降り続ける雨の中で





 上下にゆらり、ゆらりと小刻みに揺れることが、なんとなく藤林杏の脳裏に船旅を想像させた。
 むしろどんぶらこ、という方が正しいかもしれない。

 そんな感想を思うほどに、ウォプタルの背中は静かで乗り心地が良かった。
 一体どこの生物なのかは知らぬが、見た目の恐竜然とした姿からは考えられないほどに体温は暖かく、哺乳類のそれと変わりない。
 しかし二足歩行にも関わらずしっかりとした足取りは強靭な筋肉が備わっていることを暗に示し、時折ぶらぶらと揺らされる尻尾は鞭のようにしなり人さえ跳ね除けてしまうかのような力強さがある。
 その尻尾で一度攻撃され、威力を身をもって体験しているだけに、実際は力のある動物(?)なのだろうなと杏は思った。
 よほど人間に懐いているのか、それとも元来このように大人しいのか……ともかく、重傷とも言える傷の杏にはありがたいことには違いなかった。

 心中でこれを手回ししてくれた霧島聖に感謝しつつ、旅の道連れである芳野祐介の姿を見下ろす。
 ウォプタルの上であるゆえ、表情は窺い知ることは出来ないが憮然とした仏頂面を引っさげているのだろう。
 情報交換をしているときに岡崎朋也を探していたこと、また伊吹風子の安否も心配していたことから同郷の人物なのだと想像することは出来たが、それ以上の芳野という人物像について知る術はなかった。

 ただ憮然とした表情の裏には人と人を大事にする、頼れる男としての優しさが備わっていてどこか少年のような雰囲気も漂わせていることは理解していた。
 でなければ、あの時あんなに強く憤りはしなかっただろう。
 が、それ以上のものは測り知ることは出来ない。

 一体何を考え、婚約者を失ってまでこの殺し合いに抗い続けているのか。
 その意思の強さは何に裏打ちされているのか。
 何度も仲間を失い、心も一度折れかけた杏としては興味をそそられる部分があったのは確かだった。

 とはいえ、おいそれと聞けるような事柄でもない。杏もそこまで無神経ではないのだ。
 けれどもこのまま沈黙を守って無言での行軍というのもまた杏には耐え難いことではあった。ただでさえこの島は重苦しい雰囲気に包まれているのに、この上沈黙まで重なってはたまらない。杏の嫌いなものの一つは、辛気臭い雰囲気であった。

 が、これといった話題も思いつかない。他愛ない話をしようにも年上の男とは会話をする機会なんてなかったし、この島にいると、日常では出せていたはずの話題も忘れてしまう。この殺し合いについてどう対処するのか。そういう系統の話題しか出てこない。
 結局、数少ない共通の話題と思われる岡崎朋也のことについて尋ねてみることにした。
 もっとも、本人は既にこの世からいなくなってしまっているのだが……

「あの、芳野さん」
「ん?」
「朋也とは……どこで知り合ったんですか?」
「朋也? ああ、岡崎か」

 名字で覚えていたのか、すぐには思い出せなかったようで少しぼさぼさになった髪を掻きながら、目を細めながら言葉を返す。

「一度、俺の仕事を手伝ってもらったことがあってな。それだけなんだが、妙に頭から離れなくてな」

 知り合ったどころか顔見知りかも怪しいものだった。一日と満たない付き合いのうちに、芳野は朋也の何を見ていたというのだろうか。
 ふと先程感じた、少年の面影を残す雰囲気が朋也と重なる。朋也も、どこか子供染みた側面を持つ人間だった。

「まあ岡崎の方は覚えていないかもな。成り行きで手伝ってもらったようなものだから、な」

 苦笑を漏らしつつそう言う芳野の顔は、少しだけ寂しそうに見えた。
 もう一度会いたかったのだろうか。杏が感じていたものを、芳野も感じていたのかもしれない。
 今となっては、もう叶わぬ夢になってしまったが。

 なぜ。
 なぜ、こんなにもあっさりと逝ってしまうのだろう。
 朋也も、浩平も、祐一も……
 何も言わずに去ってしまうなんて、あんまり水くさいじゃないか。
 折角知り合えたのに……どういう経緯であれ、命を落とすことになったのは杏には納得のいかないことに思えてならなかった。

「なんで……死んじゃったんでしょうね、あいつ」

 そんな言葉が、堪えきれずに口から飛び出す。返答なんて得られない問いだと知りながら、それでも口に出さずにはいられなかった。
 杏はもちろんとして、芳野だって死ぬ現場に立ち会ったわけではない。首をゆっくりと振りながら「さあな」と芳野は答えるだけだった。

「だが、バカなのには違いない」

 そう付け加えた芳野に、杏の表情がきょとんとした色になる。意外な返答だった。
 人を悪く言うような人間には思えなかったのだが。

「先に逝ってしまった奴は狡い。後に残された奴は言い訳できなくなるんだ。死にたくても、死ねなくなる」

 どこか恨み言のような、諦観の入り混じった芳野の言葉を杏は必死に理解しようとする。
 ただ、先に死んでしまった人間が狡いというのは杏も同意するところではあった。特に、結果を残すだけ残して逝ってしまった人間は。
 わけも分からず殺されただとか、一方的に虐殺されたとかなら、まだ悩まなくて済むのに。
 殺した側の人間だけ恨めばいいのだから。

「藤林、お前は、どうして人が写真という形で思い出を残すと思う。どうして歌や詩で思いを伝え、残そうとすると思う」

 え、と全く別方向からの質問にすぐに答えられなかった。
 思い出を形に残す理由。普段は考えもしないことだ。
 だが、今という状況でならその意味が分かるような気はする。少なくとも日常の中にいたときよりは、早く答えられる。

「覚えて、おきたいから……ですか」
「それもある。もう一つ――覚えていてもらいたいから、というのもある」

 少しずつ、芳野が何を言いたいのか分かってきた。恨みの篭もった口調で、狡い、と言った理由が。

「人は誰かの中に残りたい。どんなに小さくても、どんなにちっぽけな行為だとしても。誰かの何かになりたいんだ。命を懸けてでも何かを為そうとする。……だから、狡いんだ。残された方の選択肢は、覚えていることしかなくなるというのに」

 芳野の表情に、軽く怯えの混じったものが入る。
 覚えておかねばならぬという責を負った者の、特有の怯えだった。
 追い立てられ、立ち止まることを許されぬ者の目。命を大切にする芳野だからこそ、そこには真の意味での、生き延びなければならないという思いが汲み取れた。
 死んでしまえば、誰も覚えていられなくなる。だから死ぬわけにはいかない。恥を晒し、泥を啜ってでも生きなければならない理由が出来てしまう。

 そのことは同時に、他者を切り捨てる可能性が出てくるのでは、と杏は危惧を抱く。
 生きなければならないという責に駆られ、そのために誰かを犠牲にするという危惧。
 ひょっとしたら芳野はそれとも戦っているのかもしれなかった。

 けれども……今はそんなことはない、と杏は確信する。
 話してくれるほどには、芳野は追い詰められてはいないということなのだから。
 一つ息を吐いて、杏は雨が降り始めた空を見上げる。
 傷口に沁みる雨が、少しだけ痛かった。

「本当、狡いですよね……」

 ああ、と頷く芳野の、その服も既に肩口に埃と雨粒で汚れが広がっている。杏は続けた。

「でも、たくさんの人で覚えていることは出来ますよ」

 芳野の動きがほんの数瞬止まり、苦笑に満ちた目が杏を見上げる。
 初めて、芳野が杏の顔を見た瞬間だった。
 覚えておく責を、人と人で分かち合うことは出来る。杏は、それが出来ると信じていた。
 ああ、そうだなと応じた声は先程よりは軽く、朗らかになったように思えた。
 僅かに空気が弛緩していくのを感じた杏は続けとばかりに頭に浮かんできた話題を持ち出す。

「そういえば、結局アレの隠し場所は体育倉庫で良かったのかしら? 人数上の関係から見張りを付けられないのは分かるんだけど、鍵をかけておかなかったし……」

 保健室で別れた二人は、予定通りまずは硝酸アンモニウムを倉庫に運び込んだが、扉は閉めただけで鍵はかけなかった。
 そのときは特に理由も問い質さなかった杏だが、時間が経つにつれて強奪される恐れがあるのではないかとの危惧を抱き始めた。
 この島において入手が困難だと思われる硝酸アンモニウムを奪われては計画の実行どころではなくなる。
 もう少しマシな隠し場所を皆で考えれば良かったのではないか。鍵をかけるよう進言すれば良かったのではないかと思いながら尋ねた杏だったが、芳野は「心配ない」と返す。

「アレ単体じゃさほどの意味を持たない。俺達と同じようなことでも考えていなければ持って行きはしないだろう。むしろ、そうならば好都合と考えるべきだ」
「……逆に、それの意味を知っているからこそ作らせないために持ち去るってことも考えられると思うんです」
「確かに、殺し合いに乗っている奴が知識のある人間だったら、その可能性もなくはない。だが厳重に鍵をかけたとしてそれを持つ人間が死んで……あるいは行方不明、離れ離れになったとしたら、それは事実上紛失したのと同義だ。なら、多少のリスクはあっても全員が確認できる場所に置いておくのがいい」
「……そう、ですね」

 納得する一方で、芳野の言っていることは誰かが死ぬことも視野に入れていることにも杏は気付く。
 最悪のケースを想定している、と思っていいだろう。これまでの芳野の経験上からそれは考えて然るべき行動なのは杏にも理解できたし、尋ねなかった自分が悪いと感じていた部分があったので、不満は特に感じなかった。
 むしろ心配だったのは、芳野の言葉は彼自身に向けて言っているような気がしてならないことだ。

 死にたくても死ねないと語った芳野。
 けれども、心のどこかでは死に場所を求めているのではないのか。
 誰かを犠牲にするのも已む無し、その考えと戦っていると杏は考えていたが、それは違うのでないか。
 芳野が本当に戦っているのは、押し潰されまいとしながらも重圧に負けて、死を選んでしまうかもしれない弱い自分ではないのか。

 先の会話で繋がりあえたと思ったのも一瞬、靄のかかった不安が疑問となって喉元まで込み上げ、しかしどう口にしていいのか分からず結局閉ざしてしまう。
 どう話を続けていいのか分からなくなった杏だったが、それでも捻り出そうと何か言おうとする――が、それは芳野が手を上げて、杏を制したところで打ち切られた。

「誰かいる。遠目だが、こちらを窺っているようだ」

 既に芳野はウージーを取り出し、油断なく構えている。
 鎌石村の中には入っているのだろうが、ここは町外れのようでまばらに民家が立ち並んでいる以外は草ぼうぼうの野山が広がっているくらいで、しかも雨によって視界はいくらか悪くなっている。幸いにして道はいくらか整備されているのでウォプタルに乗って逃げることは容易いだろう。
 けれども監視されているという事実が杏の警戒心を煽り、無意識に日本刀を取り出させ、目を深々とした林に向けさせる。
 芳野は鋭く尖った刃物のように視線を走らせ、ゆっくりとその場を回りながら前方を中心として警戒を高めているようだった。

「何か、見えたんですか」

 雨の仕業かもしれない。たまたま雨粒が落ちて不審な物音を立てたのでは、とも考えた杏が確認の意味合いも兼ねて尋ねる。
 聞こえただけ、というのはそんなに頼りになるものではない。自分の目で確かめ、その先にあるものをしっかりと見る事が重要なのだ。
 けれどもそんな杏の心配は無用だったようで、芳野は「確かだ」と返す。

「変な白い綿毛みたいなのがちらちらと見えていたんだ。こちらをついてくるので何かとは思っていたが、急にいなくなった」
「綿毛……?」

 疑念ではなかった。そんな特徴に見覚えがある。はて、何だっただろうかと考えを走らせようとする杏だが、疑っているとみたのか芳野は大真面目に続けた。

「この島、動物がいないだろ? ここにいる恐竜も支給品だ。お前の猪も支給品。だとするなら、他にそんな動物がいてもおかしくない。斥候に使っていたんだ」

 迂闊だったと嘆息する芳野に、「あ、そういう意味じゃ……」とフォローしようとした杏だったが空気の読めない第三者の声が割って入った。

「藤林さん! 良かった、ご無事だったんですね!」
「おい待て、勝手に飛び出すんじゃない! あーくそ!」

 がさがさと無警戒に茂みをかき分けて這い出してくる二人の……いや、一人と一体、おまけに一匹のトリオの姿があった。
 ゴキブリのように這って来た三つの物体に口を開けて愕然とし、固まる芳野を他所に杏はどこか冷静に「あー、こいつらだった」と緊張していたのをバカらしく思っていた。
 いくらなんでもその再会の仕方はないだろうと思いつつ、取り敢えずはほっとしたように表情を緩めた杏は芳野に警戒を解くように言った。

 が、言い渡された芳野は何故か固まったままで、首をかしげた杏が「芳野さーん」と四回くらい背中を叩いたところで「あ、ああ……」とどこか気落ちしたかのように呟き、ふふふ、と自虐的に笑っていた。
 杏と同じく、あまりにも大きい落差に打ちのめされたのだろう。が、よりシリアスだった分ダメージは深刻だった。
 あまりにも可哀想だと思った杏は、取り合えず「何だ、お前か」と暢気に安心していた高槻の頭を殴った。

「ガッ!? てめ、何しやがる」
「取り合えず、空気読め、バカ」

 ギロリと凶暴な視線を向けられた高槻は何が何だか分からない……と頭を押さえながら不満タラタラな口調で言い返す。

「先に飛び出したのはゆめみだろうが……俺は止めたんだよ……なのにあいつ、藤林だって分かった途端……」
「ええと、その、わたしは何かまずいことをしてしまったのでしょうか……」

 ゆめみにしてみれば杏が険悪な雰囲気を醸し出しているのには合点がいかないに違いない。こーいうコだったわよね……と嘆息しつつ、ちらりと芳野を横目で見てみる。

「なぁ、今の俺は笑えているか……?」
「ぴこー」
「そうか、お前はいい奴だな……悪かった、疑ったりなんかして」
「ぴこっ」

 空気が澱んでいた。雨が降っている中、あそこ一帯だけが土砂降りである。いつの間にか友情も築き上げているが、心に負った傷はマリアナ海溝くらいは深そうだった。
 再度ため息をつき、まあこんな状況でも無事再会出来たのは喜ぶべき……と考えかけたところで、ふと足りないものに気付く。

「……郁乃、は?」

 言ってしまってから、その名前がつい数時間ほど前に呼ばれていたことを思い出して、失言をしてしまったと杏は思った。
 一瞬の沈黙が走り、それまであった空気が吹き飛んだ。ゆめみは表情を固くし、高槻も眉を寄せながら「放送、聞いてなかったのか」と返す。

「……ごめんなさい」

 狡い言葉だ、と思った。
 高槻はしばらく杏の表情を窺っていたが、やがて一つ息をつくと「俺を庇って死んだ」と短く言った。
 死んだ、という抑揚のない響きが、かえって杏にその命の重さを実感させる。
 恥ずかしくなって、いたたまれなくなったように杏はぎゅっ、と自らの服の袖を掴んだ。

「そっちも、何人か殺られたみたいだな? 何がどうなって、今に至っているのかは知ったこっちゃないが」
「まあ、ね……」
「……あの野郎、カッコつけて死にやがったか」

 どうして、という風に杏は驚いた顔を見せる。杏とて死に際の顔を見たわけではないが、芳野から聞かされる限りでは高槻が言うような死に方をしていった。
 訊けない杏の心情を見て取ったように、高槻は付け加える。

「お前の顔には恨みとか、何と言うか……負のオーラってのかね、それが出ていない。一方的にやられたとか、そういうんなら絶対に顔に出る」

 言わんとしていることは分かった。が、この男はここまで鋭い男だっただろうか?
 胸の内から湧き上がる疑問は、直後の一言に打ち消された。

「もっと目を早くしておくんだな」

 ふん、とどこか馬鹿にしたような言葉にしばらく打ちのめされた気分になる。
 何かが変わったのだ。この男の中で、何かが。
 だがその表情は、寂しそうな感じで――それは、つまり……

「そこの兄ちゃん。ちょいと情報交換しないか? 耳寄りな情報があるぜ」

 しかしそこでそれ以上の考えは打ち切られる。高槻の挙動は、いつも通りの軽薄な部分を含んだものに戻っていた。
 杏の横から「行きましょう」と見上げるゆめみの声がかかる。
 高槻が喋っているときには、ゆめみも何も言ってはいなかった。邪魔をしないように、高槻に任せて。
 取り残されているのか、と杏は思った。

 皆どんどん変わっていく中、最初から何も変わらないのは自分だけで……
 目を早くしろ、という高槻の言葉が反芻する。
 それは、警告のように思えてならなかった。

     *     *     *

「船?」

 今ひとつ信用しきれていなさそうな顔で、芳野祐介は地図の上に記された点の集まりを眺める。
 道中簡単な自己紹介をしつつ、辿り着いた先のあばら家の軒下にて四人は談義を重ねていた。
 さほど雨は酷くなかったので突っ切りながら話をしても良かったのだが、芳野が取り出したメモを見て、何かあるらしいと判断した高槻は自然を装いながら隠れるようにして目立たないところへ行く事にしたのだ。

 芳野と杏のメモを見た高槻とゆめみは仰天。水面下でこんな計画が進行していたということに(特に高槻は)驚き、落胆の表情さえ見せた。
 が、そのまま黙っているというのも会話の流れが悪いので高槻は顔を引き攣らせつつ、岸田の船の件について話し始めた。
 希望の芽が増えたというのに、どうしてあんなに複雑な顔をしているのでしょう、とゆめみは不思議がりつつ、二人の持っていたメモに目を通し、その内容をメモリーに焼き付けておく。少し雨で滲んでいたが、読み取りには支障はなかった。

「岸田って野郎が乗ってきた船があるに違いないんだ。
 かいつまんで話すとだな、奴は首輪をしていなくて、にも関わらずこの島の連中を片っ端から襲っていた。
 ということはだ。奴は主催者連中に雇われたということでもない可能性が高い。何故か分かるか?」
「必要性がないからか」
「流石に賢いな。そう、主催者に雇われるってのは相応の条件がないとダメだ。例えば、進行を円滑にする代わりに家族を助けてもらうとかな。
 そうでなきゃわざわざ参加者に襲われやすい島ん中に放り出すより殺し合いを管理してる施設の防衛に回す方が合理的ってもんだ。
 にも関わらず奴は島の中だった。ということは、奴は正真正銘の乱入者ってことだよ。だから、ここに来るための乗り物が必ずあるに違いない」
「空から来た場合まず俺達だって気付く……地中はここが島であるということから考えにくい。船は妥当な線だな」

 そんな会話を交わす二人の男を尻目に、聞こえぬ程度に机の上に座っていた杏がぼそりと漏らす。

「……あいつ、こんなに頭が冴えるようなキャラだったっけ」

 ウォプタルは流石に家に入れるわけにもいかなかったので外で待機中。時折馬とも鳥とも取れるような鳴き声が響いていた。

「科学者さんだったらしいですよ、高槻さんは」

 が、耳ざといゆめみが聞き逃すはずはなかった。今回は幸いにして空気を読んだのか、それとも会話の邪魔をしないためなのか、杏に聞こえる程度の小さな声だったが。
 へぇ、と目を丸くした杏は、科学者ねぇ……と呟いてため息をつく。

「あたし、そんなことも知らなかったな」

 どこか羨ましそうに語る杏にゆめみは「わたしも、少し前に知りました」と返す。
 高槻に関しては知らないことが多すぎた。
 科学者であったこと。
 人に誇れるような生き方をしてこなかったこと。
 郁乃の死を体験して初めて、高槻が語りだしたことだった。

 では、今までの高槻は全てが嘘だったのか。
 見栄を張るための紛い物の姿だったというのか。
 それは違う、とゆめみは思っていた。

 岸田を無学寺で追い返したときの、燃え盛る炎のような絶叫が虚偽であるとは、ゆめみには考えられなかった。
 それがゆめみをプログラムした人間によって施された人工の判断材料だったとしても、それを信じるのはゆめみの『心』なのだから。

「わたし達は、あまりにも知らなさ過ぎたのかもしれません。でも、だからこそ……知らなかったことを知ることが出来ました」
「無知の知……か」

 そう呟いて、杏は何かを考え始めたようだった。彼女も、何か思うところがあったのかもしれない、とゆめみは考えることにした。
 私たちと同じで、不完全……当たり前だったことを今更思い知ったというような郁乃の顔と台詞がゆめみの頭で繰り返される。
 杏も、恐らくはそうなのだろう。
 何かに気付いてもらえるなら。それはきっと、郁乃の言った『成長』したモノの姿に違いなかった。
 そうなることが出来ているのだろうか。果たして、自分は誰かの役に立てているだろうか。

 それは所謂、『迷い』の一種であったが、ゆめみ自身はそんな感情を持っていることにまだ気付いてさえいなかった。
 ロボットが持ち得ることの無いとされる感情。これでいいのかと足踏みする感情。
 殺し合いという環境下では余計とさえ言えるもの。それが、どう変転してゆめみを変えていくのか。
 まだ本人は、何も知ることはなかった。

「でだ、俺達はここから奴の船を探そうとしていたって事よ。どうだ兄ちゃん、付き合ってみる気はないか」

 気がついてみれば、芳野と高槻の会話は結論に入ろうとするところだった。
 芳野も頷いて、高槻の意見に同調の意を示している。脱出できる要素が増えることについて異を唱える必要はないと思っているからだろうか。

「しかし、だ。主催者連中がそれを回収に来ていたらどうする」
「それも可能性は低いだろうさ。閉じこもってりゃ取り合えず奴らの身の安全は保障されるんだからな。それを俺らみたいな少数の人間に、わざわざ発見される危険を冒してまで姿を現すとは考えにくい。それに」

 発見できたとして、こいつを外せないことにはな、と首輪爆弾を指しながら高槻は言った。
 だがその表情は台詞とは裏腹の不敵なものになっている。それもそのはず、それをブチ壊しにするプランが今目の前にあるのだから。
 食えない男だ、というように芳野も唇だけ変えて笑う。

「なら手を貸すぞ。藤林もいいか?」
「あ、はい。……まあ、元々探してた人と会えたわけだしね。後、椋も探す必要があるけど……近くに電話、ないかな? ことみたちに連絡が取れればいいんだけど」

 別々に分かれて行動している仲間と連絡が取れれば、行動の無駄は減る。電話で会話出来るということは杏の仲間(メモの紙面で一ノ瀬ことみ、霧島聖なる人物だということは分かっている)はどこか一箇所の施設に留まっているか、携帯電話でも持っているのか。
 考えたところで自分の利にはならないと判断したゆめみは、とにかく電話があれば話は出来ると理解するに留めておくことにした。
 連絡を取ろうと考えた張本人の杏は周りを見回すが、廃屋に近いあばら家には電話どころか電気も通ってさえいなさそうだった。
 そういう場所を選んで移動したから仕方ないのですが……
 そんな風にゆめみが考えていると、お前、無線で連絡を取れる機能とかないか、と高槻が尋ねてくる。

「残念ですが……」

 真面目に応じるゆめみに対し、「そんな機能があるんだったらもう言ってるでしょ」と呆れながらに杏がため息をつく。
 ゆめみに対して言ったものではなかったのだが、自分のことを言っていると思ったのか「も、申し訳ありません」と平謝りする。
 謝罪された杏はやれやれと首を振って、どうしようもないなぁ、というように笑った。

「ほんっと、仕方ないコね、あんた」

 それはどこか、安心したような響きがあった。
 ふと昔の友人にひょっこり出会ったような、そんな柔らかい微笑みだった。
 ただ呆れられているのではないのではないか、とゆめみはふと思ったが、確信するまでには至らず、ただ困ったように首をかしげるしかなかった。

「無いものは仕方ないさ。それはまた後でやればいい。で、どうする。俺達は一緒についていけばいいのか」
「そりゃ非効率だろう。二手に別れようぜ。俺達は南側から入るから、お前らは北側から鎌石村に入ってくれ」
「……? どうしてそんなことを?」

 分かれるにしても距離が近すぎる。疑問の声を重ねた杏はそう思ったのだろう。それはゆめみも思ったことだったので、高槻の返事を待つことにする。
 すると高槻はさも自信満々に、

「保険だよ。もしどちらかが襲撃されても、もう片方がすぐに救援に行けるだろ?」

 と言った。
 ほぅ、と芳野は感心したように顎に手をやり、杏もゆめみもそういうことか、と納得したように頷く。
 なるほど確かにこれなら各個撃破される恐れは低くなる。流石だとゆめみは感心しながらも、これが先程高槻が言った『目を早くする』ことなのだろうかとも思った。
 見習わなければなりませんね、と心中で呟いて見落としていることはないかと考えを巡らせる。

「あ、そうです。あの、餞別というわけではありませんが、これを」

 情報以外にも交換し損ねていたものに気付き、ゆめみはデイパックからニューナンブとその弾薬を取り出して杏に手渡す。
 意外なものを受け取った杏は「いいの?」と一応確認する。
 貴重な武器であることは否めない。しかし勿体無いと渋っていては宝の持ち腐れだ。戦力は均等に分けておいたほうがいいという考えもあった。

「結構武器が多いので。代わりのものはあります。これで、ご自分の身を守ってください。それと、他の皆さんも」

 それは芳野だけでなく、杏が心の内に抱えている人全てに言ったつもりだった。
 結局守れなかった郁乃への責任から来る言葉なのか、ただ単に気遣いのつもりとして言ったのか、ゆめみ本人も認識していなかったが、そのように奥底で感じていたことは事実であった。
 杏はしばらくゆめみとニューナンブを交互に見ていたが、「うん、ありがと」と軽く頭を下げ、ニューナンブを制服のポケットに入れた。

「代わりってわけじゃないけど、あたし達の仲間の電話番号を教えておくわ。あたしから教えてもらったって言えば多分信用はしてもらえるから。……電話番号、書かなくても大丈夫?」

 ロボットの記憶力を当てにしているのか、書くのが少し面倒そうな杏はあはは、と笑いながら聞いてくる。

「記憶力には、自信があります。大丈夫です。テキスト量で言えば1テラバイト分は十分に記憶しておけるかと」
「……ロボットってのは伊達じゃねぇな」

 感心というより、羨望に近いような高槻の声が横から飛ぶ。
 先程記憶云々で一悶着あったからだろう。軽く負い目になっているようだった。
 そんなことを知るわけもない杏は「うん、やっぱ凄いわゆめみは」などとうんうんと感心しつつ、連絡先という電話番号を教えてくれた。

「おっと、一応こっちも見せとくか。武器のバーゲンセールなんでな、今は」

 高槻も同様にデイパックの中身を芳野に見せ「持ってくか」と尋ねる。どうやらゆめみと考えたことは同じようだった。
 そうだな、と応じてデイパックを軽く漁っていた芳野はその中に投げナイフを見つけ、「こいつは……」と手に取る。

「ん、どうかしたか」
「……形見、みたいなものかもしれないな。因縁の証かもしれない」

 因縁、という言葉に杏の表情が固くなったように、ゆめみには見えた。
 芳野はナイフをじっくりと見回してから、間違いない、と呟いた。因果なものだ、とつけ加えて。

「俺の連れが持っていたものだ。奪われたままだと思っていたが……」

 いた、という言葉は既にその人が鬼籍に入ってしまったことを示していた。

「因縁、というのは?」

 だが高槻は芳野とかつて在った人物のことより、因縁の方を気にかけているようだった。
 死者に拘らない、高槻らしい言葉だとゆめみは思った。あるいは、人間関係を調べることで敵味方がどうなっているのか判断しようとしているのかもしれなかった。

「前に俺達……いや、俺を襲った奴がいてな。そいつから奪った……というと実際には違うんだが、まあそういうことにしておいてくれ。で、そいつは俺とどこか似ていた部分があってな……人を思う、愛に溢れていた。悪い方向だったがな」
「んなこたどうだっていいからよ、そいつは誰だ」

 人物以外に興味のなさそうな高槻の言動に、お前な、と芳野は舌打ちして憮然とした表情を見せたが、すぐに話を続ける。

「名前までは分からん。が、ナリの小さい奴で、しかし豪胆な奴だった。物怖じせずに攻めて来る。そういえば……水着を着ていたか?」
「……水着、ね」

 変な格好した奴もいたものね、と呆れている杏に対し、高槻は表情を険しくしていた。思い当たる節があったのだろうか。
 それとなく尋ねてみようとしたゆめみだったが、あまりにも険しい表情だったために、そうするのは憚られた。
 しかしその気配もすぐに消え、「愛、ね」と呟いた高槻はほれ、と芳野にナイフを渡す。

「まあともかく、形見なんだろ? 大事にしとけ」
「……お前とは、そりが合いそうにないな」
「愛なんて、下らねえよ」

 ふん、と小馬鹿にしたように言って、高槻は芳野から離れる。
 嫌悪している風ではなかったが、受け入れられない部分でもあるのだろうか。
 愛という言葉はいい言葉のはずなのに。
 信頼はしているが、どうも高槻には他の人間と違うところがいくつもある。不思議なものです、とゆめみは思った。
 それが所謂『変人』に向ける類のモノであることをゆめみは、まだ知る由もなかった。

「おい、行くぞゆめみ。雨だからって休んでる暇はねえぞ」

 人間とはどういうものか、というのを再度考えようとしたところに、高槻の言葉が飛んでくる。
 既に高槻の姿は雨の中に移っていた。

「あ、待ってください! ……ええと、藤林さん、芳野さん、お気をつけて」
「ええ、そっちも。あのバカをしっかりフォローしてあげてね」
「出来れば、奴の心をもう少し解してやってくれ。メイドロボに頼むことじゃないんだがな」

 不愉快そうな口調ながらも、芳野も決して嫌悪しているというわけではなさそうだった。
 了解しました、といつものように恭しく応じながらゆめみも高槻を追って雨の中に飛び出した。
 少し走ってから、後ろを一度振り向いたが、雨による視界の悪さのせいなのか二人の姿が見えることはなかった。

 また会いましょう。そちらの言葉の方が良かっただろうかとゆめみは思ったが、もうそれを伝える術はなかった。




【時間:2日目午後20時40分ごろ】
【場所:C-5・廃屋】

芳野祐介
【装備品:ウージー(残弾18/30)、予備マガジン×3、サバイバルナイフ、投げナイフ】
【状態:左腕に刺し傷(治療済み、僅かに痛み有り)】
【目的:杏に付き従って爆弾の材料を探す。北側から岸田の船の捜索もする。もう誰の死も無駄にしたくない】

藤林杏
【所持品1:携帯用ガスコンロ、野菜などの食料や調味料、食料など家から持ってきたさまざまな品々、ほか支給品一式】
【所持品2:日本刀、包丁(浩平のもの)、スコップ、救急箱、ニューナンブM60(5/5)、ニューナンブの予備弾薬2発】
【状態:重傷(処置は完了。激しすぎる運動は出来ない)。芳野に付き従って爆弾の材料及び友人達、椋を探す。岸田の船を探す】
ウォプタル
【状態:外に待機】

愛などいらぬ!高槻
【所持品:日本刀、分厚い小説、ポテト(光二個)、コルトガバメント(装弾数:7/7)予備弾(5)、鉈、電動釘打ち機12/12、五寸釘(10本)、防弾アーマー、89式小銃(銃剣付き・残弾22/22)、予備弾(30発)×2、ほか食料・水以外の支給品一式】
【状況:船や飛行機などを探す。爆弾の材料も探す。主催者を直々にブッ潰す】

ほしのゆめみ
【所持品:忍者刀、忍者セット(手裏剣・他)、おたま、S&W 500マグナム(5/5、予備弾7発)、ドラグノフ(0/10)、ほか支給品一式】
【状態:左腕が動かない。運動能力向上。高槻に従って行動】

【備考:ゆめみと高槻がことみの計画について知りました】
【その他:台車にのせた硝酸アンモニウムは学校外の体育倉庫に保管】
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