十一時三十分/鳳麟、影と咲き誇れ






「……っていうかさあ」
「何よ」
「あれ、ヤバくない?」
「うっさいわね春原のくせに」
「僕いま何か悪いこと言いましたかねえ!?」

叫んだのは焦げた金髪をアフロにした少年、春原陽平である。

「わかりきってることを―――」

すう、と息を吸い込んだ少女の名を長岡志保。

「―――今更のように言い出すのをバカって言うのよバカ春原!
 もうヤバいのよ充分ヤバいの!」

んでもってアレは、と指差したのは背後。
聳え立つ神塚山の頂である。

「その中でもとびっきり! 志保ちゃんアンテナにビリビリきてんのよ!
 それを今更なんだってのよわかってるわよもうずっとヤバいのなんて!
 何あれ怪獣? 超人類? それとも新手のストリーキング? なワケないわよね?
 あんたのそのダッサいアフロに少ぉしでもお味噌が詰まってんなら答えてみなさいよ、さあさあさあ!」
「……そのくらいにしておけ」

春原の鼻先に指を突きつけて迫る志保の剣幕に割って入ったのは三白眼の青年。
額を押さえるようにして軽い溜息をつく国崎往人だった。

「何よ浮浪者」
「お前なあ……」

呆れたような国崎が、それ以上は何も言い返さずに振り向く。
国崎につられるように、志保と春原の目もまたその視線の先を見た。
そこには変わらぬ光景。
変わらぬ、異様があった。

「……何十メートルあるんでしょうね、あれ」
「さあな……だが、さっきまではあれより一回り小さいのがビーム撃って暴れてたんだぞ。
 謎の巨大ロボがぶっ飛ばしてったが」
「言ってることワケわかんないんだけど、クスリまでやってんの浮浪者。近寄らないでくれる?」
「なら今あれが見えてるお前もジャンキーだな」
「……」

三対の眼が見つめるのは巨大な裸身。
神塚山山頂に君臨する、圧倒的な質量を誇る少女であった。
あまりにも非現実的な光景に絶句する三人を嘲笑うかのように、巨大な影が動いた。

「うわ、見つかった!?」
「ん、んなわけないでしょ!? どんだけ離れてると思ってんのよ!
 向こうからしたらあたしたちなんて蟻んこみたいなもんでしょ、ねえ!?」
「ぼ、僕に言われても知らないよ……!」
「いや……待て」

恐慌に陥りかけた二人を身振りで制した国崎が、眉を顰める。
睨みつけるようなその眼で巨大な影を暫し見つめ、呟く。

「あれは……誰かが、戦っている……のか?」
「はあ!? こっからそんなの見えるの!?」
「そんな無茶な、あんな怪獣みたいなのと!?」
「これでも視力には自信があってな……、二人……いや、三人か?
 間違いない……化け物とやり合ってる連中がいるようだ……」

異口同音の驚愕に、視線を動かすことなく頷いてみせた国崎が、しかし、と呟く。

「どうか……したの?」
「やっぱりメタメタにやられてる、とか……」
「いや……」

そうではない、と国崎は心中で否定する。
そうではないが、しかし。
電話ボックスを掴み上げそうな手が振り下ろされるのを、豆粒のような影が躱している。
躱して、おそらくは何らかの攻撃を加えたのだろう。
巨大な少女の手が、弾かれたように跳ね上げられた。
しかし、それだけだ。
少女は何事もなかったかのように動き出し、腕を振るい、光線を閃かせる。
そこにダメージは感じられない。
針で刺されたほどの痛痒しか、感じていないのだろう。
対して、動き回る影は一撃でも受ければそれが致命傷になる。
彼我の大きさがあまりにも違いすぎるのだ。
状況は、あまりにも絶望的に見えた。

「……ん?」

眉根を寄せた国崎が、何かに気付いたように顔を上げる。

「あれ……何?」
「ヘリコプター……?」

果てしなく広がる蒼穹に、染みのような一点があった。
東側から近づいてきた点は、瞬く間に天頂、太陽を背にするような直上へとその位置を移していた。
ばたばたというローターの音が、志保たちの耳にも微かに聞こえてくる。
暗い灰色に僅かな茶色を混ぜたようなその塗装と、ゴツゴツとした無骨なシルエットは、

「軍用……?」

国崎が呟いたのと、ほぼ同時。
雲一つない天空から、銀の迅雷が落ちた。


***

 
立ち込めた血色の霧を切り払うように刃が閃いた。
不可視の力に覆われた薙刀を振るって山肌に這い蹲るような巨人の腕を抉った郁未が、
零れ落ちる血と肉塊には眼もくれず飛び退く。
間髪入れずに落ちてきたのは天を覆うような影。
人の背丈を遥かに越すような掌が凄まじい勢いで叩きつけられ、自らの肉であったものを磨り潰して砂礫と和える。
拳ほどもある石が砂埃のように舞い散るのを躱しながら、郁未が叫ぶ。

「―――キリがないわ! 時間は!?」
「残り、おおよそ三十分。……二秒で一人分を削り落としていけばおそらく間に合います」

訥々と答えたのは鹿沼葉子。
リーチの短い鉈を振る彼女は巨人の振り下ろされる手指を狙って一撃離脱を繰り返している。

「無茶ぶりすぎない、それ?」

抉った巨人の傷口に新たな肉が盛り上がるのを横目に見ながら郁未が呆れたように言う。
まるで実感はできないが、こうしてダメージを蓄積させていく度に巨人を構成する砧夕霧の数は減っていく。
損耗の末、巨人もいつかは倒れるだろう。―――いつかは。
さしあたっての問題は、それが正午より早いか否かという、ただ一点だった。

「やれるでしょう」

それだけを残して駆け出した葉子の刃が大地を陥没させた巨人の指を薙ぎ、その一本を切り落とす。
痛みを感じることもないのか、巨人の指の欠けた手が葉子を目掛けて振るわれる。
小蝿を払うような仕草を葉子は正面から睨みつけ、しかし回避に移らない。
逆に見上げるような掌に向けて駆け出すと、圧倒的な質量が小さな身体を薙ぎ払うその直前で跳躍。
照り付ける白い陽射しの下、血に濡れてごわつく長い金髪が流れた。
空中でトンボを決め、垂直落下を始めるその手の先には不可視の力に覆われた鉈がある。
分厚い刃が肉に食い込む硬い手応えを、葉子は重力の力を借りて無視。
引き斬るように振り下ろせば、傷口は巨人の手の甲を横断するように広がる。

「そりゃ―――」

着地した葉子と入れ替わるように疾る影は郁未である。
葉子が無言で差し出す鉈の背に足をかけると、郁未ごと持ち上げるように鉈が振り上げられる。
カタパルトを得て加速した郁未の身体が、一気に十数メートルの高みへと跳ねた。
放物線を描いて跳ぶその頂点で郁未が静止するのとほぼ同時。
周囲の大地が、真紅に染まった。巨人の手から凄まじい勢いで鮮血が噴き出している。
その甲に付けられた傷は十文字。
葉子の与えた傷と交差するような直線は、宙へと跳ね上がる郁未の薙刀によるものだった。
鮮血と共にぼとぼとと落ちる人体の欠片、腕や脚や腹や顔を見下ろしながら、郁未の眼差しが鋭く光る。
直後、天空に足場でもあるかのように真下へと加速。
薙刀の先端を頂点とした弾丸が穿つのは血を噴き出す巨人の手、その接合部。
あり得ないほどに巨大な手首の、悪い冗談のような質量を誇る関節が、爆ぜるように砕けた。

「―――やるけどさっ!」

巨人の手首を穿ち貫いてなお留まらぬ刺突の余波が大地の岩盤を削り、陥没させる。
引き抜いて振り回せば周囲に残る肉が抉れ、手首に空いた穴が拡がっていく。
軟骨が削られ、筋繊維が断裂し、神経の束がまとめて引き千切られ、動脈が切断された。
と、刃が小骨を噛み込んで止まる。
舌打ちした郁未の眼前、桃色の筋繊維が作る壁が、縦一文字に断ち割られた。

「……なら、口より手を動かしてください」

軽く溜息をつくような表情の葉子が、残った肉と皮膚とを切り裂いた向こうから顔を覗かせている。
刃の食い込んだ骨を蹴りつけて強引に薙刀を抜いた郁未が肩をすくめる。

「この度はご期待に添えませんで……」

口の中で呟きながら振り向く。
視線の先には肉の壁。
半ば千切れかけた巨人の手と腕とを繋ぐ、最後の要素であった。
自らの背丈ほどもあるその肉の壁を目掛けて、郁未の薙刀が走った。
地を摺るような軌道から、眼前で一気に真上へと駆け抜ける切り上げ。
閉ざされた扉が左右に開くように、桃色の壁が濡れた音と共に斬り割られる。

「……どうもすみませんでした、っと」

肩越しに葉子を見た郁未が、口の端を上げて笑う。
蒼穹に座す日輪に照らされ、てらてらと光るその全身は、血風呂に浸かったような
赤の一色に染め上げられている。
傍らでは身体から完全に切り離された巨人の片手が、端の方から崩れていく。
崩れた肉が、骨が、虚ろな瞳の少女たちへと変わっていくのに鼻を鳴らして刃を振り上げた郁未が、

「―――ッ!?」

飛び退いた。
刹那、大地を閃光が包み込む。
岩盤が、一瞬にしてぐずぐずと煮え滾った。
その上にいた少女たち、虚ろな瞳の、巨人と同じ顔をした少女たちが、灼熱に晒されて、焼けた。
ぶつぶつと粟立った皮膚が弾け、漏れ出した血とリンパ液とが端から蒸発する。
眼球が真っ白に茹で上がり、爪が熱で捻じ曲がった。
酸素を求めたものか半開きになった口の中で、水分を失った舌が枯れ枝のように縮こまっている。
めくれ上がった唇が、剥き出しになった歯茎が、燃え上がる。
炎は脂を伝うように全身へと広がり、少女の肉を炭化させていく。
そのすべてが、一瞬だった。
光が収まったとき、そこに残ったのは、数十にも及ぶ焼け崩れた黒い塊と、立ち込める猛烈な悪臭だけであった。

「……デカいのは伊達じゃないってわけ」
「放射半径も格段に広がっています。回避もこれまでほど容易ではありませんね」

辛うじて閃光から逃れた郁未が呟くのに、いつの間にか傍らに立っていた葉子が応じる。
陽炎の立ち昇る岩盤に滴り落ちて湯気を立てる汗は暑さの故か、それ以外の何かによるものか。
気を取り直すように息をついて髪をかき上げた郁未が、仰ぎ見るようにして巨人を睨む。
その人体を模した身体の中で唯一の特異点、異様なまでの面積を誇示する額が、淡く輝いている。
太陽光を反射し集積し収束して射出する、光学兵器・砧夕霧の本来唯一にして最大の武器。
着弾の一瞬で周囲を焼き尽くした閃光の、それが正体であった。

「けど……コツは変わらないでしょ。今度は反射させる仲間もいないしね」
「……もう一発、来ます」

見上げれば巨人の額に宿る光が煌々とその輝きを増していく。
地上に生まれたもう一つの太陽ともいうべき光。
ぎょろりと剥いた眼が影を捉えるよりも早く、郁未と葉子はその場から駆け出している。
時折方向を変えつつ己が周囲を回り込むように走る二人の影を追いかね、巨人が戸惑ったように首を回す。

「要は……正面に立たなきゃいいってことでしょ!」

数百の夕霧を葬ってきた、それが郁未の結論である。
いかな灼熱の地獄を作り出す閃光であろうと、光は物理法則に従って空間を直進する。
ならば発射口である額の向く方を見極め、その正面への遷移を避ければいい。
そうすれば、

「―――いけない、郁未さん!」
「な……っ!?」

小山ほどもある巨人の脇を走り抜けようとした瞬間だった。
郁未の駆ける、その前上方。
ある筈のない位置に、巨大な光源があった。
手にした薙刀を大地へと叩きつけたのは、半ば本能である。
びき、と鳴ったのは瞬間的に筋肉と血管の限界を超えて刃を岩盤に突き立てた両腕か、
それを支点として強引に進行方向を捻じ曲げた脚が慣性を無視した代償か。
痛覚を遮断して弾丸の如く真横、右へと跳んだ郁未の視界が、白く染まる。

「―――ッ!」

一杯に身を縮めた、その靴先が黒煙を噴いて炎上した。
刺すような激痛を無視しきれずに表情を歪めた郁未の身体が、大地に落ちる。
咄嗟に受身を取った腕の皮膚が小石を噛んで裂け、生まれた傷口に砂が食い込む。
蒼穹と岩盤とが交互に巡る視界の中、捩れた筋肉が悲鳴を上げ、軋む骨に衝撃が響く。
一転、関節を庇いながら勢いを殺し、二転、重心の移動でタイミングを計る。
三転、いまだ炎の燻る靴が地面を噛み、四転、両手両足で大地を突き放すように。
天沢郁未がようやくにして、跳ね起きた。

「やって、くれんじゃないの……!」

乱暴に足を振って穴の空いた靴を放り捨てた郁未が、爛々と光る眼で巨人を睨みつけながら喉を鳴らす。
肉食獣が怒りを抑えきれずに漏らすような、暴力に満ちた声。
破り捨てるように脱いだ靴下も背後に放り投げる。
裸足になった足先は火に炙られて、ぐずぐずとリンパ液を染み出させながら膨れている。

「郁未さん……!」
「ぶっ殺すッ!」

離れた場所から響く葉子の声への返事代わりに、それだけを叫んで駆け出す。
端的な殺意の表明はしかし、郁未の短絡を意味するものではない。
走り出したのは第二波の標的となることを避けるためである。
その頭脳にあるのは沸騰するような殺意と同居する、氷の如き冷徹な分析。
教団崩壊後にも幾多の危機を迎えた天沢郁未をして、それが死線を潜り抜けさせてきた要因だった。
先刻の砲撃。
額に正対することを避け、脇から回り込む動きを取った郁未の、その正面から光が来た。
巨人が如何に常識外の存在であれ、その体型が人を模している以上はあり得ないはずの位置からだ。
その不可解の正体を、しかし郁未はその目でしっかりと見極めている。
巨人の反対側から見ていた葉子も、当然理解しているはずだった。

「お洒落に気を遣うお年頃ってわけ……?
 だからって普通は手にコンパクトなんて縫い付けないけどね……!」

冗談めかした呟きを聞く者はいない。
その表情にも一切の笑みはなかった。
脳裏に浮かぶのは砲撃の瞬間。
視界が白く染まる刹那、そこにあったのは巨人に残された片手、その開かれた掌であった。
人間のように掌紋すら刻まれていたはずのそれが一瞬にして変化するのを、郁未は見た。
肌色と桃色と血管の青で構成された皮膚から、透き通るような硬質の硝子様の物質へ。
それは正しく反射鏡だった。
閃光の生み出す膨大な熱に耐え、それを任意の方向へと射出するための部位。
巨大な裸身の少女が、単に膨大な質量を誇る人間などではなく、人を模した兵器であることの証左。

「迂闊には近づけなくなった、か……!」

巨人のリーチは片腕で十メートルにも達しようかという長さである。
片方の掌が一時的に喪われているとはいえ、再生までに要する時間は極めて短い。
そこからも反射鏡が出せる、あるいは掌でなくとも出てくるとすれば、その死角は事実上存在しない。
立ち止まることなく走りながら、郁未が舌打ちする。
岩場を噛む裸足の傷口はじくじくと痛い。
時間は文字通りの寸刻を争う。
戦況を膠着させれば、待つのは敗北の二文字だった。

ちらりと見れば、走る葉子が確認できる。
そこにもう一人いる誰かのことを、郁未は認識しながら意識しない。
当面の敵でない以上、それは郁未にとって自走する熱源という認識でしかない。

敵と、敵の敵と、相棒と。
それだけが天沢郁未の世界だった。
敵の敵でしかないその軍服の男の行動の一切を、郁未は無視している。

だから、その白銀の迅雷も、郁未にとっては文字通りの青天に落ちる霹靂でしかなかった。


***

 
吹きつける強い風を、坂神蝉丸は正面から受け止める。
血煙が靡く銀髪を薄く染め、妖しくも艶めいた色合いを醸し出していた。

手の一刀からひと滴、粘り気のある血が垂れ落ちる。
新たな滴を呑み込んだ血だまりに波紋は生まれない。
波紋を生んだのは、蝉丸の軍靴だった。

足の裏で糸を引くような感触。
踏みしだく赤い沼に、少年はいるだろうかと、蝉丸は思う。
少年の流した血は、少女たちのそれと融け合ってこの足元まで届いているだろうか。
そんなことを思いながら、敗残の兵は歩を踏み出す。

ゆらりゆらりと静かに歩んでいたような蝉丸は、いつの間にか巨人の間近に迫っている。
一瞬の後、その影は山肌に四つん這いで圧し掛かるような巨人の胸の下へと潜り込んでいた。
無造作に振るわれた銀の刃が切り裂いたのは、裸身を晒す巨人の乳房。
その先端、両手に抱えるほどの桃色の、女の証を無感情に断ち割った蝉丸が、鋭い呼気と共にもう一閃。
二つに割れたそれが乳腺ごと切り取られ、大地に落ちて少女に変じた。
眼もくれず返した刀は抉られた巨人の乳房の、即座に再生を始めるその粟立つ肉を断ち穿つ。
ぼたぼたと垂れる血と肉とその素となった少女たちを映すその瞳は何の感情も浮かべていない。

振るわれる刃に想いはない。
繰り広げられる死の輪舞に心はない。
荒涼たる山肌を吹き血霧を払う風の如く、その太刀筋は乾いていた。
常ならぬその剣は坂神蝉丸という男をよく知る者が見れば眉を顰めるような光景であったか。
或いはそれこそがこの男の本質であったかと膝を叩き、深く得心するやもしれぬ。
いずれ誰一人見つめる者とてなき戦場で、無感情に死を撒き散らす蝉丸に届く言葉など、
ありはしなかった。

恐るべき速さで見舞われる剣風に、巨人の乳房が抉れていく。
再生をも許さぬその凄まじい斬撃の嵐に、堪らず動いたのは巨人であった。
山肌にしがみ付くようにしていた姿勢から、咆哮を上げながら身を起こす。
数百トンにも及ぶ膨大な質量を支えるべく大地に叩きつけられた掌が地響きを起こし、
山頂全域を揺るがした。
一瞬だけ天を仰いだ巨人が、怒りとも苦痛ともつかぬ咆哮と共に、その身を落とす。
山頂のすべてを覆い隠すような圧倒的な影。
回避不可能な面積の中、蝉丸を押し潰そうという動きだった。
果たして見上げた蝉丸の眉が曇る。
その瞳に日輪は映らない。
病的に白い肌が無限の天蓋となって蝉丸の視界を包んでいた。

天の落ちるような光景が、しかしそのとき、ぐらりと揺れた。
それが天沢郁未と鹿沼葉子によって巨人の片手が切り落とされた衝撃であると、
蝉丸には知る由もない。
が、一際強く雷鳴の如く響き渡った咆哮の中、蝉丸は既に駆け出している。
力強く岩肌を噛む軍靴が、一瞬という単位を更に細分して蝉丸の身体を運んでいく。
山頂全域を磨り潰すように巨体が落ちるのと、枯草色の軍服がその影の下から身を躍らせるのは
ほぼ同時であった。

直後、周囲が白く染まったのは郁未たちへと放たれた二発の閃光によるものである。
巨体の落下した衝撃で人の頭ほどもある岩礫が小石のように乱舞する中、身を伏せた
蝉丸の身体の下で岩盤が熱を持つ。
灼熱の地獄を想起させる熱量の余波であった。
礫の幾つかが背を打ったのを気にした風もなく、蝉丸がゆらりと立ち上がる。
周囲に立ち込める陽炎の中でゆらゆらと煌く一刀を手に、その表情には虚無を貼りつけて、
敗残兵が立ち上がる。
既に進むべき道もなく、掲げるべき旗もなく、しかし斬の意志を以て戦場を往く、その姿は修羅。

再開される疾駆。
その足取りに迷いはない。
迷うべき想いすら、今の蝉丸には存在していなかった。
眼前に聳え立ち塞がる甚大な敵をただ貫かんと踏み出されたその脚が。
しかし、二歩、三歩目で、止まった。

がくり、と。
その膝が落ちる。
眉根を寄せ、大地に手をついて小さく呻いた蝉丸の口元から垂れ落ちたのは、鮮血の赤。
ぽたぽたと垂れ、岩盤にこびりついた少女たちのそれと混ざって地面を汚す己が喀血を、蝉丸は見た。
次いで走ったのは、苦痛ではなく熱。
乾いた瞳が肩越しに見たその背に、ざっくりと刺さるものが、あった。
鋭く尖った、岩礫の欠片。
思い返すまでもない。
先の巨体が地面に落ちた際、爆風の如き衝撃に舞い飛んだ内の一本だった。

噴き出す脂汗に滑る一刀を強く握り直す。
空いた手を背に回し、深々と突き刺さった岩礫に手をかける。
僅かに身を捻るだけで痙攣を始める全身の筋肉からの痛覚信号を、精神力だけで無視。
一気に引き抜こうと力を込めた蝉丸はしかし、唯一つの事実を悟っていた。

即ち―――間に合わぬ。
巨人の腕が、高層建築を横倒しにしたような膨大な質量が、振り上げられているのを
蝉丸の視界は捉えている。

背の傷は致命傷ではない。
常人であれば絶命を免れ得ぬ臓腑への深手にも、仙命樹の力は宿主の命を繋ぎ止める。
礫を抜き取って数刻を堪えれば、傷痕など影も形もなくなっているだろう。
が、数刻どころか寸秒をすら、今の蝉丸には与えられない。
そしてまた、来栖川綾香によって負わされた右の足を裂いた傷と、背に空いた大穴と、
その両方へと分散した治癒の力が、蝉丸の膝を落として動くことを許さない。

間に合わぬ。
それが、坂神蝉丸の結論であった。
迫り来る死を静かに見つめる瞳に、色はなかった。


―――迅雷が、落ちた。


***

 
それは白銀の閃光。
それは一陣の鉄槌。
雲一つない天空から降り来る、それは神雷。

その一瞬、音が消えた。
吹き荒ぶ風すらもが、平伏するようにやんでいた。
耳が痛くなるような静寂の刹那に放たれた、それはただの一閃である。
ただの一閃が、天空より大地を薙いだ。
それだけの、ことだった。

時の止まったような神塚山の山頂に、最初に戻ってきた音は、咆哮である。
否、それは明確な悲鳴、或いは絶叫と呼び習わされるべき大音声。
次いで風が、己が役割を思い出したかのように再び大気を押し流し始める。
僅かに遅れて響いたのは、地鳴りの如き轟音だった。
何か、巨大な質量が大地へと激突したような凄まじい地響きと土煙が周辺を満たす。
そんな、雑多な音の中心で、

「―――鈍ったか、坂神」

凛とした涼やかな声が、雑音の群れを切り裂くように、蝉丸の耳朶を打った。
白銀の長髪が、風を孕んで靡く。
優美とすら見える手に提げるのは、端麗な刃紋を血脂に汚した、一振りの刀。

「木偶人形の如きを相手に後れを取るとは、鳳凰が泣いている」

大地に落ち、なお陸に打ち上げられた魚のようにびくびくと震える小山のような腕を背に、
眉筋一つ動かさずに言い放った男を、光岡悟という。
銀の迅雷と見紛う一閃で巨人の腕を切り落とした男の、それが名であった。

「―――」

片膝をついて白銀の長髪を見上げる蝉丸に、言葉はない。
無言のまま視線を見交わし、一つ頷くと、

「……ッ!」

一気に、背に突き刺さった岩礫を引き抜く。
からりと小さな音、そして降り始めの雨が地面を叩くような、ぱたぱたという音が続いた。

「観測班からの報告だ、坂神」

噴き出す蝉丸の血が編み上げの軍靴を汚すのにも顔色すら変えず、光岡が淡々と告げる。
歯を食い縛った隙間から荒い息を漏らす蝉丸が、しかしその冷ややかな光岡の態度に怒りを覚えた様子もなく、
びっしりと脂汗を浮かべたままの表情で先を促すように頷く。

「逆賊、長瀬源五郎は奪取した砧夕霧の中枢体と自らを有機的に結合し、その意思共有機能を媒介に
 無数の融合体を操作するものと予測される。従って、万が一そのような事態が発生した場合は―――」
「……中枢体を引き剥がしさえすれば、自壊する」

ぐい、と袖口で汗を拭った蝉丸が、光岡の言葉を継ぐように呟いて立ち上がった。
その背から噴水のように流れ出していたはずの血は、既に止まっている。
大穴が開いていた傷口にはぐずぐずとケロイド状に膨れ上がった桃色の肉が顔を覗かせていた。

「理解したのであれば急ぐことだな。そう時間が残されているわけでもあるまい」
「……貴様に助勢されるとは、南方の戦線を思い出すな」

愛刀にこびり付いた血をズボンの裾で拭いながら呟いた蝉丸の一言に、それまで氷のような
無表情を保っていた光岡の顔が、初めて動いた。
苦虫を噛み潰したような、露骨に嫌悪感を押し出した表情。

「助勢だと? ……勘違いするな坂神。俺はただ閣下の命で貴様に報告を伝えに来ただけだ」
「ほう」

しかし応じる蝉丸の声はどこか楽しげですらあった。
実際、口の端が小さく上がっている。

「それでは、どうやって帰還するつもりか訊いても構わんか」
「無論、迎えの船を待つまでだ。……あの木偶人形と逆賊を始末してからな」

そんな蝉丸の様子にますます表情を険しくする光岡。
苦笑気味に笑みを深める蝉丸。
張り詰めていた戦場の空気は一変していた。

「それを助勢と言うのだろうが。まあいい、好きにするさ」
「戯言はそこまでだ。行くぞ坂神、遅れるな!」

道場稽古で汗を流すような気軽さと、眼前に立つすべてを断ち斬る苛烈さと、
その両方を備えて二筋の血風が駆ける。
無論それは往くべき道を喪った坂神蝉丸の、懐古という名の逃避である。
しかしその瞳に宿る光は、生という色を湛えて輝いている。
その輝きが、少女と少年の血を吸った大地を踏み拉く、蝉丸の歩を支えていた。


***

 
「恐れながら閣下、宜しかったのですか」

狭い室内に反響する声に、色眼鏡をかけた男が顔を上げる。
九品仏大志。沖木島に繰り広げられる地獄絵図を統括する、三人目の男である。
そして同時に政権の転覆に成功し、現在のところ国家の中枢を握った男でもあった。

「同志光岡の件かね? 構わんさ、彼がああまで言うのは珍しい」

沖木島の東海上に浮かぶヘリ空母『あきひで』。
長瀬源五郎によって破壊されたコントロールルームの代替として用意されているサブルームの
利きの悪い空調に顔を顰めながら、大志が答える。

「しかし、閣下が軍務違反を不問に付すと仰られた途端に飛び出していくとは……」
「それは吾輩にも少々想定の外だったがな」
「同門は見捨てておけぬ、と」
「素直でない男だがね、まったく不器用なことだ」

苦笑した大志の背後で、扉の開閉する小さな音がした。
傍らに立つ男が振り返り、問う。

「何か」
「永田町からの報告であります」
「読め」

促され、直立不動のまま報告書を読み上げる兵の声が響く。
しかし報告が進むにつれ、緩みかけていた室内の雰囲気が一変する。
即ち、奇妙な報告による困惑。
そして、事態の切迫を把握すると同時に、緊張へ。

「これは……犬飼め、なんて置土産を……!」
「しかし、それでは……!」
「確認を急げ!」
「各方面へのラインは常に維持しておけ、絶対に切るな!」

俄かにざわめき始めた室内に、ひとり座して呟く男がいる。
言わずと知れた九品仏大志、その人である。

「光岡、貴様を行かせたのは望外の僥倖だったかも知れん……」

一瞬だけ瞑目し、再び開かれたその目には燃えるような意志の炎が揺らめいていた。
かっちりと緩めることなく釦を留めた軍装に衣擦れの音を響かせて、大志が立つ。
急変する事態の収拾こそが、九品仏大志の本領であった。

―――攻撃衛星・天照の起動。
抑止力としてのみ存在していたはずのそれが、何者かの手によってコントロール不能に陥っている。
報告が確かであれば、待ち受けるのは前触れなき虐殺と泥沼の報復戦争。
国家の、否、世界の終焉を告げる鐘が鳴らされようとしていた。



 
【時間:2日目 AM11:32】
【場所:F−5 神塚山山頂】

究極融合体・長瀬源五郎
 【状態:シルファ・ミルファ・砧夕霧中枢(5824体相当、片腕再生中、片手再生中)】

天沢郁未
 【所持品:薙刀】
 【状態:不可視の力】
鹿沼葉子
 【所持品:鉈】
 【状態:光学戰試挑躰・不可視の力】

坂神蝉丸
 【所持品:刀(銘・鳳凰)】
 【状態:右足裂傷、背部貫通創、臓器損傷(重傷・仙命樹により急速治癒中)】
光岡悟
 【所持品:刀(銘・麟)】
 【状態:異常なし】


【場所:G−6 鷹野神社】

国崎往人
 【所持品:人形、ラーメンセット(レトルト)、化粧品ポーチ】
 【状態:健康・法力喪失】
長岡志保
 【所持品:不明】
 【状態:異能・ドリー夢】
春原陽平
 【所持品:なし】
 【状態:妊娠・ズタボロ】


【場所:ヘリ空母「あきひで」内サブコントロールルーム】

九品仏大志
【状態:異常なし】
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