ナジェーナ





 
『これが、今生のアマテラス……』

呟く声は白の神像。

『この光……間に合わなかったと、いうのですか……』

搾り出すような声音の、その眼前に広がるのは白の巨躯を更に数倍する巨大な建造物。
周囲に広がる闇を圧するように明滅する、無数の光点に包まれたそれは城砦とも呼ぶべき外観を誇示している。
自転赤道上、実に高度三万六千キロメートル―――それは宇宙空間に浮かぶ、鋼鉄の城郭であった。

『……大丈夫、お姉様』

音を伝える大気すら、既に存在しない。
しかしその声は、物理法則を嘲笑うかのように世界に響く。
白の神像、アヴ・ウルトリィの傍らに舞う、黒い神像の声であった。

『この子……まだ、ちゃんと目を覚ましてないよ。急にムツミがいなくなって困ってるみたい』

巨大な砲塔を始めとした無数の兵装は幾つもの光を纏い、臨戦態勢とも映る。
恐るべき鋼鉄の砦を前に、しかし黒の神像、アブ・カミュは言い切ってみせた。
己が内に秘めるもう一つの力と通じるが故の、それは断言である。

『……そうですか。ならば我々の手でも、破壊は容易でしょう。……しかし、その前に』

一拍を置いたアヴ・ウルトリィが、ほんの僅かの逡巡を滲ませて、その言葉を口にする。

『―――神尾晴子。あなたには決断してもらわねばなりません』


***

 
「な、何や急に!?」

狭いコクピットの中、足を投げ出してばりばりと顎の下を掻いていた晴子が唐突に声をかけられ、
泡を食ってバランスを崩す。
鈍い音。

「……痛ぅ……。何じゃボケ! 人を宇宙にまで連れ込んで、この上何をせぇっちゅうんじゃ!」

したたかに打ちつけた腰をさする晴子。
怒鳴りつける口調にはしかし、どこか力がない。

『観鈴、薄々思っておったが……そなたの母御はやかましいの』
『にはは……ときどき、ドジっ子』
「……ガキどもは黙っとらんかい!」

星の瞬きだけを映す暗いコクピットの中、響く幾つもの声を振り払うように晴子が
傍らのコンソールに腕を叩きつける。

「……続けてみぃや、神さん」

驚いたように口を噤んだ二人―――アヴ・ウルトリィの契約者にして神像の融合者、神尾観鈴と、
アヴ・カミュの新たなる契約者、神奈備命の声がやんだのを見計らって、晴子が静かに先を促す。

『……決断とは、他でもありません。晴子、あなたは……この現世に留まることを望みますか』
「はぁ!?」

漏れた声は純粋な困惑。
問いはそれほどに唐突で、理解に苦しいものだった。

「何やそれ。うちに死ねとでも言いたいんか。良ぉ言われるけどな。
 ハ、神さんにまで言われるとは思わんかったわ。……おどれから死なすぞボケカスコラァ!」

がつり、と硬い音を立てて乱暴に操縦桿を蹴りつける晴子の剣幕にも動じた様子なく、
アヴ・ウルトリィの声は続く。

『我々は、もうすぐ旅立たねばなりません』
『カミュたちはずっとお父様を追いかけてるんだよ!』
『余もかみゅうより仔細を聞いた。契約者は大神の眷属として時を渡るのだと』
「やかましわ! おのれらには聞いとらん!」

声を張り上げた晴子が、しかしすぐに首を捻る。

「ん? ……今、契約者ぁ言うたか。それやったら……」
『にはは……観鈴ちんもウルトリィさんの契約者さん』
『……事の始まりは、省きます』

晴子の疑問に答えることなく、アヴ・ウルトリィは言葉を連ねる。

『私たち……私とカミュ、そしてここにはいない仲間たちは、旅をしています。
 長い、長い旅。時を越え、理を越え、幾つもの生と死を超える旅。
 現世の身体を捨ててなお、行く先々で仮初めの身体を得て続く、果てしない旅。
 その旅の中で、私たちはずっとある方を捜して……いえ、追い続けているのです。
 大神と呼ばれる―――我が君を』

それは、無色透明の声音。
郷愁と、慕情と、妄執と、怨嗟と、そういうものが煮詰まって、最後には色を失った感情の発露した言葉。
永劫という時に磨り減った者の、ざらつくものすら失くした女の、ひどく滑らかに歪な、声だった。

『今生には大神も、その写し身も居られず……ならばその齎す力を滅ぼせば、異物たる我々は
 その瞬間に意味を失い……今生より弾き出されて、新たな時へと遷るでしょう』
『お父様の力っていうのは、摂理を曲げてこの世に捻じ込まれた……あるはずのないもの。
 その時々で姿かたちは違うけど、名前だけはいつも同じなんだよ。名前は、魂の形だから』
『即ち―――浄化の炎、アマテラス』


***

 
『アマテラスに打ち勝てば、我々は今生より旅立つこととなりましょう。
 契約者たる神尾観鈴、そしてそちらの―――』
『神奈備命だ』
『契約者は既に大神の眷属―――共に旅路へと着いていただくことになります。
 大神の輪廻に組み込まれた、永劫にも等しい旅となりますが』

下方には、青と白に彩られた故郷。
視線を上げれば、遠く煌く星々。

『改めて問いましょう。
 神尾晴子―――この現世に留まることを望みますか、それとも』
「……その前に一つだけ、聞かせてや」

問いを遮った晴子の眼差しに、怒りの色はない。
迷いも、困惑も、そこには見て取れなかった。
茫洋と遠い星々を見つめるその奥に、ほんの微かな決意だけがある。

「あんたさっき、言うたよな。身体ぁ捨てて旅を続けとる、て」
『はい。我々は皆……』
「それ、もうずっと昔に幽霊みたいなって、そんでも生きてるっちゅうことか」
『幽霊、というのがコトゥハムルの住人という意味であれば……そのような存在であるのかも知れません』
「知らんし、どうでもええわ。要はあんたらと一緒に行ったら、カラダくたばっとっても、生きてられるんか」
『……はい。大神の輪廻の中、生と死という概念からは解き放たれます。
 今生の敗北は写し身の力をいや増すことにはなりましょうが……逆さに言えば、それだけのことです。
 死の刹那、我ら大神の眷属は時を渡り、新たな身体、新たな戦の生へと遷ることになるでしょう』
「なら、決まりや」

その一言は、ひどくあっさりとしていて。
白の神像に浮かぶ、磨耗した苦悩も、風化した感慨も、何もかもを吹き飛ばすほどに、軽かった。

「観鈴と一緒なんやろ。ずっと、ずっと一緒なんやろ。ならもうそれでええわ。
 面倒なこと考えとったら、もうわやんなってもうた。ええよ。行く。
 どないすればええの。パスポートとか、いるん」

神尾観鈴に言わせれば、それは逃避に他ならないのだろう。
結局のところ、神尾晴子にとって観鈴という存在は枷であり、同時に免罪符でもあるのだと、
そう再認識したかもしれない。
しかし、どれほどの贖罪と悔恨に塗れていようと、そこには確かな母性の発露があった。
それは必ずしも神尾観鈴にとっての救済には繋がらず、また晴子にとっても自身に巣食う魂の高潔ならざる部分、
欲や、見栄や、怠惰や打算や、そういうものを照らす光明とはなり得ない、幽かな仁慈でしかなかった。
だがそれでも、この瞬間に、神尾晴子は母親であった。
少なくともそうあろうと、一歩を踏み出した。

『―――そうですか』

だから、白の神像は、母になれなかった女は、それだけを口にした。


***

 
『余に否やはない』

翼人の末裔、神奈備命が短く告げる。

『どの道、余に帰る場所などない。帰ったところで、終わりのない悲しみだけが待つというのなら尚更の。
 千年の怨みつらみ、ここらで断ち切るのも良かろ』
『……あなたからは、多くの想いを感じます』
『ああ。余は生きるぞ。……それが、余を見守ってくれておった者たちへの報いだ』

口調は力強く。
悲しみは、もうない。

『……時にかみゅう』
『カミュ、だよ』
『うむ、かみゅうよ。……この女はどうする』
『あ……うん』

アヴ・カミュと一体化した神奈が指し示すのは、己が腹の辺り。
その中に眠る、この場の最後の一人である。

『……カミュ、あなたの操者は』
『うん。私との契約が切れてるってことは……おば様、たぶんムツミと……契約してる』

力なく項垂れる。
その動かぬはずの白銀の表情にすら、痛嘆が浮かんでいるかのように見えた。

『もう、おば様も引き返せない。それに……』

脳裏に響くのは、柚原春夏の慟哭。

『おば様のたいせつなものは、もうここにはないから』
『カミュ……』
『大丈夫よ、お姉様。辛いのは私じゃな―――え!?』

弾かれたように白銀の面を上げたアヴ・カミュが、

『―――避けて、お姉様!』

叫ぶのと、アヴ・ウルトリィが白翼を真空に羽ばたかせ後方へと急加速するのとが、ほぼ同時。

『わ……』
「何や、一体……!」

白い機体を掠めるように飛び去ったのは一筋の光線である。

『この力、術法……!?』

困惑を隠せないアヴ・ウルトリィが視線を向けた先には、沈黙していたはずの城砦。
幾つもの光点が明滅するその無数の砲塔が、音もなく回転を始めていた。
砲口の向く先は、一対の神像。

「何や、あれ……!」
『にはは……宇宙戦艦』

攻撃衛星、アマテラス。
回転する砲塔、有機的に連動するターレット。
姿勢を制御するための噴射口にも炎が灯っている。
鋼鉄の城砦は今や、その機能のすべてを回復しているかのように見えた。

『ムツミは眠りについているというのに……!』
『待って、お姉様……ムツミの力、感じる……。ずっと、下……さっきの島から、声がする……!』
『余にも聞こえるぞ……これが、余の追い出したもう一人の翼の者の声……!』
『力をくれ、って……ムツミの声が、呼んでて……それでこの子も、目が覚めちゃったみたい……!』

隻腕を太陽光と放射能に照りつけられながら、黒の機体が第二射を回避する。

『どうやら……簡単に決着をつけるというわけには、いかなくなったようですね』
「はン、壮行会に花火……気ぃ利いとるやん。景気付けに丁度ええわ」

アヴ・ウルトリィがその手に宿した光球を放つ。
弧を描く軌道が迎撃するのは砲塔から放たれた第三射。
その同時斉射数は既に十を遥かに超えている。

『覚悟は宜しいですか、カミュ、観鈴、晴子、神奈備命―――。
 ここから先は、この世界で最後の戦いになります』

アヴ・ウルトリィに応える声は、高らかに。

「上等やないの!」
『はい、お姉様』
『勝っても負けてもまた来世、か……余が敗れるなどと、考えたこともないがの』


***

 
―――わかってるのかな、お母さん。
それは、一瞬だけ浮かんだ、意地悪な気持ち。

お母さんはもう、私を言い訳に、できないんだよ。
そんな風に言ってやりたくなるのはきっと、目の前の面倒から逃げ出したお母さんの考え方が、
あんまりにもいつも通りだったから。

あのとき私が手を伸ばしたのは、そうしていま私の横にいるのは、きっと夢に出てきた女の子。
広い、白い、青い、空の真ん中で、一人ぼっちで泣いていた女の子。
夢から出てきた女の子は、だからもう一人じゃない。

ひとりじゃない女の子は、きっともう泣かないんだ。
だから、私の中に哀しい気持ちが溢れることも、もうない。
私と女の子が手を繋ぐというのは、きっとそういうことだ。

―――私は、だから、もう”特別”じゃない。

私が普通の子になったら、お母さんはきっと、私に負い目を感じなくなっていく。
お母さんはきっと、お母さんじゃなくなっていく。

わかっている? 神尾晴子さん。
あなたはもう、私の面倒なんてみる必要、なくなったんだよ。
うん、きっと、わかってないんだろうな。

私はでも、だから、それをお母さんに言ったりはしない。
教えてあげたり、しない。
これは、ずっと私を言い訳に使ってきたお母さんへの、ほんのささやかな仕返し。
そうしてずっと私と一緒にいてくれた、お母さんへの、ほんのささやかなお返し。

娘から母へ、一瞬だけの意地悪と、心からの―――

『―――行こう、お母さん』

甘やかな愛情を、込めて。



***

 
黒白の翼を広げて、二体の神像が翔ぶ。
目指す先には、宇宙に浮かぶ鋼鉄の城。
光が、交わった。


***



 
【時間:2日目 AM11:36】
【場所:静止軌道上、高度36000km】

アヴ・ウルトリィ=ミスズ
【状態:満身創痍】
神尾観鈴
【状態:契約者】
神尾晴子
【状態:契約者】

アヴ・カミュ=カンナ
【状態:隻腕】
神奈備命
【状態:契約者】
柚原春夏
【状態:契約者・意識不明】
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