「はぁ、はぁ、はぁ、は……っ……!」 暗く、所狭しと日用品が詰め込まれている部屋の中で激しく呼吸する、一人の少女の姿があった。 伊吹風子。仲間達の命と引き換えに生き延びる責務を負わされた人間。 由真の叫びに押されるようにしてここまで逃げてくることが出来た。それはいい。 だが、どうする。どうやって敵を討つ? 手持ちの拳銃、残弾があるかどうか。最悪の場合あの時誤射してしまったあれが最後の一発だったという可能性もある。 サバイバルナイフ。しかしこれでは重火器に対抗することはとてもじゃないが出来るとは思えない。 圧倒的に戦力が不足していた。 せっかく仲間達が命を振り絞ってまで逃がしてくれたのに、立ち向かう力が残っていないなんて。 悔しさと同時に、涙が溢れそうになる。 あまりにも不甲斐なかった。お姉さんとして、皆を守ると誓ったのに。 守るどころか逆に助けられてばかりで、今もしていることといえば打つ手がなくてうずくまっているだけ。 自分の無力さを改めて思い知った。 結局、自分なんて居ない方が由真も花梨も、みちるも朋也も死なずに済んだのではないか。 自分さえいなければ。 自分さえ―― 目尻に涙が溜まりそうになった、その時。風子はふと懐が暖かくなっているのに気付く。 何だろうと思い、服をまさぐる。果たしてその原因は簡単に見つかった。 宝石が、しっかりしろとでも言わんばかりに僅かな光と、熱を帯びていたのだ。 同時に、声が脳裏を過ぎる。 敵を取れと、自分の無念を晴らしてくれと主張する由真の声。 自分に代わって、その謎を解き明かして欲しいと憂いを含んだ花梨の声。 足手まといにならなかったか、皆の足かせにはなっていなかっただろうかと不安を持つみちる。 一瞬でも仲間を信用していなかったことを悔やむ朋也の後悔。 口では語られなかった各々の心情が風子に聞こえる。 やはり満足ばかりではなかった。無念の声はあまりにも大きかった。 行動の一つ一つが思い通りにいかず、それでも良い未来に導こうと必死で足掻いた。 だが、結果として悪い方向へ向かってしまった。 どんなに考えて考えて、苦悩して行動しても、またそれは誰かを苦しめる。 そんな風にしか生きられない。 けれどもその生き方を、無知だ愚かだと軽蔑することが誰に出来るだろうか。 きっと未来に繋がると信じて、希望を捨てなかった彼らのどこを責めることが出来ようか。 なのに、自分は希望も可能性も捨てて、自棄になって閉じ篭ろうとしている。 それでいいのか。自分は無力だと分かったつもりになって、可能性を閉じてしまっていいのか。 自分が責められたくないばかりに、罵られたくないばかりに綺麗を装っていいのか。 そんなのはいやだ、と風子は思った。 もう一度考える。彼らの望んだ、恥ずかしくない生き方とは何だ? それは…… 逃げ続けるしか、ない。 残念だが、今の風子では太刀打ち出来ないのは事実である。 だから、一旦退いて体勢を立て直す。 勝機もなく立ち向かうのは勇気ではない。ただの自殺志願者であり、生きることを諦めた人間だ。 幸いにして、風子には才能とも言える足の早さがあった。 一気に山の麓まで駆け下り、ある人物との合流を図る。 古河渚。今や数少ない、風子の知り合いであり、友人である人物である。 天沢郁未は危険人物だとうそぶいていたが、彼女が殺し合いに乗っていたということが判明したことで、却ってその情報が嘘である可能性が高くなった。 何故なら、乗った人間が恐れるのは、敵が徒党を成して向かってくるということなのだから。 よし、と風子は腹を決める。 恐ろしいほど頭の回転が早い。やることさえ決まってしまえば、後はそこに突き進むだけなのだから。 「……念には念を入れます。備えあれば憂いなし、です」 逃げるにしたって相手の追撃を振り切る程度の装備は欲しい。倒せなくていい。足止めできるレベルであれば十分だ。 ここには日用品(ホテルで使っていたものだろう)がずらりと並んでいる。それらを使えば、何とかならないこともない。 無論、勝機を掴めそうなものがあればそれを逃すつもりはない。 大切なお友達を奪っていった殺人鬼を許せるほど、風子は大人じゃないんです。 それは風子に初めて芽生えた闘争心であり、復讐心でもあった。 取り合えず頭の中で持っていきたいものをリストアップし、ちょこちょこと小動物のように動き回り部屋を物色していく。 現代のねずみ小僧である。 そして、風子自身でも拍子抜けするほどあっさりと、目的のモノを次々と見つけることができた。 ストッキング、接着剤、糸(本当は釣り糸が欲しかったが、代替品にはなる)、バルサン、ゴム糸。 そんなに数は持っていけないが、種類としては十分過ぎる。 手早くデイパックに詰め込むと、背中に背負い直す。 重量的にはそんなに足枷になるまい。 最後にグロック19を手に持ち、いつでも発砲できるように備えておく。無論、上手く撃てるかどうかは分からないし、残弾を確認できない以上、全く信頼はできない。 「……」 由真を撃ってしまった時の記憶を、図らずも思い出してしまう。 トドメを刺したのは郁未だが、致命傷を与えたのは風子に他ならない。あの時、気を緩ませてしまったせいで。 由真は許してくれると言ったが、風子の心には依然として罪の意識が重く圧し掛かっていた。 あそこでミスを犯さなければ。僅かな可能性なれど生きて帰れることが出来たかもしれないのに。 人ひとりの人生を奪う一因となってしまったことは、どんなに悔やんでも悔やみきれるものではない。 きっと、復讐を果たしたとしても。 しかし懺悔をする時間は風子には残されていなかった。残酷なまでに使命が彼女を追いたて、遠ざける。 それがきっと風子の罰なのだろうと、贖わなければならない罪なのだろうと風子は思った。 だから、今は。 「風子、行きます」 走り続けることが、彼女の責務だった。 * * * 七瀬彰は、二階へと通じる階段を登りきった、その近くにある観葉植物の陰に隠れていた。 言うまでもないが、彼は怯えて隠れているわけではない。 二階の一部廊下は吹き抜けとなっており、さらにそこからは本来ある階段とは別に特別に設置された一際大きな階段が一階へと伸びている。 彰が選んだのはそれが理由。 この場所からはややギリギリの角度ではあるが階下のロビーも一応見渡せるし、左右の階段、エレベーター(機能はしてないだろうが)も見渡すことが出来、視界も良好だ。待ち構えるには絶好の場所と言える。 ……が、既に彰は二人ほど人が階段を登っていくのを見逃していた。というより、見つけたけれども見逃したのである。 階段を凄まじい勢いで登っていった上に、片方は奇声を撒き散らしながら火炎放射器を乱射し(危うくこちらにまで燃え広がりそうになった、ちくしょう)、片方は先程も戦ったあのおっかないツインテール少女。 苦戦した強敵がいる上にあのような危なっかしい武器を相手に(しかも狂人)戦うのは流石に辛い。加えてもう左腕が思い通りに動かせなくなってきている。無理をすれば何とかなりそうだが、正直咄嗟の事態に反応できそうにはない。 よく三つ巴で戦えたものだ。それどころか三人とも痛み分けで終わらせられたのが奇跡ではなかろうか、と彰は思う。 ともかく、もうこれ以上無茶は許されない状況になってきた。イングラムの弾数が心細いことになってきたのもある。 M79はまだ弾薬が残っているがこれは集団戦で使うべきものではない。一対一で使うべき代物だ。 威力は既に確認済み。思った通り、そんなに範囲が広くない。あの少女(水瀬名雪)にさえ破片弾では致命傷が与えられなかったくらいである。 狙いは一つ。 まだ確実にここに潜んでいるであろう、ホテルの奥に逃げ戦闘を回避していった人物達の抹殺だ。 特に以前逃した二人はロクな装備をしていなかったはず。狙い撃ちに出来るはずだ。 イングラムを腰溜めに構え、注意深く誰かが出てこないか観察する。 中々様になってきたな、と彰は思う。フランク叔父さんのところでアルバイトをしていたときからは考えられないくらいのアウトドアっぷりだ。 そういえば、叔父さんは今頃どうしているだろうか。急に来なくなった自分を心配しているだろうか。 あの人は寡黙だけど身内に甘いところがあるしなあ…… そのまま意識をかつての日常に向けかけたところで、彰の耳にたったった、という軽く何かを叩くような音が聞こえた。 「っ!? しまった!」 思わず立ち上がり、慌てて階下を見渡す。そこにはロビーを一直線に横切る、小柄な少女の姿があった。 「わ……っ!?」 彰の大声に気付いた、伊吹風子がイングラムを構えた彰の姿を見、驚いたように大口を開け……脇目もふらず、更に加速しつつ逃げ出す。 しくじった、と彰は思った。 ぼーっとしていたせいだ。己の馬鹿さ加減に呆れつつ、この位置から射撃しても風子には当たらないと判断した彰は飛ぶように階段を飛び降りていく。 逃げていくのであれば追わないという手もあったものの、風子は自分が殺し合いに乗っているということを知っている。 口封じと、少しでも武器を回収したい意味合いも兼ねて彰は追うことにしたのだった。 「くそっ、意外と足が早い……追いつけるか……?」 が、風子はそんなに簡単な相手ではなかった。小柄なくせに、驚くほどすばしっこい。まるで小動物だ。 試しにイングラムを撃ってみるか? と考えたその矢先、床にあるものが放置されていたことを思い出す。 「あれが使えるなら……」 彰は、それがあった場所へと駆け出した。 * * * ひとつ、声に反応するものがあった。 闇の中でピクリと反応したそれはうずくまる少女であり、闇の一部でもあった。 日が落ちて夜に混ざっていく影のように、影のように、少女はただ自らの存在を薄く、透明に、しかし漆黒の殺意を以って潜み続けていた。 水瀬名雪。 彼女もまた彰と同様に二階にある小部屋の一つに身を隠し、好機を窺っていた。 全身に負った細かい傷は、確実に名雪の行動に支障をきたしている。 痛みも、苦しみも、それすらも気に咎めずただただ殺戮行動にのみ没頭する名雪の頭脳だったが、それは決して彼女が思考を捨てたということを意味していない。 より正確に、より効率的に人を殺す方法を考え出すことに特化しただけだ。そのために感情すら捨て去った。 いや、ただ一つ残しているものがあった。 愛する存在である相沢祐一を守り、彼と一緒になり、この悪夢から脱出し、幸せな生活を取り戻す――その願いだけを。 待つのは名雪には慣れていたが、受け入れられるものではなかった。 あまりにも辛く、長く、苦しい。 それでも待ち続けていれば、我慢をしていれば神様はきっと願いを聞き届けてくれるはずだと信じてきたときもあった。 だがそれは裏切られるだけだと知った。この島が世界は悪意と欺瞞に満ちていると教えてくれた。 本当に欲しいものは、奪うしかないのだとも。 だから名雪は、奪う側になることを決めた。 あっけなく潰される雪うさぎになることを拒んだ。 わたしは、祐一だけいればいい。 それ以外の何もいらない。 たった一つだもの。一つだけなんだから、どんなことをして手に入れてもいいよね? 祐一には誰も近づけさせない。誰にも奪わせない。 その前に、わたしが奪っちゃうんだから―― そうして彼女の目は、愛しの彼を奪おうとする全てのモノに向けられるようになった。 全ての愛を彼に向け。 全ての憎悪をそれ以外のモノに向けて。 水瀬名雪はただ、純粋となった。 その均衡の要因……相沢祐一が既に命を落としていることも知らずに。 彼女はまた走る。 奪うために。彼女の望んだ世界を手に入れるために。 走る。 辿り着いた先は二階、ロビーが広く見渡せる廊下。 彼女の見据える視線の先。一人の人間がいた。 それは七瀬彰と呼ばれる、殺人に身を染めた青年。 彼は何も気付いていない。監視する者もまた、監視されていたということに。 名雪は何も感想を持たない。動く人だから、殺すだけだった。 ジェリコ941を向ける。倒れるまで名雪は撃ち続けるだけだ。 指がトリガーにかかる。彼女が狩りを始める。一方的な狩りを。 だが―― 名雪は一歩身を引く。そこに一陣の風が凪ぐ。 名雪が踏み込み、豪風の元となったモノを力任せに手繰り寄せる。 虚を突くような行動に、持ち主は見事に引っかかり手放してしまう。 名雪が反撃に転じる。奪った得物を振り回し、獲物を一突きにせんとする。 獲物は、狩られる存在ではなかった。 続け様に取り出す武器で、名雪の攻撃を弾き返し距離を取る。 名雪はジェリコを構える。 相手も拳銃を構える。 銃声は同時だった。しかし放たれた銃弾は、お互いの肉体を引き裂くことなくそれぞれの脇をすり抜けていく。 お互いが回避を視野にいれて行動した結果であった。 「ちっ、流石にあの暴力女を退けただけのことはある……か」 「……邪魔、だよ」 片手に薙刀、片手にジェリコを持つは水瀬名雪。 片手に鉈、片手にM1076を持つは天沢郁未。 二人の美しき戦乙女が、そこに対峙する。 先程の激しい攻防とは一転して、今度は二人とも動こうとはしなかった。 二階の廊下は動き回るにはいささか狭く、連続した攻撃を避けるだけのスペースが殆どないということもあって下手に動けなかったのだ。 先に動いた方が不利。 動くなら同時。 瞬時に二人ともがその結論に達していたことは彼女らのレベルがほぼ同じであることの証拠だった。 しかし郁未には若干の余裕があった。 倒せなかったとはいえ、あの那須宗一と引き分けに持ち込めた自分の力量。 そして十波由真と笹森花梨を殺害したことで手に入れたいくつかの武器。 名雪がどれだけ武器を持っているかは存ぜぬが、互角以上に渡り合える自信はある。 焦る必要はない。じっくりと敵の挙動を見定める。 それが郁未の方針だった。 郁未の微動だにせぬ様子を、名雪も観察する。 即座に、相手から動くことはないと結論づける。 ならば、自分の絶対武器とする領域で先に仕掛ける。 目を少し移し、自分達がいるこのフィールドを名雪は観察する。 一階へと続く階段への距離は、互いに2メートル前後といったところか。 ひとつ走り込めば、容易に広く戦える場所へと移動は可能だ。 その時間が確保できるか。 郁未に勝つためにはそこで戦うことが必須の条件だと考えた名雪は少し考えて、策を練り上げる。 決まれば、行動は迅速だった。 すっ、と名雪は郁未から奪い取った薙刀を突き出すように構える。もちろん、全然届くはずもない。 目を細める郁未。仕掛ける、とは思ったが何をするのかが予測出来なかった。 投げるにしても突き出していたのではどだい無理な話。 突進するかとも考えたが、拳銃に蜂の巣にされるのが落ち。 そもそも、動くなら相手に向かってではなく、逃げる方向に動くのが定石―― そこまで郁未が考えたところで、ついに名雪が『動』に転じた。 パッ、と名雪の手から薙刀が離れる。一瞬、郁未はそれに気を取られ凝視してしまう。 それが名雪の狙いだった。 不可解な挙動で相手に考えさせ、一つアクションを起こしてそれに気を取らせる。 フェイントの応用だった。祐一と遊ぶときに、彼がよく使う手段でもあった。 僅かに反応が遅れる郁未。それだけで十分だった。 猛獣の如き勢いを以って名雪が駆ける。M1076の狙いはまだ付けられていなかった。 その間に手すりに飛び乗り、滑るようにして階下へと下る名雪。 「く!」 苦し紛れにM1076を連射しようとした郁未だったが、ここで彼女が一つミスを露呈する。 放たれた銃弾は一発のみで、それ以降は空しい弾切れの音だけが響いた。 新しく武器を手に入れ、チェックすることにかまけていたお陰で銃弾の再装填を忘れていたのだ。 当然、一発発射された銃弾も当たるわけがなく。 一階へと降り立った名雪がお返しとばかりにジェリコを連射する。 見事に策にかかってしまった郁未だが、彼女とて不可視の力の持ち主であり、激戦を潜り抜けてきた猛者である。 「ナメてんじゃないわよ!」 撃たれた弾は三発。 先に撃った二発の銃弾はあらぬ方向へと飛んでいったが、最後の一発が正確に郁未の胸を捉えようとしていた。 だが郁未は、半ば神懸り的な勘で弾道を読み、鉈の刃でそれを受け流したのだ! そのまま階下へと突進。更に迫る銃弾をことごとく回避し、郁未が鉈を振るう。 銃を撃っていたことで動きを遅らせた名雪だが、ギリギリのところで鉈を避ける。 だが髪までは避けきることが出来ず、パラパラと少なからぬ髪が宙を舞う。 この機を逃さず、さらに追撃。 弾切れになったM1076を投げつけ、防御体勢を取らせたところで回し蹴りを見舞う。 下腹部にまともに命中した名雪だが、大きく後ずさったのみで転倒するまでには至らず、再び距離を取ろうと後退を始める。 郁未は新たに銃を取り出そうとはしなかった。 彼女の戦いの大半は薙刀や鉈による肉弾戦が主体で、本人もそちらが相性が良いと考えていた。 僅かながらに残った不可視の力もそれに一役買っている。銃撃はやはり、集中力もないと上手くいかないのだ。 鉈を大きく振りかぶって、横薙ぎに首を狙う。 後退しつつも油断なく構えていた名雪は前転して避ける。が、それで隙を見せるほど郁未は甘くない。 「おっと」 鉈を振ったときの反動を利用し、そのまま回転を加えながら再び鋭い蹴りを叩き込む。 これまたクリーンヒットした名雪は今度こそ大きく弾き飛ばされ、転倒させられる。 郁未は間を置かずに攻め込み、既にトドメとなりうる鉈の一撃を上方に振り上げていた。 だが自分の命を奪うであろう凶器を目の前にしても名雪は淡々と行動を続けるだけだった。 冷静に、そして的確な狙いを以って懐から取り出した『ルージュ』を向ける。 「!? っぐぅ!」 何かを取り出し、こちらに向けていることを瞬時に理解した郁未は慌てて動作をストップさせたものの、名雪の方が一歩早かった。 ルージュ型の銃から放たれた渾身の一発は郁未の脇腹を僅かに抉り、ダメージを与えていた。 後一秒でも遅ければ弾は郁未の中心を貫いていただろう。 死ななかっただけマシとはいえ、その奇襲は彼女を激昂させるには十分だった。 「殺して……やるッ! 絶対にッ!」 額に青筋を浮かび上がらせ、緩みかけていた腕にありったけの力を篭める。 名雪はもう立ち上がっていたが、関係ない。どこまでも追い詰めて斃すだけだ。 逃げるように駆け出した名雪を、続けて郁未も追う。 かけっこか。やってやろうじゃないの。よーい……どん! 郁未が不敵な、どこまでも狡猾で凶暴な笑みを浮かべて、二人の走り合いが始まる。 普段があんな性格だったとはいえ、曲がりなりにも陸上部の部長を務めていた名雪と、不可視の力を持つ郁未。 速力だけで言えば、これも二人は同レベルだった。 思っていた程には差を詰められず、じりじりとした苛立ちが郁未の中に積もってゆく。 (く……それにしても、どこまで行く気よ) 郁未はホテルの入り口を背にしていたため、必然的にホテルの奥へしか逃げられないのは分かる。 だが小部屋に逃げるでもなく、隠れてやり過ごそうという意思が見えない。 また策か? 郁未の中に疑心が芽生えるが、そうやってやられてきたことを思い出す。 誘い出そうとしているのかしら? ……まさか! ハッと郁未に一つの可能性が浮かぶ。 まだこのホテルの中には戦っている人間がいる。七瀬留美と、他にも誰かがいるはずだ。 そいつらと鉢合わせさせて、同士討ちにさせる……これが名雪の策に違いなかった。 なら、それにむざむざ引っかかってやる義理はない。予定変更だ。 追っていた足を止め、踵を返すと郁未は元いた一階のロビーに直行する。 今までの探索の結果、出入り口は一階の正門しかないことが分かっている。 実に雑で手抜きなホテルだと呆れるばかりだが、戦うにはここまで好都合な場所もない。隠れるにも好都合な場所でもあるが。 ともかく、そこで待ち伏せすれば自ずと名雪はそこに来る。いくら誘い込もうが、出入り口で待ち伏せされればどうしようもあるまい。 いざとなれば逃げ出せばよい。 (そんな気は、さらさらないけどね) じくじくと痛みを発している脇腹を押さえる。 出血はほぼないが手傷を負わされたことは郁未のプライドに障った。 何としてでも、あの小娘は殺す。 その決意を込めて、辿り着いた先……ホテルの出入り口の前で郁未は仁王立ちして名雪を待つ。 無論、投げつけたまま放置していたM1076はしっかりと回収し、リロードも忘れずにしておく。 さあ、来い。壮絶にブチ殺してあげるから。 そうして待つ。ただ待つ。恋焦がれるように。 奇妙な、しんとした静寂が包み込んでいた。 先程まであった戦いの鐘は鳴ることなく、不思議な暑さと塵のようなものが空中を飛んでいるだけだった。 (……暑い? いや、これは) 体温が上がっているのではない、と思った。暑くなっているのは……このホテルだ。 理由はすぐに察しがついた。あの放火女の仕業だろう。あちこちに火を放っているのなら、そりゃ暑く……いや、熱くなる。 ますます好都合だと郁未は己の作戦が上手くいくことを確信する。 この様子では隠れていようが、いずれ火に追い立てられて飛び出してくるに違いない。 やはり狩人は、こちらなのだ。 惑わしてくれたが、最終的に勝つのはこちらだ。我慢比べと行こうじゃないか。 また我慢か、と郁未は思ったが今度は逃げるための我慢ではない。勝利するための我慢だ。 そう考えると、自然と気分が昂揚してくる。 早く、早く出て来い。この血が滾らないうちに。 そうしてふと見上げた視線の先。 「……はっ、やっぱり、私の勝ちね」 二階、階段の上に一人佇む、水瀬名雪の姿。 実は郁未の予測は当たっていた。 身体能力に関して郁未の方に分があると考えた名雪は七瀬留美と交戦させるべく走り回っていたのだが、意外と早く郁未が意図に気付いてしまった。 ならば戦術を元に戻し、待ち伏せに切り替えようとした名雪だったが、そうはいかなかった。 どこかで火が放たれたのか、炎がホテル各所に燃え広がっており、已む無く脱出するしかないと判断したのだ。 ついでに放置されている薙刀を拾ってから脱出しようとした名雪だったが……拾った先に、待ち構えていた郁未に発見されたのだ。 「ラストバトルと行こうじゃないの!」 郁未がM1076を持ち上げ、名雪がジェリコを持ち上げる。 最初の刺し合いに戻ったかのように、二人の取った行動は同じであった。 数十メートルの距離を置いて交差する弾丸の群れ。まずは銃撃戦のセオリーとして、敵の射撃に当たらぬよう回避しながら撃ち続ける……はずだった。名雪を除いて。 あろうことか、臆することなく名雪は射撃の雨の中を突っ切ってきたのだ! 死をも恐れぬ名雪の行動に、郁未は驚愕しつつもさらにM1076を連射する。 近寄ってくれば、当然相手との距離も縮まる。即ち当たりやすくもなる。 名雪に弾丸が命中するのもまた必然だった。連射した二発の弾丸が名雪の腹部ど真ん中へ命中する。普通ならば致命傷である。 が、何も策もなく突進するほど名雪は無謀ではなかった。彼女が突っ切れて来れたのは身に纏っていた衣服――防弾性能のついた割烹着――のお陰だった。 多少足を遅らせたものの、前進を止めることはできなかった。 撃たれても平気で攻め込んできた名雪に今度こそ郁未は動揺し、切磋の判断を誤る。 弾切れを確認するため残りの弾数を確認しつつ撃っていたのだが、迫る名雪にカウントを忘れてしまう。 薙刀を構える名雪。射程に入るまでは残り数歩。焦った郁未がM1076を撃とうとしたが、カチリと響く弾切れの音。 しまったとデイパックを無理矢理下ろし、中に手を突っ込むが、中身を取り出すよりも早く名雪が攻撃動作に入った。 ガツン、という鈍い音と共に名雪がM1076を叩き落す。「あうっ」と郁未は短い悲鳴を上げる。 勝利はわたしのものだよ、と名雪は確信する。 リロードを行うはずだったM1076はその手から零れ落ち、仮に鉈を取り出そうにも薙刀の方が射程が上だ。 郁未の攻撃は届かない。 「腕ごと叩き落さなかったことを、後悔するのね!」 「!?」 が、郁未が取り出したのは予備弾でも鉈でもなかった。 彼女にとっての虎の子、トカレフTT30が郁未の手の中に握られている。既にトリガーは指にかかって。 裏をかかれたのは名雪の方だった。この近距離ならば外さないと向けられた銃口は、名雪の肩に向かっていた。 「……っぐ!」 実に久方ぶりとなる悲鳴が、名雪の口から漏れ、どすんと尻餅をついてしまう。決定打だった。 立ち上がろうとした名雪の鼻先に、つんと生臭い匂いのする鉈の刃先を突きつけられる。 郁未の行動は迅速で、容赦がなく、また冷静だった。 弾丸は無駄に消費しない。しかし立ち上がらせる暇も与えない。 それでも必死に反撃に転じようとする名雪が薙刀を持ち上げるが、もう鉈は振り上げられていた。 終わりだ。今度こそ郁未がトドメを刺さんとしていた。 けれども、またもや予想外の要因に阻まれた。 ドン、と地響きのように足元が揺れてバランスが崩れてしまう。同時に、耳をつんざくような大音響。 「うわっ!?」 爆発か!? と郁未が思ったときには、既に名雪は脱兎のごとく駆け出していた。 しまったと狼狽した郁未だが銃を取り出すにはいささか遅すぎた。 それに揺れは続いており、とても狙いの付けられる状況ではない。 く、と歯噛みしながらその背中を見送るしかなかった。 ここまで追い詰めておきながら……と郁未は怒りも露にホテルの奥を見やる。 どこの誰だか知らないが、余計なことを! またもや『予想外』に妨害された郁未はその元凶を始末すべく、鼻息も荒く階段を駆け上がる。 ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな! どこまでも私の邪魔をして、許さん! 叩き殺してやる! 郁未の憤りは、もはやこの場全ての人間を抹殺するまで収まりそうもなかった。 * * * ホテル三階の構造は、少し特異な作りになっている。 中央部分に大宴会どころか結婚式の披露宴まで開けそうな大会場があり、その周りを取り囲むようにして廊下が繋がっている。 他に部屋は殆どなく、披露宴の会場前にエレベーターがあることと小規模な部屋がいくつかと、自販機が数台あるだけだった。 その廊下を、疾走する二人の女の姿があった。 「あはっあははははっははははっははぁぁぁああぁあぁ、いひ、いひひっひひ、全部全部燃え、燃え、大火事だぁ〜!」 「くっ……まともに近づけない……!」 荒れ狂う炎の嵐の中、汗と涎、涙で全身をぐしょぐしょにしながらも狂乱の様相を呈して火炎放射器を放ち続ける小牧愛佳と、追う七瀬留美。 既に三階はあちこちが炎に包まれていた。 スプリンクラーはまともに機能せず、消火器もない状況で火は燃え広がる一方であった。 熱気に押されて七瀬はSMGUを向けることもできず、放射器の燃料切れを待とうにも一向に収まる気配がない。 愛佳の動きも徐々に緩慢になりつつあるが足の動きは止まることを知らず、前進しながら炎を撒き続けている。 実に埒が明かない。七瀬はイライラを感じつつも何も出来ない自分に腹立っていた。 (何よ……なんなのよ、これは。この私が、七瀬留美がこんな小汚い悪党相手に手こずっているなんて……っ!) 怯え、隠れ、逃げ惑ってこちらを悪だと決め付け、隙を見せれば手のひら返して殺そうするような奴に。 自らが絶対の正義だと信じている七瀬は狂ってしまった愛佳の心情など意に介しようともしない。 そもそも彼女と合流しようとしたのだって自分は戦う正当な権利を所有しているのだというお墨付きを手に入れようとしていたからで、愛佳はそのための道具とに過ぎなかった。そんな風に心の奥底で見下していた彼女が人の心情を察することが出来ないのは当然であった。 本来、七瀬とてこのような人物では、決してなかった。 少々ガサツでも人を思いやり、いたわり、優しい心を持って接することの出来る紛うことなき『乙女』である。 しかし、この島の異常な空気が彼女を変えてしまった。 放送で何人もの友人の死を知らされ、何度も襲われ、そして……恋心を抱いた相手まで目の前で奪われて。 絶望感と憎しみでいっぱいになった彼女が正気を保とうとするには、このような歪んだ心を持つことになるのは必然だったのかもしれない。 七瀬には、悲しみと重圧で押し潰されそうになったときに本当に支えてくれる人がいなかった……否、奪われたのだ。 七瀬留美という人間はあくまで少女であり、年相応の精神を持っていた。耐えられるわけがなかった。 だがそれを弱いと言い切ることが出来ようか? たまたま、彼女には運と、時間と、ほんの少しだけの勇気が足りなかっただけなのだ。 それを責めることなど誰にも出来はしない。彼女もまたこの島の、被害者であった。 「ぐっ……この……アホんだらァ!」 閉じた室内で火災が発生していることにより、猛烈な勢いで室温が上昇し、煙も出ている。 このままでは焼け死ぬか、煙に巻かれて動けなくなって死ぬかの二択しか残されていなかった。 業を煮やした七瀬が、熱さでくらくらする頭を叱咤しつつSMGUではなく、デザート・イーグルを取り出す。 このでかく、ゴツい拳銃ならば炎の中でも真っ直ぐに突き進むだろう、そう考えて。 連射力に頼らない、初めての射撃。そのせいなのかいい加減に狙いをつけることはせずにしっかりと両足で床を踏みしめて構える。 「頭ブチ抜いてやるわっ!」 啖呵を切るような一声と同時、轟音が響いて愛佳へと向かってマグナム弾が飛来する。 頭を狙うと言いつつ、実際は体の中心へと狙いは向けられていた。それが本能か、たまたまなのかは分からぬが、とにもかくにもそれが功を奏した。 心臓にも肺にも、放射器の燃料タンクにも弾丸は命中こそしなかったが、しかし左腕を一直線に貫く。 突如襲い掛かってきた痛みに愛佳は奇声と悲鳴を織り交ぜた声で叫ぶ。 「いぎぃぃぃいいいぃぃぃぃいいいいぃ! い、いたいの、いたいのやだやだやだやだやだやだぁ!!!」 駄々をこねて泣き喚く子供のように声を張り上げながら、痛みの元凶となったものを血眼で探す。原因はすぐに見つかった。 「く、やっぱ一発じゃ……」 「ゆるさないぃぃぃぃいいぃぃ!! 死ぬの、死ぬのいやああぁぁぁぁああ!」 虚ろになった目の中に憎悪が見えたように、七瀬は思った。 火炎放射器の発射口が焼き尽そうとしていた世界に代わって、七瀬だけを捉える。 危険を察知した七瀬は飛び退くことも追撃もせずに、背中を見せて逃げ出した。 直後、荒れ狂う炎の塊が七瀬のいた場所を飲み込む。いずれかの行動をとっていたならば猛火に焼かれ、生きながら死んだことだろう。 背中を見せる七瀬に、許さないとばかりに発射口はそのままに愛佳が後を追う。 愛佳が今最も恐れるのは死――自分の命を脅かそうとする脅威を排除することだけを考えていた。 殺そうとするものは全て焼き尽す。 消し炭にしてしまえば、動かなくしてしまえばもう襲い掛かってくることはないのだから。 「に〜ぃ〜げ〜ぇ〜な〜い〜で〜!」 どこか間延びした、以前の愛佳の面影を残す声が、かえって彼女の異常性を引き立たせる。 けらけらと笑いながら七瀬に向かって炎を噴射する姿は無邪気な姿そのもの。 人間を一つの意識のみに拘泥させて行動させればこうなる、という模範のようでもあった。 一方の七瀬は最早手の施しようがなくなった愛佳相手にどうするかと考えを巡らせる。 銃を向ければそれよりも早く放射器が火を吹く。 圧倒的な熱風の前では七瀬がつける狙いなど無意味に等しい。下手すればあらぬ方向に撃った弾が跳弾して自殺点ゲームセットとなりかねない。 どこか遠くから狙い撃ちにしようにも、この狭い空間ではそれも不可能。 大広間は逃げ道がない。壁際に追い詰められればそれでもゲームセット。 一階のロビーにおびき寄せて戦うという手もあったが、未だにこのホテル内で戦っているであろう人間たちとそこで鉢合わせする確率もある。 第三者から見れば格好の獲物だろう。それだけは避けたい。 しかし、この狭い空間でどう対抗する? こんなことなら、スタン・グレネードを取っておけば良かった…… そんな七瀬の目の前に、大広間前にあるエレベーターが目に入る。どうやら回りまわって一周してきたらしい。 ああ、あれで一気に最上階あたりまで逃げられたら―― 想像する七瀬の中で、思い当たる節があった。 「これよ!」 閃いた七瀬は喜色を含んだ声で叫ぶと、迷わず階下へと通じる階段に向かう。 愛佳はというと、どうやら息切れしてきたらしく、あらぬことを叫びながら無意味に炎を撒き、七瀬を探しているようだった。 チャンスだ。七瀬は自分に好機が巡ってきたことを確信する。あの放火魔を退ける千載一遇の好機。 だが、まだ確実な勝利へ結びつけるには一つ足りなかった。 一瞬で愛佳を殺さなければならない。時間がかかれば逃げられる恐れがあった。 そこまでは、未だ考えが辿り着いていない。 いや、何としてでも辿り着いてみせる。 何故なら、自分は悪と戦う正しく乙女なのだから。 * * * 「どこ? どこどこどこどこどこどこどこぉ〜?」 吐息も荒く、へらへらと気味の悪い笑みを浮かべつつ愛佳は一旦放射をやめ、のしのしと三階を歩き回る。 とはいっても本人の体力はかなり落ちていたので速度は地べたを這う虫のように鈍い。 けれども体力を浪費してまで走り続ける、または暴れまわるよりもこのように休憩を挟む方が戦術としては的確である。 力を出すときには出し、休むときには休む。 本人は全く意識してないが、戦うときの鉄則を実演していたことに、人間にも本来備わっているはずの獣としての本性が垣間見える。 小牧愛佳は今や狂獣であった。 そのままのペースで、ゆっくりと廊下を通り過ぎる。パチパチとカーペットの化学繊維が爆ぜる音だけがホテルの中に響いていた。 エレベーターの前を通り過ぎ、廊下の角に差しかかろうとしたときであった。 愛佳の後ろでガタン、と何かが倒れる音がした。 反射的に振り向き、放射器のトリガーを引く。瞬く間に炎が溢れかえった。 「くっ!」 追い立てられるようにして、いつの間にか愛佳の背後に回りこんでいた七瀬が飛び出す。 どうやら観葉植物の裏に隠れていたようだが、狙い撃ちしようと身を乗り出したときに倒してしまったらしい。 あは、と喜色満面に引き返し、続け様に炎を振りまく。 たまらないという風に七瀬は顔をしかめ、またもや退却を始める。 「えへへへへへへ、こ、今度はにがさ、逃がさないよぉ〜! えへえへへへへへへへへ」 それなりにスタミナの回復を行えていた愛佳はとてとてと小走りに七瀬を追いかける。 角を曲がった先で待ち構えていないとも限らないので角を曲がる際には一度炎を噴射する。 果たして予想通り、銃を持って待ち構えていた七瀬は悪態をつきながらさらに退却していく。 ちらりと横目で燃料メーターを見る。まだまだ容量は十分であった。満足げに愛佳は頷く。 だって、これはかみさまがあたしにくれたプレゼントなんだから。こわいこわいものからまもってくれるおまもりなんだから。 だからあたし、焼くよ? 全部ぜんぶぜんぶぜんぶぜんぶ真っ赤にしてあたしだけのばしょにするんだから。 妄想を膨らませつつ、学校での図書館のように、誰にも、絶対に汚されない場所を作り上げるために愛佳は炎を散らす。 本人は無意識だったが、三階に留まり続けていたのは自分だけの場所で、安穏として暮らす。そういう考えが根底に渦巻いていたからなのであった。 逃げる七瀬はいくつかの小部屋に飛び込もうとするが、直前で愛佳の炎に阻まれてまた後退を余儀なくされる。 どこにも逃げ場所なんてあるわけがないのだ。何故なら、ここは愛佳だけの世界なのだから。 かくれんぼは絶対に彼女の勝ちである。 そのまままた一周して、愛佳が四つ目の角を曲がる。と、そこで愛佳は七瀬の姿が忽然と消えているのに気付いた。 「……うふ、うふふふふふ。ざんねんざんねん。あたしから、にげ、にげられるわけないよぉ〜。いっぱい燃やして燃やして燃やして燃やして……」 理由はすぐに察しがついた。きっとエレベーターに乗り込んだに違いない。 スキップでもするように軽い足取りでエレベーターに近づいていく。 「ほぅら、あたり〜」 エレベーターの上昇スイッチが点灯している。 どうせ上からまた階段を下りて奇襲する気なのだろう。 そうはいくまいと左右の階段を見渡そうとした愛佳だったが…… 「あれ?」 よくよく見ればエレベーターは三階から動いていない。それはつまり、この階から動いていないということ。 んー、としばらく考えた愛佳だが、やがて一つの結論に至る。 「えへへへへ。そうか、きっとまだこの中にいるんだぁ。あたしがー、向こうに目を向けてるときにー、うしろから……ってことか」 エレベーターは必ず上昇、あるいは下降するという認識を逆手に取った作戦だ。 だが、愛佳はその作戦に気付いた。これで窮地に追い込まれたのは相手の方だ。 何故なら、相手はまだこのエレベーターの中に潜んでいるのだから。焼き尽すのは容易い。 こちらからエレベーターが開けられぬわけがない。 えい、とボタンを押して放射器のトリガーに手をかける。 後は扉が開いた瞬間に炎をぶちまければいいだけ―― 「いたかったんだからいたかったんだから、いっぱい燃やしてあげるよぉ」 僅かに扉が開き……同時に火炎放射器のトリガーを引く。 その瞬間。 「――え?」 閃光と共に、愛佳の意識は潰えた。 * * * 鼓膜を破らんばかりの大音響と大地震にも勝らぬ揺れが七瀬留美を襲う。 立っていることが出来ず、思わず七瀬は階段の手すりに手をかけて揺れが収まるのを待った。 余程の大爆発があったらしく、三階の一部が崩れ落ちて瓦礫と化していた。 そして、爆心地であるエレベーターは文字通り木っ端微塵。 「くく、あははは、あっはははははは!」 あまりにも上手く、そして想像以上の結果であったことに思わず大声を出して笑う。 あの様子では確実に愛佳は死んだはずだ。いや、本人は死んだことさえ理解していまい。ざまあみろ。 放火魔の末路に相応しいと思いつつ、まだ笑いが収まらない七瀬は壁に背をもたれさせて己の幸運に感謝する。 エレベーターは狭い。そして密室だ。 密室の中で、炎を吹き散らせばどうなるか。 それが七瀬の考え出した作戦の一つ。 だがそれは相手が完全に閉じ込められていなければ完全に上手くいくとは言えなかった。 そこでもう一つ、七瀬が考え出したのが『粉塵爆発』だ。 狭い室内で小麦粉を……可燃性の微小な粉末でいっぱいにし、十分に酸素があった上でそこに引火すると起こる現象。 七瀬はこれをエレベーターでやってのけたのである。 まずエレベーター自体が動かなかったため、一階まで降りてエレベーターに電源を通す。 一階に電源があるというのは完全な勘であったが、ホテル内の管理を一階以外でやっているとは思えなかった。 予想通り、一階にある従業員専用の通路から電源室に入り、エレベーターの電源をつけることが出来た。 これで第一段階は終了。 残る問題は粉塵爆発の要となる可燃性の粉末だった。 できるだけ短時間で探したかった(愛佳が逃げる、もしくは追う可能性があったから)ので見つけられるかどうかが勝負だったのだが……探すまでもなく、それは『落ちて』いた。 一階に下りるには二階吹き抜けの階段からだけでなく、左右の階段からも一階に降りる事が出来る。 そこを使って降りた際、花梨や由真の死体と共にいくつかのモノと一緒にたまたま『古河パン』セットが落ちていたのだ。 以前はエディの支給品であった代物だが、花梨が引き継いでおり、彼女の死と共にそのまま放置されていたのだ(郁未は興味を示さなかった)。 しかもご丁寧に説明書つきであったために、七瀬はそれを十分使えると判断するに至った。 後は再び三階まで戻り、適度な速度で愛佳と応戦しつつ、エレベーターを開け放ってそこにありったけの古河パンを投げ込み、自らはそのまま階段へ逃げ込む。後は色々推理してくれた愛佳が勝手に勘違いして、エレベーターの中に炎を撒いてくれるのを待つだけで良かった。 色々と賭けのような部分はあった。愛佳が思い通りに推理してくれるとは限らないし、階段に逃げ込む前に目撃されることも在り得る。 だが愛佳が角を曲がるときにはご丁寧に火炎放射器を噴射してくれたことで彼女がそれなりの理性はあるということに気付けたし、 体力を消耗しないためなのか、こちらの速度に合わせるようにして動いてくれたので最後、角を曲がったときの猛ダッシュまでは読みきれていなかった。 それでも色々と運に任せた部分は大きい。それを掴み取れたのはひとえに自分が……『正義』であるからに違いない。 そう、善人が勝ち、悪人が滅びるのがこの世の理なのだ。 「そうよ、あんな人を平気で裏切るような奴に負けるわけがないのよ」 七瀬はようやく笑いを収めると階下へと向かう。 先程の爆発でホテルのあちこちに傷がついた上に火も依然として広がっている。下手すればここが崩れる可能性もあった。 さっさと脱出するに限ると思い、階段を下りようとしたとき、一人の人物と鉢合わせする。 「「あんたは……!」」 同時に、全く同じ言葉。 表情まで一緒だった。二人ともが怒りを露にして、七瀬がデザート・イーグルを。郁未がM1076を抜く。 「あんたさえ居なければ!」 「あんたが下手なことやってくれたお陰で!」 憎しみをありったけ込めた銃声が、このホテルにおける新しい戦いの始まりを告げた。 * * * 人の一念岩をも通す、という言葉がある。 互いに放った一撃はまさにそれだった。 七瀬のデザート・イーグルは郁未の左肩を貫き、それと対照になるかのように郁未のM1076は七瀬の右鎖骨下を貫いていた。 ダメージが大きかったのは骨にまで響いた七瀬の方だった。 一瞬怯んだのを見逃さず、郁未がもはや相棒と言えるまでに使い込んだ鉈を片手に階段を駆け上がる。 この距離で銃を撃つわけには、と判断した七瀬は手斧に持ち替えながら三階廊下へと移る。郁未もそれを追って廊下へと駆ける。 「これは……」 郁未が目にしたのは崩れていたエレベーターと燃え広がる床。 壁材も炎で爛れ、崩れたものは炎の雫となってあちこちで垂れ落ちている。煙もひどい。 呼吸困難になるほどではなかったが、早々に決着をつけねば火に巻かれる恐れがある、と判断した郁未は七瀬の姿を目で追う。 彼女はあちこちの瓦礫を器用に避けながら大広間へと通じる扉を開けて、そこに駆け込んでいた。 どうやら、自分達の決戦場所はあそこであるらしい。 ふんと鼻を鳴らし、片手にM1076、もう片手に鉈を持ち大広間へと向かう。 熱くてたまらない。この戦いに決着がついたらありったけ水を飲もう、と考える。 出来れば汗も煤も落としたいところだが、この際贅沢は言うまい。 扉は開きっぱなしになっていた。 中は薄暗く、豪奢なカーペットやシャンデリア、テーブルが見えることからかつてはさぞ賑わった場所であったのだろう。 そんなことを思いつつ、中に一歩踏み込む。 「せいっ!」 「なんのっ!」 同時に振り下ろされる手斧を鉈で受け止める。これくらいの奇襲は予想済みだ。 郁未はそのまま押し返すと部屋の中まで走り、倒れているテーブルの裏へと隠れる。 七瀬はデザート・イーグルを構えていたが、発砲をやめる。 代わりに腰を低く落とすとそのまま一直線に駆け抜ける。すると郁未も待ちかねていたように鉈を持ち、飛び出す。 銃で攻撃しなかったのにはそれなりに理由があった。 弾薬の不足がその一因。互いに無駄にしたくなかったということもあったが、そんなものは瑣末な理由に過ぎない。 自分をこんな目に合わせたこいつだけは、殺したという感覚が残る武器で倒す。 互いがそう考えていたからだ。 「天沢郁未ぃ! あんたさえいなりゃ、こんなに人が死ぬことはなかったのよ!」 「同じ人殺しのあんたがよく言うわよ、七瀬留美! あんたのお陰で、一人殺り損ねて……こちとらムカッ腹が立ってんだから!」 二度、三度と室内に金属音が反響する。 双方ともあれだけ激しい戦闘の後だというのに、まるで疲れを知らないが如く目を血走らせて殺し合いに没頭している。 ここぞというときに本当に頼りになるもの……それは己を支える精神、そう言うように。 一歩も退かぬ打ち合いが何度か続いたが、格闘戦になっている内に七瀬が弱点を突かれてしまう。 郁未が牽制として仕掛けたローキックが、たまたま七瀬の古傷を直撃したのだ。 「っ……!」 疲れを見せなかった七瀬の表情が一瞬でも変化したのを、郁未は見逃さない。 できた隙を逃すまいと踏み込んで鉈を振り下ろす。鉈は喉を直撃するコースだった。 絶体絶命だと思われた七瀬だが、己の『正義』は絶対であると確信している七瀬は諦めない。 「乙女ってのは、そんなにヤワじゃないのよ!」 無理矢理体を捻って繰り出された一撃が、郁未の右腕を浅からぬ深さで切り裂く。 激痛が体に走るが、それでも攻撃は辞めなかったのは称賛に値すると言ってもいいだろう。 しかし七瀬へのトドメになることはなく、鉈は肩に食い込み、骨にヒビを入れる程度のダメージに留まった(それでも十分過ぎると言えるが)。 「いっ……このぉ!」 「……ぐ、ナメんじゃないわよ!」 返しの一撃はシンクロ。刃先を立てるように突き出された二人の凶器がそれぞれの脇腹を抉る。 血が流れ出し、瞬く間に二人の衣服が血で染め上げられていく。それでも二人は動くのをやめない。 「あんたなんかに負けるはずがないのよ! あんたみたいな殺人鬼に! 藤井さんを殺したヤツみたいなあんたに! 勝利なんてないッ!」 「妄想で語ってんじゃないわよ! どうせ人を殺せるだけの、正当な理由が欲しいだけなんじゃないの!? そんなものを気にするなんて、あんたも底が浅い!」 「理由もなく殺すのは獣のやることよッ! 獣同然のあんたに、説教垂れられる筋合いはないッ!」 「なら、食い殺されるのね!」 一撃一撃は致命傷にならないまでも、確実にダメージは蓄積されてゆく。互いが付け合った刃傷は既に数え切れないほどに増えていた。 中々決着がつかないからか、戦い方が変わり始める。 武器に頼るよりも、それを牽制として拳や蹴りでの攻撃が主になり、顔面も狙うようになった。 七瀬が手斧を振ると同時に肘鉄が郁未の肩傷を抉る。 痛みに耐えつつお返しとばかりに鉈を振り、避けたところを飛び蹴りで鎖骨の下にある銃傷部分を攻撃した。 ならばと地面に降り立ったところを頭目掛けて手斧を振るが、鉈で受け止められ鍔迫り合いのような格好となる。 「私はここで死ぬわけにはいかないのよ……! 葉子さん……親友に誓ったのよ……何が何でも生き延びて、命を繋ぐってね!」 互いが近くなったことをこれ好機と、郁未が空いた手で七瀬にアッパーを見舞う。 顎下からの衝撃に僅かに意識が途切れたが、気合の入っている七瀬をダウンさせるには遠かった。 「私だって死ぬわけにはいかないッ! 自分勝手な人殺しに未来があるものかッ! あんたみたいな人間がいるから、皆死んじゃうのよ!」 七瀬の拳が郁未の鳩尾にめり込む。膝が震えかけたが、ここで倒れては死ぬと堪える。 郁未は足を思い切り上げると、躊躇なく七瀬の足を踏み潰す。 爪が潰れたが構う暇はないと逆に勢いの乗った頭突きをかます。 「っがぁ……!?」 これには郁未も堪らず、よろよろと数歩下がってしまう。 七瀬自身もじんじんとした痛みが頭にあったが、気にするほどではない。 胸目掛けて手斧を振ろうとした七瀬だったが、それは郁未の演技だった。 素早くかがみこむと、コンパスで描くように足払いをかける。 疲弊しきっていた七瀬にこれを避けるだけの力はなく、見事に転倒してしまう。 「貰った! 偽善者めッ!」 大の字になって寝転がる七瀬に、無常な一閃が見舞われる。 勢い良く振り下ろされたギロチンの如き刃は、七瀬の左腕を真っ二つに切り裂いた。 凄まじい血が噴出し、それだけで死に至るのではないかと思われるほどに七瀬が絶叫する。 実際、それはショック死しても何らおかしくない損傷であった。 一般の成人では人体中の血液を2リットル失えば死亡する。増してやそれまでの戦闘で血を失っていた七瀬が死なないわけがない。 郁未はそう確信していた。 「違うッ! 私が……正しいんだッ!!!」 だが七瀬は一声叫ぶと、まるでバトンタッチのように千切れた腕から手斧をもぎ取り、郁未に向かって投げつけたのだ! 「なっ!?」 あまりに予想外の行動に全く反応出来なかった。投げられた手斧は郁未の腹部に突き刺さり、致命傷とまではいかないまでも今までの中で最大のダメージを与えた。そればかりか、七瀬はよろよろと立ち上がり、未だ健在であることを示す。 手斧を引き抜きつつも、そんなバカな、と驚愕せざるを得ない郁未。 不敵に笑いつつ、七瀬は「偽善者……?」と続ける。 「私のどこが偽善者なのよ、あんたみたいなクズを全員殺して、こんな殺し合いに巻き込んだヤツも殺して、本当に優しい人だけが生き残る……どこが間違ってるっていうのかしら……? 私は、口だけの女じゃないッ!」 片手でデザート・イーグルを取り出すとそれを構え、郁未の方へと差し向ける。 「確かに、口だけじゃないけど……あんたの言う『優しい人』ってのは何なのよ! 自分の理想とする人間のことでしょ! そんな選民がかった思想で……人のことを見下すなッ!!!」 郁未はお返しとばかりに手斧を投げ返す。しかしそれは七瀬を捉えることなく、彼女の遥か真上を通過していく。 は、と七瀬は哂った。 「ほら、無駄。結局最後には……正しい人間が勝つのよ。さぁ、覚悟しなさいッ!」 「……なら、勝つのは私ね」 「何……?」 ふっ、と七瀬に影が差す。薄暗い室内であったから気付くまでに時間がかかった。そして、その時は手遅れであった。 七瀬が見上げた先……彼女の真上には、落ちてくるシャンデリアがあった。 「そんな」 私が負ける? なんで、なんでよ? 人殺しって罪じゃないの? それを裁いて、何が悪いの? なんで悪人がのうのうと生き延びるの? 理不尽、理不尽よ、こんなの…… 認めない、私はこんなの認めない。こんな間違いだらけの世界なんか認めないみとめないミトメナイ―― ガシャン、と頭に強烈な衝撃が走って……最後まで自分が『間違い』にいたことに気付けなかった、七瀬留美は死んだ。 * * * 「ち……手こずった……」 最後の一撃……天井にあったシャンデリアを手斧で落として押し潰すという策に成功し、七瀬を葬ったものの被害は甚大だった。 全身のあちこちに手傷を負い、腹部には放置できないほどの刃傷がある。 急いで服を破った布で止血まがいのことはしてみたものの、痛みが収まる気配はない。 これでは遠くへの移動は困難だった。 「く……」 おまけにこのホテルは火災を引き起こしており、それを見つけて他の参加者がやってくるとも限らない。 もうどうしようもなかった。当初の予定は全てお釈迦。 「くく、もうこうなったら……トコトンまで行くしかなさそうね」 半ば自棄、半ば腹をくくったような気持ちで、郁未はここを根城にすることを決める。 やってくる人間は全て皆殺しにする。 武器は七瀬から奪ったものがたっぷり……とまでいかなくてもそこそこはあった。十分戦える。 とはいえ、崩落しかけているここに留まるのは論外。まずはホテルの外に―― そこまで考えたとき、ガラガラと音を立てて、天井が崩れ始める。 噂をすれば、とやらだ。崩落が始まったらしい。 「まずは、ここからの脱出か……余裕だけど」 荷物を詰め込み終えた郁未は、痛む体を引き摺りながら取り合えずここからの脱出を目指すことにした。 優勝までは、もうすぐ。 まだだ、まだ私は戦える。 手負いの雌豹は、ますます牙の輝きを増していた。 【時間:二日目午後20:00】 【場所:E-4 ホテル内】 伊吹風子 【所持品:サバイバルナイフ、三角帽子、青い宝石(光四個)、グロック19(1/15)、ストッキング、接着剤、糸、バルサン、ゴム糸、支給品一式】 【状態:泣かないと決意する。全力で逃げる(現在はホテルの外)。仲間の仇を必ず取る】 天沢郁未 【所持品1:H&K SMGU(13/30)、予備マガジン(30発入り)×1、何かの充電機、ノートパソコン】 【所持品2:デザートイーグル(.44マグナム版・残弾4/8)、デザートイーグルの予備マガジン(.44マグナム弾8発入り)×1】 【持ち物3:S&W M1076 残弾数(5/6)とその予備弾丸14発・トカレフ(TT30)銃弾数(4/8)・ノートパソコン、鉈、支給品一式×3(うちひとつは水半分)、腕時計、ただの双眼鏡、カップめんいくつか、セイカクハンテンダケ(×1個&4分の3個)、S&W、M10(4インチモデル)5/6】 【状態:右腕重傷(未処置、かなり状態が悪い)、左肩、脇腹負傷、腹部損傷(致命傷ではない)、顔面に細かい傷多数、中度の疲労、マーダー】 【目的:ホテルにやってくる人間を全て抹殺。最終的な目標は、優勝して生き延びる事】 小牧愛佳 【持ち物:消失】 【状態:死亡】 七瀬留美 【所持品:支給品一式(3人分)】 【状態:死亡】 七瀬彰 【所持品:イングラムM10(6/30)、イングラムの予備マガジン×3、M79グレネードランチャー、炸裂弾×8、火炎弾×9、クラッカー複数、折り畳み自転車、支給品一式】 【状態:右腕負傷(かなり回復。痛みはほぼ無し)。左腕に打撲、左腕に切り傷、肩や脇腹にかすり傷多数、疲労大、マーダー。まず風子を抹殺。放送は戦闘の影響で聞き逃した】 水瀬名雪 【持ち物:薙刀、ワルサーP38アンクルモデル8/8、防弾性割烹着&頭巾、IMI ジェリコ941(残弾10/14)、青酸カリ入り青いマニキュア、支給品一式】 【状態:肩に刺し傷(銃弾により悪化)、全身に細かい傷、マーダー、祐一以外の全てを抹殺。ホテルのどこかに逃亡。放送は戦闘の影響で聞き逃した】 【その他:手斧は三階に放置。ホテルの一部で火災発生。崩落しかけています】 - BACK