に動くのは愚の骨頂だ。
 捜査だって、辛抱強く待つ事が基本ではないか。
 逸る気持ちを深呼吸で落ち着け、冷静に思考を巡らせ、頭を冷却させる。力を抜き、リラックスして待つ。
 極度に緊張した肉体は少しの異変にも反応し、思ってもいない行動を起こしてしまいかねないからだ。特に、自分は。
 余裕を持て。勝つのは自分だ。そう言い聞かせ、鼻からゆっくり息を吐いて筋肉を弛緩させ、己の頭が冷えたことを確認する。

 取り合えずここに居続けるのも無意味だと判断した柳川は抜き足差し足で壁伝いに移動を開始する。
 無論、診療所の中だけでなく外側にも気を配りながら。
 気を揉みつつ近くにあったもう一つの窓へと張り付く。こちらは何を考えていたのか、窓が開け放しになっていて窓枠もひどく傷ついている。
 そもそも室内があれだけ荒らされていたことを考えれば自ずと想像はついたが、深くは考えなかった。

 こんなところに、本当に留まっているのか……?
 有紀寧の用意周到さを考えればこんな目立つ施設に留まろうとするのは愚考とし、早々に移動を開始していた可能性もある。
 もっと目立たない、どこか別の民家に。
 見切りをつけて、別の場所を探すべきなのか。それともまだ早計としてもう少し様子を探るか。
 こんな近くに留まらずとも、離れた場所から監視する手だってある。自分の推理が正しいのなら、どうせ有紀寧は氷川村からは出られないのだから。

 迷いを覚え始めたその時だった。壁の向こうから二つの足音が近寄ってきているのを柳川は察知した。
 まさか、という思いを抱きながらも神経は診療所の中へと向けられていた。
 こんなにも早く、機会が巡ってくるとは……

 まずは初音との接触を試みたい。もちろん有紀寧が出払ったのを確認してからでないと不可能だが、有紀寧だって四六時中初音を監視しているわけにもいくまい。外部からの介入を恐れているのは有紀寧だって同じなのだ。
 新たな隷属を見つける、解毒剤の隠し場所を変える。用意周到は、慎重さの裏返しということでもある。
 有紀寧だって安穏とばかりはしていられない。勝つためには手段を選ばない……だからこそ、その努力を怠ることもしない。

 そうだろう、宮沢有紀寧?
 勝負はここからだ。どちらがより我慢を続けられるか。先に動いた方が負けの持久戦――

「有紀寧お姉ちゃん、こっちこっち! いいもの見つけたんだよ」

 そんな気持ちを霧散させたのは、やけに楽しげな初音の声だった。まるで、有紀寧の何も知らないかのような。
 毒を飲まされたことも、首輪の爆弾を起動させられたことにも気付いていないのか?
 そんな馬鹿な、とすぐに自身の考えを否定する。毒の方は騙し騙し出来たとして、首輪は騙しようがない。不自然に点滅を始めて、何も思わないわけが……いや、そもそも毒にしたって飲まされてこんな元気でいられるはずが……

 ブラフか、そんな考えも浮かび上がる。柳川自身何も確かめていない以上、その可能性も十分考えられた。有紀寧の自信ありげな態度と、初音のお人好しぶりからそう判断したに過ぎなかっただけなのだから。
 だとするなら、ほとんどの問題は解決する。残る自身の首輪をどうにかしさえすれば、後は何も恐れることはない。

 ……しかし、あの狡猾な有紀寧がブラフだけに頼るなどということが本当に在り得るのか。
 そもそも、どうして初音を何も知らないままにしておく必要性がある? 初音に自分の正体をバラしたくないためか?
 いやそんなことは何のメリットにもならない。自分の考えた策を、毒はハッタリだとしても爆弾だけでも十分脅威になる。
 首輪に何の問題もなく放置しておくなど、命綱で自分の首を締めているだけだというのに?
 何かあるのか。もっと他に致命的な問題か、使う必要のない何かがあるというのか。

「待ってくださいよ。こっちだって情報の収集で忙しいんですから……」

 柳川の思考を他所に、随分とのんびりした有紀寧の声が通り過ぎる。初音に対して何の危機も抱いていないような、むしろ仲間だとさえ思っているような……自分と会話していたときよりも……
 演技だ。迷いを断定で打ち消し、先の有紀寧との会話を思い出す。人を見下すような、侮蔑するような声色。
 あれこそが有紀寧の本性で、初音に見せているのは偽りの姿。
 騙されるか。これ以上、俺は何も失うわけにはいかないのだから。

 だが柳川のそんな苦悩を知りもしない二人は、さらに会話を続ける。まるで他に物音がしないので、明瞭に聞き取ることが出来るのがせめてもの幸いだった。己の胸の内に、不吉な予感が漂ってゆくのを感じながらも、柳川は聞き続ける。

「で、どうなの? 有紀寧お姉ちゃん」
「……ええ、上々ですね。再確認してみましたが、残り人数は30人ほどです。まだ散発的に戦闘が起こっていることを考えれば、わたし達にも十分勝機はあります。問題は、いささか武装が貧弱なくらいなことですが……」
「だから、ひょっとしたらそれが解決できるかもしれないって言ったんだよ?」
「そうでしたね。……で、そのいいものとは?」

 ……どういうことだ。この会話に、初音は何も疑問を持たないのか?
 残り30人。勝機。武装。とても殺し合いを否定しているものとは思えない言葉の節々を、初音は何の違和感もなく受け止めている。
 いくらお人好しの初音でも、殺人に対する感度は人より遥かに敏感なはずなのに。
 初音の態度から、ある仮説が柳川の頭に浮かぶが、そんなことは在り得ないと即座に否定する。……いや、否定しなければならなかった。
 柏木耕一をして天使だと評した彼女。柏木の家族の中でも、一際優しいと言われる彼女が、そんなはずは……

 己の耳を疑いたくなるような言葉の数々だったが、声はれっきとした初音のものであると分かる。分かってしまう。
 悲しいくらいに、ここは静かでよく聞こえてしまうのだ。

「これ。ベッドに下にあったんだけど……まだ開けてないっぽいね」
「……確かに、わたし達が持ってるデイパックと同じですね。忘れ物……でしょうか?」
「かもね。ここ、すっごく酷く荒らされてるし」

 会話から察するに、初音はここに置き去りにされたデイパックを見つけ出し、有紀寧に献上したというところか。
 自分達が一度ここに来たときは、そんなに注意深く探さなかったから気付けなかった。
 恐らくは、自分と有紀寧が会話している間に見つけたのだろうが、勝手に開けるわけにもいかず……と、そのままにしておいたのか。
 初音らしいと思いながらも、今の初音との違和感を思い出し、柳川はさらに分からなくなる。

 一体、初音が何を思い、こんな行動を起こしているのか……
 柳川は己の中にある熱が温度を失い、冷えて固まってゆくのを感じていた。失望とも諦めともつかない、冷めていく熱情。
 それが何なのか、分からぬままに時間は過ぎていく。

「開けてみてもいいかな」
「どうぞ。ですが外れかもしれませんから、あまり期待はしない方がいいと思います」
「そうかな……って、これ」
「……そうでも、なかったみたいですね」
「マシンガン、だよね。これ」

 がちゃがちゃとした音が鳴り、二人がデイパックの中身……曰く、マシンガンと言っていたものを取り出しているらしかった。
 有紀寧に強力な武器が渡ってしまったが、それはさして問題ではない。
 問題は、今の初音がどうなっているのかということで、柳川は半ば祈るような気持ちで、初音は有紀寧に合わせているだけなのだと考える。
 考えうる可能性はこれしかない。首輪爆弾を起動させられた上で、柳川も同様の状態に陥っていることを説明され、従うように言われた。

 正確には、初音が裏切ったという場合もあった。だが柳川は信じたくなかった。
 こんな自分にさえ、おじさんと言ってくれた初音が、まさか有紀寧に同調して殺し合いに乗り、騙していたなどと……
 穴はいくつもあった。已む無く従わされているのであれば、言葉の節々にもっと棘があるはずだったし、このように自ら武器を差し出すなんてあるわけがない。だがそう考えるしかなかった。どんなに僅かな可能性でも、柳川はそれに縋りたかった。

 俺は人殺しを楽しむ悪鬼じゃない。孤独を生きてきても、人と寄り添え合える心だってまだ失ってはいない。
 俺は化け物なんかじゃないんだ、こんな俺でも、人といたいと思うことだってある。

 忘れかけていた自分に、倉田佐祐理が教えてくれたもの。馴染めないと思いながらも悪くないと感じたもの。
 希望の残滓。鬼だって人間らしく生きられるということを信じさせてくれたもの。
 椋を付け狙うのだって、それを残酷に踏み躙ったことに対しての自分なりの決着のつけ方だと考えてのことだった。
 邪魔をした少年を殺害してしまったのも、椋に執着するあまりのこと……今にして思えば、とんでもないことをしてしまったという自覚はある。

 言い訳とも取れる考え方をしている自分に気付き、いつからこんなになってしまったのかと柳川は思った。
 目的のためには多少の犠牲も已む無し。今までの自分ならそう断じて対処してきたはずだった。
 倉田ならこんな自分に何と言うだろうか。いなくなってしまった彼女を想っていることも、今までの柳川ならなかった。
 倉田、俺は……

「本物みたいだね……なら、柳川おじさんだって、簡単に殺せるよね」

 柳川の思考が、ぷつりと途絶え、空白の一部を作った。
 初音の発した一言が、受け入れることを拒否した結果だった。それほどまでに信じられない一言だったのだ。

「初音さん、分かってますよね? 柳川裕也の前では、あなたは……」
「哀れな人質、だよね。大丈夫だよ、しっかりやるから」
「ええ。そうです。首尾よく柳川さんが何人か殺して、戻ってきた時には」
「ぱらららら。だよね? ……でも、それだけじゃ足りない。千鶴お姉ちゃんを殺した奴も、梓お姉ちゃん、楓お姉ちゃんを殺した人たち、みんな撃ち殺してあげるんだから……もう誰だって信じない。有紀寧お姉ちゃん以外は、みんな敵。もう私に、家族なんていないんだから」

 その言葉が決定的な一言だった。
 家族なんていない。信じていたものを、あっさり壊された感覚だった。
 全てが、偽りだったのか? 出会ったときから、今までずっと、自分は家族ごっこの中で踊らされていた……

 楓の死を告げなかったのも、初音にショックを与えたくなかったから。もう少し時間が経ってから言おうと思って、今まで黙っていた。
 それが……もし告げていたなら、自分は即座に殺される可能性だってあったということか。
 最初から、自分は道具扱いで、盾から矛に移り変わっただけということだった。

 絶望感が柳川を覆い、何かが音を立てて崩れていくのが分かった。まるであっけない、砂上の楼閣。
 俺は勝手に幻想を抱いていただけだったのか。所詮俺は人殺しで、誰からも疎まれて、孤独なままに人を殺して……
 音にも出ないほどの乾いた笑いが口から漏れ、ただただ寂寥感と喪失感だけが柳川を支配した。
 裏切られたのか。俺は、同族……家族にさえ……

 守るべきものも、目指すべき未来も、もう何も見えなかった。孤独に取り残された自分と、殺人を運命付けられた鬼の血だけが、今の柳川の全てだった。希望なんて最初から無くて、垂らされた偽りの蜘蛛の糸を辿って、見下ろす者に哂われていただけに過ぎなかった。

 ならば……
 俺だって、もう何も信じない。

 人が人を殺し、誰かが誰かを裏切るのを当たり前にしているのであれば、そうさせてもらおう。
 希望的観測になど縋りはしない。恐怖がこの世界を支配しているのならば、恐怖で支配すればいい。
 せせら笑う者たちに更に大きく、膨大な恐怖を。支配していたものを覆され、怯えさせながら殺せばいい。あの頃のように。
 柳川の中に確かな確信が生まれ、それまで抱えていた想いを一瞬の内に消し去った。

 恐怖で恐怖を支配する、絶対的な力の倫理。潰されなければ正しく、潰された方が悪いとする暴力の正義。
 何も信じず、誰も信じず、己の力のみを信じて何者をも屈服させる。
 それを柳川に証明したのが、他ならぬ同族である、柏木初音だった。
 感謝の意すら柳川は覚えていた。そうすれば正しいと分かった瞬間、最後に屈服させるべき敵は決まっていたからだ。

 柏木初音と、宮沢有紀寧。
 全てを敵として憎み続ければいいと教えてくれた恐怖の象徴。
 二人を最後に潰すことで、己の恐怖は確立される。
 だからこの二人は今殺さない。最後の最後……三人になったときに、殺す。
 勝利を確信したその横面を残酷なまでに張り倒す。恐怖で恐怖に打ち克つ……その証明として。

 垂れていた頭を前へと向け、柳川は歩き出した。その足取りは一歩、一歩、何者をも支配するかのように傲慢で、高圧的に。
 前を見据える瞳は憎しみに染まり、全てを拒絶するように鋭い。
 歪になった唇からは赤い口腔が僅かに覗き、彼の内面が最早人ならざる悪鬼に変貌したことを示している。
 それは全てに裏切られ、また全てを裏切ると決意した男の、悲壮な姿だった。

 ぽつ、ぽつと。
 気が付けば雨が降り出していた。
 雨は柳川の身体を打ち、肌も服も少しずつ濡らしていく。
 少しずつ雫はたまり、やがてそれが、川となって柳川の頬を伝った。




【時間:二日目19:20】
【場所:I-7、北西部】

柳川祐也
【所持品:ワルサーP5(3/8)、コルト・ディテクティブスペシャル(0/6)、支給品一式×2】
【状態:左肩と脇腹の治療は完了、ほぼ回復。椋を見つけ出して殺害する。また、有紀寧、初音、柳川の三人になるまで他全員を殺害し続ける】
【備考:柳川の首輪爆弾のカウントは残り22:40】

宮沢有紀寧
【所持品:コルト・パイソン(6/6)、予備弾×19、包帯、消毒液、スイッチ(4/6)、ゴルフクラブ、ノートパソコン、風邪薬、胃腸薬、支給品一式】
【状態:前腕軽傷(完治)、強い駒を隷属させる(基本的に終盤になるまでは善人を装う)、柳川を『盾』と見なす。初音と共に優勝を狙う】

柏木初音
【所持品:マシンガン(種類不明、弾数未定)、フライパン、懐中電灯、ロウソク×4、イボつき軍手、折りたたみ傘、鋸、支給品一式】
【状態:精神半分崩壊。有紀寧に対して異常な信頼。有紀寧と共に優勝を狙う】
【備考:マシンガンの入っていたデイパックは古河渚のもの】

【その他:19:00頃から雨が降り始めています】
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