十一時三十二分/戦舞






血煙を払うような風が吹く。
靡く髪と手の刃を銀と閃かせ駆ける、それは人を捨て人を超えた、風である。

「―――中枢体がどこに潜んでいるのか、分かっているのか」

既に再生を始めた、ぼこぼこと粟立つように蠢く巨人の腕を睨みながら光岡悟が問う。

「長瀬は賢しらだが、臆病な男だ」

駆けながら答えた坂神蝉丸が踏みしめる右の足からはぐずぐずと濡れた音がする。
軍靴の革に染み出した鮮血は、未だに止まっていなかった。

「そんな男が、切り札を手の届かぬところに置くはずもない。
 ならば―――最も守るに易く、攻めるに難い場所に篭っているだろうさ」

しかしその声は傷の痛みを感じさせない。
見上げる先には、巨人の影。
力の込められた視線が射抜いていたのはその一点である。
一糸纏わぬ裸体、蝉丸自身が抉った乳房の更に上。
痛みと怒りに震える白い喉笛が、そこにあった。

「……ふん」

鼻を鳴らした光岡がそれ以上何も口にしないところをみれば、蝉丸にも自身の回答が
的外れでなかったことが判る。

「しかし……言うは易し、か」

口の中で呟いた蝉丸が、改めて巨人を見上げる。
片腕を喪い、咆哮を上げる巨躯が身を起こそうとしていた。
山頂の狭い尾根を埋めるように膝立ちになったその巨躯は、見上げなければ
その全身像を視界に入れることすら叶わない。
目指す喉笛は、実に二十数メートルの高みにあった。

「辿り着くより他に、道は無いと知れ」

光岡の怜悧な声。
戦が、再開される。


***

 
「何が起こったッ!?」

天沢郁未が叫ぶ。
眼前で濛々と土煙を上げているのは樹齢千年の大樹もかくやという巨大な質量。
びくびくと蠢く、巨人の腕である。

「……もう少しくらい周りを見ないと、長生きできませんよ」
「鉄火場だ! 余所見してらんないでしょ!」

遠くから響く声に怒鳴り返し、眼前を睨む。
地に落ちた巨大な腕がもぞもぞと粟立ち、見る間に無数の塊に分かれていく。
塊の一つ一つは、人の形をしている。
それは砧夕霧の群体から成る巨人が、その構成要素を再構築しようとしている様であったが、
郁未にそれを理解する術はない。
ただびっしりと植えつけられた卵から蟲の仔が孵るようなおぞましい光景に唾を吐き捨てると、
手にした薙刀を脇に構え、走った。
横薙ぎに振るえば、鉄の塊が人体を破壊する幾つもの感触。
当たるを幸いに、死を撒き散らす。
頭蓋骨の下の脳漿が、肝臓の向こうの脊髄が、爆ぜ砕けて辺りを汚した。
刃に込められていたのは怒りではない。
天沢郁未を突き動かしているのはどろどろとした、抑えがたい嫌悪感である。
人の尊厳というものを貶めるような眼前の光景が、ひどくその胸をざわつかせていた。
人の世から爪弾きにされた女は、だから人を超えた力を振るい、人の成り損ないを、殺していた。
巨人の腕から分かれ、ぼとりと地面に落ちる個体が、その瞬間に胴を両断され、
或いは頸を掻き切られて命を絶たれていく。
噴き出す血が大地に吸い込まれるより早く、新たな血煙が上がっていた。
それは到底、戦闘と呼べるものではない。
嫌悪という感情のみに立脚して人の成り損ないを殺す、それは一切の誇張なく語弊なく、
虐殺であった。

「―――ッ!?」

そんな郁未の凶行を止めたのは、背筋に走った戦慄である。
第六感とでもいうべき感覚に突き飛ばされるように、咄嗟に身を投げる。
一瞬だけ遅れて、郁未の立っていた場所が、震えた。
地響きを立てて落ちたものを巨人の拳と認識し振り返った郁未がしかし、
予想外の光景にほんの僅か、動きを止める。
そこにあったのは砧夕霧の拳ではない。
しかし、巨躯である。それは人を凌駕する大きさの、一匹の獣であった。
白銀に輝く流麗な毛並みに、墨で描かれたような雄々しい漆黒の縞が流れている。
鋭く、乱雑に並んだ牙には鮮血と思しき褐色と黄色がかった粘つく唾液をたっぷりと纏わせ、
その隙間から臓物に響くような低い唸りを上げていた。

「虎……!?」

郁未が戸惑ったように呟く。
現実離れした大きさの白虎は、そればかりでない奇異を抱えていた。
白い毛並みの続いていなければいけないその四肢が、黒く染め抜かれていたのである。
それが体毛の黒であれば、まだ頷けた。
しかし、巨獣の四肢を包んでいたのは美しくも豪壮な毛並みではない。
それはまるでコールタールで固めたような、醜い黒。
ごつごつと角ばった皮膚は細かく罅割れ、ぽろぽろと破片を落としそうにすら見える。
四肢の先端からは爪が伸びている。真紅の、異様に長細い爪だった。
何かを切り裂くという一点にのみ執着した狂気の刀匠が鍛えたような、妖しくも鋭い爪。
巨躯を支えるべくもないそれもまた、獣とはひどく不釣合いだった。
尾のあるはずの場所からは、男の腕ほどもある太さの蛇が、牙を剥いてのたくっている。
総じてそれは、奇怪と呼ぶべき存在であった。

「……ったく、次から次へと……!」

吐き捨てて身構えた郁未を、しかし巨獣の赤い瞳は捉えていない。
眉を顰めた郁未がその視線を追えば、そこに更なる影がある。
勇壮な黄金の鎧を纏った、しかし幽鬼の如き影。
巨獣は、ただその影とのみ対峙しているようだった。
ゆらゆらと巨獣に向かっていく、黄金の影。
そのひどく場違いな光景に気を取られていた郁未が、瞬間、はっとして飛び退る。

「ちぃ……ッ!」

横合いから迸ったのは一筋の閃光。
掠めた袖が炭化して嫌な臭いを上げた。
見回せば幾つもの輝き。
ぎらぎらと額を光らせた夕霧の群れに取り囲まれていることにようやく気付いて、郁未は舌打ちを一つ。
巨人の腕は既に半分方が解体し、素の夕霧の姿に戻っている。
幾筋もの熱線が光の格子と化して迫るのを、郁未は横っ飛びに転がるようにして回避。
低い姿勢のまま地面を削るように刃を薙げば、膝から下を切り落とされた夕霧たちが
ぼたぼたと血を流しながら倒れこむ。
前線の夕霧が倒れるその一箇所で光の格子に穴が空いた、その隙を逃さず郁未が疾走する。
密集した夕霧の群れの中、切り上げれば股から二つに両断された骸が左右に分かれて倒れ伏す。
返す刃は右正面の夕霧の顔面を断ち割り、その勢いのまま並んだ少女の手首を落とした。

「鬱陶しいんだよ、雑魚がッ!」

叫ぶ口に返り血が飛び込むのを唾と共に吐き棄てる。
殺戮のノルマは二秒に一人。
振るった刃が臓物を裂き、足を切断し、頸を斬り頭を貫き通して命を削っていく。
噴き上がる鮮血が精神を高揚させる。
骨ごと肉を断つごりごりとした感触が郁未を忘我の淵へと誘い始める。
悲鳴の代わりに響く血だまりの水音をすら心地よく感じ始めた、そのとき。
郁未の刃が切り開いた道の先に、影が落ちた。
傲、と咆哮を上げるのは白い巨獣。

「またか……っ!」

殺戮のリズムを崩されたことに苛立ちを隠さない郁未の眼前、巨獣が跳ねる。
行く手の夕霧をその重量と鋭い爪で文字通り薙ぎ倒しながら目指すのは、やはり黄金の影。
幾筋かの閃光がその身に浴びせられるが、しかし人体を黒焦げにする熱線にも
巨獣の白い剛毛は僅かに毛先を焦がすのみである。
まるで意に介さず駆ける巨獣の突進に、黄金の影がなす術もなく吹き飛ばされるかに見えた。
しかし、

「な……っ!?」

足を止めず傍らの夕霧を刺し貫いた郁未が目を見張る。
吹き飛んだのは、巨獣である。
物理法則を無視するかのように、大きな弧を描いて巨獣が宙を舞う。
受身を取ることもなく、どう、と大地に落ちた巨獣の下敷きになって何人かの夕霧が磨り潰された。
密集した夕霧の人波が、煽りを受けて将棋倒しに転がっていく。

「邪魔だっての!」

目の前でバランスを崩した夕霧が倒れこんでくるのを薙刀の柄で弾き、空いたスペースを薙いで
幾つもの血煙を上げながら、郁未が毒づく。
立ち上がった巨獣は再び疾走の構え。
迎え撃つ黄金の影もまた、周囲の夕霧には何の関心も払わない。
無人の野に対峙するが如く、一人と一匹は激戦の神塚山に独立した世界を築いている。

「少しは空気読めよっ! イカレてんのか、あいつらっ!」

叫ぶ郁未が、ちらりと辺りに目をやる。
隻腕を振り回しながら特大の閃光を放つ巨人は、しかし郁未たちの方を向いていない。
軍服を纏った銀髪の男たちがその正面に立ち、一歩も退かずに刃を交えているようだった。
と、巨人がぐらりと揺れる。
大地そのものが傾いたかのような錯覚を覚えながら見れば、膝立ちになった巨人の、
その左の膝の付け根に小さな影があった。
影が小さく動くたび、巨人が揺れる。
巨人の白い肌が裂けて大地が揺れ、桃色の真皮が断たれて大地が揺れ、神経索と筋肉と血管が
ぶちぶちと千切れて大地が揺れた。
垣間見えた灰褐色の軟骨に向けて影が何かを振り下ろした瞬間、とうとう大地が、崩れた。
大瀑布のように倒れる巨人から飛び退った影が、振り向く。
何事かを呟いた声は郁未の立つ位置までは届かない。
しかし郁未にはその影の呟きの、皮肉げな声音までがはっきりと聞こえるようだった。

 ―――ですから、もう少し周りを見てくださいね、郁未さん。

鹿沼葉子。
天沢郁未の相棒は倒れ込む巨人の影をよそに、返り血に固まった長い髪をかき上げて、
いつも通りつまらなそうに口の端を歪めていた。


***

 
「―――好機だな」

骨と肉のない交ぜになった醜い塊が、天から槌の如く振り下ろされる。
叩きつけられた衝撃で大地を抉り、巻き起こす風で四方に岩礫を飛ばす一撃は、
半ばまで再生された巨人の拳である。
直撃すればいかな仙命樹の主といえど即死は免れ得ない打撃を前にして、まるで
そよ風が吹き抜けたとでもいうように眉筋一つ動かさず口を開く光岡に、蝉丸が
やはり表情を変えずに頷きを返してみせる。

「ああ……足を落としたのは鹿沼葉子か。先程からこちらの動きに合わせていたな」

久瀬少年を通じて得た最後の情報と照合し、その名前を口にする。
浮かびそうになった名状し難い感情は強引に押さえつけた。
葉子の戦術は明快だった。
自身とこちら、双方に巨人の注意を分散させることで集中攻撃を避けながらの一撃離脱。
こちらが退けば葉子が鉈を振るい、葉子が下がればこちらが白刃を閃かせる。
膝立ちになった巨人の両の足へと交互に加えられた攻撃は功を奏していた。
遂にバランスを崩した巨人が、堪らず片手を大地に突いたのである。
落とした片腕はまだ再生できていない。
隻腕を封じた今、巨人に残された攻撃手段は額からの直線的な閃光のみ。

「小賢しげで気に入らんが、兎も角も情勢は読めているようだ。
 この機を逃さず畳み掛ける」

言い放った光岡が左に大きく跳ねる。
同時に跳んだ蝉丸は右。
岩盤を融解させる閃光が落ちる、正に刹那のことである。
るぅ、と吼えた巨人がぐるりと首を回したときには、既に二人は懐に潜り込んでいる。
目指す喉笛は、まだ遠い。


***

 
深山雪見に、意識はない。
眼窩を侵した毒は既に脳髄の一部へと達していた。
常人であれば死に至っている身体を支えているのは女神の加護を受けた黄金の鎧の力と、
そして対峙する巨獣に文字通り噛り付いて得た鬼の遺伝子の欠片である。
女神と鬼と、そして彼女の意識が最後まで抱いていた希望が妄執となって、雪見を支えている。
視界の殆どは、とうの昔に失われていた。
膿を零さぬ右目も白く濁って物を映さない。
巨獣を追って走る内、折れたあばらが臓物を掻き回してずたずたに引き裂いている。
両の五指は折れ砕け、互い違いの方を向いているのを、無理矢理に握りこんでいた。

深山雪見に意識はない。
生命と呼べるものも、既にその半ばまでが喪われている。
しかし、少女は立っていた。
戦う意志をもって握られた五指を、拳という。
折れ砕けた指を無理矢理に握りこんだそれもまた、拳といった。
拳を握り立つ少女は、故に抵抗者であり、狩猟者であり、戦士であった。

傲、と吼え猛る巨獣の声を、雪見の意識は捉えない。
しかし次の瞬間に剥き出しの頭蓋を両断しようと繰り出された巨獣の真紅の爪を、
雪見はずるりと滑るように躱してみせる。
刹那、見えぬはずの雪見の眼が、ぎょろりと笑みの形に歪んだ。
行き過ぎようとする巨獣の質量、熱いその身体を目掛けて、拳が飛ぶ。
砂の詰まった袋を棒で叩くような、重く震える音。
そして枯れ木の折れるような軽い、嫌な音が同時に響いた。
質量の差を無視して吹き飛ばされたのは巨獣である。
既に幾重にも折れた手の骨を更に砕きながら拳を振るった雪見が、げたげたと笑う。
喜びも、悲しみも、怒りも苦痛も感じさせない、音だけの笑い。
意識のない深山雪見が、殺戮の島の高みで浮かべる笑みは、ひどく空疎だった。

ず、と身を震わせ、白い毛並みに付着した血肉を払い落としながら立ち上がった巨獣が、
こちらは明確な憤怒を込めて、一つ吼えた。
身を、撓める。
転瞬、引き絞られた弓から解き放たれた如く、巨獣が跳ねた。
白い巨弾の撃ち出でた方向はしかし、黄金の戦士から僅かに角度を逸らした、右。
カウンターに放たれた掌圧が空しく宙を切り裂く横を抜けて着地する寸前、
巨獣が丸太の如き前脚を振るった。
爪による斬撃ではない。その硬化した外皮に膨大な体重を乗せた、純粋な打撃。
着地点にいた数人の夕霧が、軽石のようにぱかりと砕けて、飛んだ。
或いは血煙と化し、或いは肉塊と骨の礫となった生命であったものが向かう先には黄金の鎧。
掌を打ち放った直後の雪見は、血と肉の津波を前にしかし不動の構え。
べしゃりべしゃりとこびり付く赤と桃色と薄黄色のどろどろとしたものは無視する。
どの道、視界を塞ぐことに意味などありはしなかった。
搦め手の一切を選択から切り捨てて機を待つ雪見が、果たして血煙の壁を割り裂いて
猛然と飛び出してきた巨獣を前に、動いた。
胴を断ち割らんと薙がれる爪に正面から当てたのは砕けた拳による右正拳突きである。
激突した拳と爪の中心で風が爆ぜ、一気に血煙を払った。
互いに体勢を流すが慣性は巨獣の突進を支持し彼我の距離を刹那の単位で縮めていく。
第二撃は速度の勝負。巨獣の選択は牙。人体を容易に両断する断頭の壁が最速で迫る。
対して雪見が選んだのは弾かれた右の拳の打ち下ろし。
流れた体勢から全身の筋肉を撥条として放たれる鉄槌。
巨獣の熱い吐息が雪見を覆い、数十の鋭牙がその命脈を永遠に断たんとしたその刹那、
白虎の鼻面が、歪んだ。
頑強な巨獣の頭骨を抉り鼻腔と上顎を粉砕した黄金の流星が、白い巨躯を大地へと
強引にめり込ませる音が、響いた。

「―――」

巨獣のものと自身のものと、混ざり合って濁った血をばたばたと流す拳を引き抜いて、
雪見がゆらりと手を伸ばす。
唸りを上げることも許されず沈黙した巨獣の、ぐったりとした大蛇の尾がそこにあった。
既に明確な意識もなく、当初の目的すら思考できぬ雪見の、しかし妄執がそうさせたものか。
魔犬から引き継がれた巨獣の尾を掴もうとして折れ砕けた拳ではうまくいかず、
伸ばしたもう片方の手をやはり鮮血で滑らせ、両の腕で抱きしめるようにして、
ようやくその大人の腕ほどもある大蛇を保持する。
黄金の腕の中から、みしみしと奇妙な音が響きだした。
何か無数の編み紐が、一本づつ千切れていくような音。
ばたばたと、ようやく大蛇が暴れだした。
しかし顎はがっしりと小脇に抱えられ、牙を剥くことすらできない。
口腔の隙間から吐き出される毒液も雪見の背後に小さな池を作るのみ。
巨獣はまだ動かない。
女神の加護と少女の妄執を乗せた頭部への打撃は、見上げるようなその巨躯をして
昏倒せしめるに足るものだった。
みちみちと、音の質が変わっていく。
肉が、筋が、腱が断たれる音。
雪見に表情はない。
意識も感情もなく、ただ妄執をもって大蛇の尾を締め上げ、引き千切ろうとしていた。
大蛇が、次第にその抵抗を弱めていく。
雪見が黄金の足甲に包まれた踵を巨獣に乗せた。
小さな呼吸。
ぶぢ、という音は一瞬だった。

「――――――!」

於々、というそれは咆哮ではなく、悲鳴。
断たれるでなく、焼かれるでなく、神経索の一本一本を生かしたまま引き千切られる苦痛。
かつて川澄舞と呼ばれていた巨獣の覚醒は、筆舌に尽くしがたい地獄の辛苦によってもたらされていた。
のたうつ巨獣の傍、しかし深山雪見もまた倒れ伏していた。
どれほどの力を込めていたものか。
大蛇の尾を毟り取った雪見が勢い余って倒れこんだ先は大蛇の吐いた毒の沼である。
全身の傷という傷から染み入る致死の毒を、雪見は既に感じていない。
細く不安定な呼吸の中、既に光を映さぬ瞳をあらぬ方へと向けながら大蛇の尾を抱きしめていた。

拷、と。
風を裂き、神塚山に満ちる焦熱と爆音を折伏するが如き大音声が響いた。
ようやくにして立ち上がった、白き巨獣の咆哮である。
その血の色の瞳に映るのは、憎の一文字。
びりびりと全身の剛毛を逆立てた白虎が、大きく後ろに跳ねた。
身を震わせ、もう一度吼える。
潰れた鼻と血泡を吹く上顎が物語るのは巨獣の痛手ではない。
森の王と呼ばれた巨獣の、或いは鬼と恐れられた異種族の、そして神代を生きた魔犬の、その裔。
数奇な運命の結実たる獣の王、その箍が真に外されたことを意味していた。

眼前の存在が滅するべき総て。
或いは、眼前の総てが滅するべき存在であった。

転がり伏す矮小な黄金の鎧姿も。
無数に涌き出す有象無象も。
そしてまた、

巨獣の眼前に、影が落ちる。
それは鹿沼葉子の打撃によって足を崩された巨人の、苦し紛れに大地へと突かれた手。

―――そしてまた、天から落ちた、肉の巨柱すらも。
巨獣の滅するべき、矮小な総て。

がぱり、と。
巨獣の顎が開かれた。

蒼穹の下、風が奇妙に歪んでいく。
日輪に照らされているはずの大地が、白く煙る。
それは世界の中、巨獣の君臨する一角だけが灰色に染め上げられていくような錯覚。

世界を塗り替えた灰色から、ノイズが消えていく。
残るのは、純粋な白。

透き通る白という矛盾を睥睨して、獣王の顎が小さな音を響かせた。
詠のような、祝詞のような、或いは硝子細工の割れるような、響き。

刹那。
世界が、白く染め上げられた。


***

 
疾ったのは白い波涛。
荒れ狂う純白の怒り。
吹き荒ぶ清白の暴風である。
悪夢の如き白の煌きが伸ばした手に触れたものは、悉くがその姿を変えていく。

焦熱に炙られる草から立ち上っていた煙が、消えた。
赤褐色の血痕で覆われた岩盤が、真白く塗り替えられた。
立ち竦む砧夕霧の群れが、透き通った光の中で次々と物言わぬオブジェと化した。
大地に突かれた巨人の腕が、その根元から白い風に覆われて、めりめりと音を立てながら
最初は真白く、そして次の瞬間には曇り硝子にでも包まれたように、その輪郭を歪めた。

一陣の白き魔風が吹き抜けた先に、動くものはない。
最後に、黄金の鎧に身を固めた少女の像が一体、ごとりと音を立てて倒れた。
黄金の像を包み込んでいたのは、水晶とも見紛う透明。
白の閃光が駆け抜けた一瞬の後、神塚山山頂に現れていたのは無数の氷柱が林立する、
氷の世界であった。

「……これだから厄介なのだ、固有種というものは」

凍てついた睫毛を瞬かせながら呟いたのは光岡悟である。
手にした一刀を振るえば、袖からぱらぱらと霜が落ちた。

「しかし……」
「……好機は重なった」

言葉を継いだのは坂神蝉丸。
カーキ色の軍服を純白に染めたその姿はまるで雪中行軍の途中であったかのような有様である。

「凍りついたあの片腕を崩せば……」
「……さしもの長瀬も、ようやく頭を垂れるということだ」

仕返しのように継ぎ穂を奪う光岡に、蝉丸が静かに頷く。

「見えてきた、な」

言って白刃を翳した蝉丸が、しかし次の瞬間、表情を険しくする。
弾かれたように振り返って身構えた、その視界の先から飛び来るものがあった。

「黒い、雷……!?」

蝉丸の目に映ったのは、つい今しがた山頂を覆った白い波と対を為すような漆黒。
光を映さぬことが黒という色の定義。
しかし蒼い空を断ち割るようなそれは、蝉丸をして思わず呟かせたように、
黒い稲光と呼ぶ他にないものであった。
それは天空を飛ぶ破城の槍。
光を絡め取るような漆黒の、一閃である。

「この戦……」

押し殺すような声で呟いたのは光岡。

「案外と、早く片が着くかも知れんな」

見据える頭上を、漆黒の光槍が駆け抜けていく。
肩越しに見るまでもなく、黒槍が目指す先は明らかだった。
凍りついた巨人の片腕を目掛けて、黒い雷光がまるで吸い込まれるように、着弾した。

氷柱が、砕ける。
その内部に閉じ込めた、膨大な血と肉と骨とを巻き込みながら。


***

 
神塚山の北麓、その山道の中ほどに存在するそれは殺戮に満ちた島の中心にありながら、
ひどく場違いな様相を呈している。
黒いフェルトに包まれた、人の身の丈ほどもあるそれを、ぬいぐるみという。
デフォルメされた蛙をモチーフとしているようでありながら眼球以外を黒一色に
染め上げれられたその姿は、ある種の迫力と異様の両方を見る者に伝えていた。

ぱりぱりと黒い雷を纏って屹立するそれを、大儀そうに撫でた女がいる。
命を倦みながら生を渇望する老婆の如き白く濁った瞳孔が、ねっとりと見上げるのは遥か山頂。
この島で最も高い場所に立つ、裸身の巨人が残された片腕を失って崩れ落ちるのを、女はじっと見ていた。

「回れ、回れ、歴史の歯車」

もごもごと、半世紀も前に過ぎ去った少女時代を反芻するように手毬歌を呟くが如き声。
憧憬と羨望と後悔とが均等に交じりあった、吐き気を催すような呪詛の唄。

「袋小路のどん詰まり、まだ見ぬ枝葉の分岐まで」

街角の片隅で、畳一畳分の小さな栄枯と衰勢を眺めてきたような、矮小で傲慢な視野。
丸められた背中が、ふるふると震える。

「水瀬の知らない幸福を、水瀬の知らない災厄を、水瀬の知らない終焉を」

女の名を、水瀬名雪という。
数十、数百に及ぶ生を繰り返す内に磨耗して、生きるという言葉の意味を見失った女である。
相沢祐一という希望と、水瀬という名の他には何も持たぬ。
少女の姿の肉袋に詰められた、しわがれ果てた老婆。
黒い稲妻の一閃をもって砧夕霧の片腕を崩壊せしめた、それが水瀬名雪という女だった。


***

 
その山の上に、連携という文字は存在しなかった。
各々が各々の刃を振るったという、ただそれだけのことである。

駆ける蝉丸の胸にも感慨はない。
乳房と片膝を抉られ、両の腕を喪失して成す術もなく倒れ伏す巨人にも、哀れみは覚えない。

蝉丸は己が駆ける意味を知らぬ。
討つべき敵と取り戻すべき旗印がある、それだけで白刃を閃かせる理由になると、そう考えている。
いずれ答えの出ない思索に埋没するだけの余裕など、ありはしなかった。
戦場から戦場を渡り歩いてきたのが坂神蝉丸という男であった。

「―――」

その脇を疾駆しながら、光岡悟は思う。
坂神蝉丸という男を突き動かしているのは、畢竟、不安である。
國の為に文字通り己が身を捨て、化け物じみた力を得た。
人にあらざる自身を受け容れることは容易ではない。
縋る何かが、必要なのだった。
光岡悟にとってのそれが九品仏大志であるように、坂神蝉丸にとってのそれは戦場であり、
掲げる旗であり、守るべき弱者なのだろう。
いずれかが失われれば、蝉丸は陸に上がった魚も同じ。
息を詰まらせて、死んでいく。
坂神蝉丸にとっての幸福と平穏は、血煙と白刃の間にしか存在しないのだ。

のたうつ巨人の、白い喉笛が、迫る。

ざくり、と食い込む刃が、ぼたぼたと鮮血を伝わせる。
気にした風もなく抉り込んだ蝉丸の一刀が、縦一文字に傷口を広げていく。
物も言わず、楽に潜れるほどまで切り開いた喉笛の、桃色の肉を覗かせる真皮を掴むと、
蝉丸はぐいと蚊帳でも開くように無造作に、巨人の喉を割り裂いた。

轟、と吹いた生温い風は吐息であろうか。
銀髪を靡かせながら傷口に踏み込んだ軍靴が、ずぶりと脂に沈む。
そこに狭い空間と、二つの影があった。

「実に、実に厄介な男だね、君は」

ごうごうと吹き荒ぶ風の中で、奇妙に通る声が響く。
周囲を包む桃色の肉に無数のケーブルで己が身体を繋ぎ止めた、醜悪な姿。
長瀬源五郎である。

「久瀬大臣の長男坊の次はこの人形……庇護欲に縋らねば生きられないかね?」

そう言って長瀬が抱きすくめるように笑ったのは、白い裸身。
やはり幾本かのケーブルを埋め込まれて長瀬へと繋がれた、砧夕霧の中枢体であった。
その表情は動かない。絶望という絶望を凝縮して固めたような、断末魔の形相。

「―――」

蝉丸は答えない。
ただ、一歩を踏み込んだ。

「愚かなことだ。人機は融合し次の段階へ進もうとしているというのに。
 その過程に取り残された失敗作が、嫉みで歴史を阻害する」

一歩。
蝉丸の周囲、前後左右上下の全方位からケーブルが顔を出した。
鋭い穂先を向けて、飛ぶ。
一瞬の後、そのすべてが二振りの白刃の下に切り落とされ、桃色の肉の上に落ちた。

「……君もかね、光岡悟。遺物たる強化兵」

蝉丸の背後から迫っていたケーブルを叩き落した光岡は、やはり無言。
更に、一歩。

「理解しろとは言わんよ。君らに理解できるはずもない。だが、だが歴史は止まらない。
 私の娘たちは、新たな時代の幕を開け―――」

言葉が、途切れる。
長瀬源五郎の、幾本ものコードが埋め込まれた胸の中心に、蝉丸の白刃が突き込まれていた。
ごぼりと血泡を噴き出した長瀬が、それでもにやりと口の端を上げる。

「―――ッ!」

裂帛の気合、一閃。
血飛沫が、飛んだ。
長瀬の胸を肩口まで切り裂いた蝉丸の刃が、返す刀で夕霧と長瀬を繋ぐケーブルを叩き斬る。
ひう、と聞こえた細い声は長瀬の断末魔か、あるいは解放された夕霧の安堵か。
とさり、と倒れ込んだ夕霧をその胸に受け止めて、蝉丸が振り返る。
光岡と視線を交わし、頷きあう。

駆け出すと同時。
数千にも及ぶ砧夕霧から構成されていた巨人が、崩壊を始めた。


 
 
【時間:2日目 AM11:34】
【場所:F−5 神塚山山頂】

究極融合体・砧夕霧
 【4978体相当・崩壊】
長瀬源五郎融合体
 【状態:シルファ・ミルファ融合、生死不明】

坂神蝉丸
 【所持品:刀(銘・鳳凰)】
 【状態:右足裂傷、背部貫通創、臓器損傷(重傷・仙命樹により急速治癒中)】
光岡悟
 【所持品:刀(銘・麟)】
 【状態:異常なし】
砧夕霧中枢
 【状態:意識不明】

天沢郁未
 【所持品:薙刀】
 【状態:不可視の力】
鹿沼葉子
 【所持品:鉈】
 【状態:光学戰試挑躰・不可視の力】

川澄舞
 【所持品:ヘタレの尻子玉】
 【状態:大激怒、ムティカパ・エルクゥ・魔犬ポテト融合体、頭蓋骨陥没(急速治癒中)・尾部欠落(修復不能)】
深山雪見
 【所持品:牡牛座の黄金聖衣、魔犬の尾】
 【状態:瀕死、凍結、出血毒(両目失明、脳髄侵食、全身細胞融解中)、意識混濁、
       肋骨数本及び両手粉砕骨折、ムティカパLv1】

水瀬名雪
 【所持品:くろいあくま】
 【状態:過去優勝者】
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