マーダーズ・ヘヴン




かくして始まった、一人の男の命と名誉を駆けた鬼ごっこは、

「待て、待ってくれぇ〜! ……って、あれ?」

唐突に終わりを告げていた。
遥か視界の果てにあった少女の背中は、今や目の前にあった。
どうして、と考えているいとまこそあれ、突然背後に現れた異様な気配に
少女が振り向く。

 ―――とにかく、誤解を解かなきゃ!

その一心で必死に声を掛けようとする。

「なぁ君―――、」

だが、その声は少女の魂消える様な悲鳴にかき消されていた。
思わず動きを止める耕一。
少女の、まるで恐ろしいモノを映したかのように見開かれた瞳はしかし、
掠れて途切れた悲鳴と共にふつりと閉じられた。
どうやら意識を失ったものらしい。

「お、おい……どうした、大丈夫か……?」

ゆらりと崩れ落ちようとする少女の身体を受け止めようと差し伸べた手は、

「鬼……の、手……」

少女を抱きとめることなく、耕一の眼前に在った。
小さな音を立てて倒れる少女。
それを気に留める余裕もなく、耕一は目の前の現実を受け止めかねていた。


(力は、制限されてるんじゃなかったのか……?)

否、問題はそんなことではなかった。
あの時、少女を追って走り出したあの時には、

(鬼の力を使おうなんて、思ってやしなかった……)

鬼の力が、己の意思から離れたところで発動した。
その事実が、耕一を慄然とさせる。
暴走、の二文字が脳裏をよぎっていた。

「そんなこと、あるはずがない……!」

声に出したのは、自分に対する戒めのつもりだった。
そうだ、自分は決して鬼の力に呑まれたりしない。
足元に倒れている少女の、薄桃色の制服の裾から覗く腹の白さなどに
眼を奪われたりはしない。
捲れたスカートから垣間見える太股の肉付きなど気にも留めていない。
ふっくらとした唇も、時折漏れる吐息も、俺を突き動かしたりはしない。
美味そうだ、どう犯してやろう、そんな声など聞こえない―――。

耕一は走り出していた。
この場に留まっては何か良くないことが起こると、柏木耕一にはわかっていた。
良くないこと。
良くないこと。
想像してはいけない。

「―――――――――――――――ッ!」

口をついて出たのは、紛れもない異形の咆哮だった。


 ──同時刻、東京。

「どうなっている!?」
「原因がまったく掴めません!
 各被検体につけられたモニターが異常な数値を示しています!」
「危険度の高い個体は始末しても構わん!」
「駄目です、こちらからの信号を受け付けません!」
「何だと!」

仕立てのいいスーツを身にまとった男たちの怒号が飛び交い、白衣姿で
右往左往する人間たちの悲鳴に近い応答が交わされる中、そんな喧騒は
どこ吹く風、といった様子で上座に据えられた椅子に腰掛けていた男が、
傍らに影の如く控える者にだけ聞こえるように、ゆったりと口を開いた。

「君の仕業だね?」
「……何のことだい?」

答えた影は、まだ少年ともいうべき容貌をしていた。
この騒ぎの中にあって不安そうな顔一つすることなく、口元には笑みさえ
浮かべている。
周囲の喧騒などまるで存在しないかのように、淡々と会話を続ける二人。

「どういうつもりかな。制限を解除するばかりか、元来の力を強めてさえいるようだが」
「貴方が何を言っているのか、僕にはさっぱりわからないんだけど」
「この計画ばかりは、君の玩具にするわけにはいかないのだよ」
「じゃあ、どうするっていうの?」
「従ってもらうだけだ」
「君たち如きが、僕をどうにかできるとでも?」
「……これは、『君』にも深い関わりのある計画だと認識してもらっていたはずだ」
「…………さて、ね」

「まぁいいさ。この状況でも計画の本筋に支障はない。……我が国は負けんよ」
「へぇ、人の上に立つ御方は器が違うね。
 せいぜい足元をすくわれないように気をつけて」

軽口を叩く少年を無視して、男が立ち上がる。
それだけで、混乱を極めていた周囲の人間たちの動きがぴたりと止まった。
男が、ゆっくりと口を開く。

「諸君、……」



 ──同時刻、沖木島。

「……ふん、それで?」

まるでSF映画のような装甲を身につけた少女、来栖川綾香が無線の声に
耳を傾けていた。

『概要は以上です。計画に大筋での変更はありません。しかし……』
「わかってる。これまでみたいに一方的な狩りじゃなくなった。
 ……そういうことでしょ?」
『はい。現在、そちらに移送された異能者たちに課せられた制限は
 完全に解除されており、復旧の見込みは立っていません。
 また、一部の者は明らかに当初データを超えた能力を見せており、
 そちらは非常に危険な状況にあります。』
「ふーん……」

気の無さそうな返事を返す綾香に、無線の向こうの声がトーンを上げる。


『本当にわかっているんですか、綾香さん!
 今そちらは危険な状態なんですよ、とても!
 現状ではまだ認められていませんが、父を通して話をすれば、あるいは
 綾香さんには撤収していただくことも……』
「冗談じゃないわ」
『……は?』
突然発せられた鋭利な声に、無線の向こうの声が口を噤んだ。

「撤収? ……冗談じゃないって言ったのよ。いいじゃない、能力の開放上等。
 KPS−U1の実戦テストには最高の舞台だと思わない?」
無線の向こうの少年の、間の抜けた顔を想像して、綾香は言葉を続ける。

「ちょうど、物足りないと思ってたところよ。
 やっぱり雑魚をいくら潰したって、私の疼きは止まらない。
 ハンディマッチじゃ、私の渇きは癒されない……!」
ぺろりと唇を舐めると、綾香は傍らに立つ自動人形に視線を向ける。
「そうでしょ? セリオ」
「はい、綾香様」
事も無げに答える鋼鉄の相方に満足気な頷きを返すと、

「そういうわけだから、余計なことはしなくていいわ、久瀬君。
 計画通りのバックアップだけお願いね」

それだけを言って、通信を途絶する。
しばらく久瀬のヒステリーに付き合わされることになるであろう東京の面々の
迷惑そうな顔を思い浮かべてひとしきり笑うと、綾香は空を見上げる。
先刻まで晴れ渡っていた空には、いつの間にか暗雲が垂れ込めていた。
この先に待つ、心躍る惨劇を予見するかのような、不吉な曇天。

「面白く、なってきたじゃない……」

呟く少女を、鋼の瞳だけがじっと見つめていた。




 37:来栖川綾香
【時間:一日目13:00頃】
【場所:E-2付近】
【持ち物:パワードスーツKPS−U1、カラシニコフAKS−74U】
【状態:健康】

 60:セリオ
【時間:一日目13:00頃】
【場所:E-2付近】
【持ち物:なし】
【状態:正常】


 19:柏木耕一
【時間:一日目正午】
【場所:F-03】
【持ち物:不明】
【状態:鬼】

 71:長岡志保
【時間:一日目正午】
【場所:F-03】
【持ち物:不明】
【状態:気絶中】
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